29.名前を呼びたい
全然起きない。どうしよう、このままじゃ――
「旦那さま……、ナギ様っ!」
「……ん」
心結の呼びかけに応えるように、ナギがゆっくりと目を開けた。
まず掛けられた見慣れない薄い布に目をやり、そして心結を見る。今にも泣きそうな彼女を見て、夢からすぐ覚醒した。
「心結、どうした」
「ナギ様……いえ、旦那さまが目を開けなくて、驚いて……」
「……そうか」
普段通りのナギの返事。特段変わった様子がないところを見れば、やはり眠っていただけなのだろうか。だけど、あの顔色を見過ごすわけにはいかない。
「旦那さま、どこか調子が悪いのですか? 医者に連絡して、すぐ来てもらいましょう……?」
「心配ない」
「……っ」
取り付く島もないナギに、心結は唇を噛み締める。久我家にいた時と同じように、自分の意見を聞き入れてもらえないからだ。
久我家にいた時は「ごめんなさい」とすぐ謝っていた。出過ぎたことを言ってしまった、と。早く身を引いた方がひどいことをされないと知っているからこその対応だ。
だから自分の意見は言わない方がいいと、そう思って生きて来た。発言することで問題を起こしてしまうのであれば、口を開けなければいいと。
ただ頷いていればいい。
「分かりました」と言えばいい。
早々に諦めた方が、自分のためだ。
だけど今は違った。抗いたくなった。どうしても諦めたくなかった。
ナギのことが、心配だから――
心結は「旦那さま」と、ナギの前で頭を下げる。
「お願いです。どうか、医者を」
「……」
「どうか……っ」
「……はぁ」
ナギは一息ついた後。心結の肩へ手を置いた。
置かれた時の感覚で分かる。これは「了承」ではなく「拒絶」だ。
「医者は呼ばない」
「では、ヒスイさんに……!」
ナギの瞳がスッと細くなる。瞬間、肩が跳ね上がった。怒られると思ったからだ。
しかし頭上から降って来たのは、思ったよりも優しい声。
「ダメだ、明日にしろ。さすがのヒスイも、急には無理だからな」
「明日なら、いいのですか?」
「……お前に泣かれたら困るだけだ」
「ありがとう、ございますっ」
その言葉にこそ泣きそうになってしまった。だってナギが「医者にかかる」と言ってくれたのだ。それだけで嬉しい。これでもう安心だ。
(よかった、本当によかった……)
安心した心結が、ナギにかかった布を回収しようと手を伸ばす。ナギも同じことを思ったのか、二人の手が音もなく重なった。その時、心結はあることに気付く。
(いつもひんやりしている手だけど、さすがに冷たすぎるわ……)
ナギの手が、恐ろしいほど低音なのだ。氷を触っている感覚に近い。
「旦那さま……」
呼ぶと、至近距離で空色の瞳と視線が交わる。静かな瞳の奥に、わずかな動揺が見えた。まるで「心結に知られたくなかった」とでも言うように。
「旦那さま、手が……」
「――それより」
心結の言葉を、ナギは明らかに遮った。長い髪を揺らしながら立ち上がり、心結を見下ろす。
「さっき起こす時、俺のことを名前で呼んだか?」
「も、申し訳ありません。先ほどは、つい夢中になって……」
心結は、上げかけた顔を再び下げる。今度こそ怒られるかもしれない――だけど降って来たのは、笑い声にも似た穏やかなナギの声だった。
「いい。好きなように呼べ」
「え?」
「〝旦那様〟と呼ぶと、久我家のろくでなしを思い出すだろう。俺のことはナギでいい」
「でも……」
「気が向いたら、そう呼べ」
そしてナギは廊下を戻って行く。
寝起きだから喉が渇いたのだろうか? ナギが起きるまでに用意しておけばよかった――後悔しながら、さっきナギに言われた言葉を頭の中で繰り返す。
――俺のことはナギでいい
「ナギ、様……」
本当に、そう呼んでいいのだろうか。呼べるものなら呼びたい。勝吾のことを抜きにしても、心結には名前で呼びたい理由があった。
(前よりも、仲良くなれた気がする……)
旦那さまと呼ぶよりも、名前で呼んだ方が親近感が湧く。二人の距離が近づいた気がする。
「ナギ様、ナギ様……うん」
呼んでいいと言われたのだから、今度から名前で呼んでみよう。もしかしたら、その方がナギも喜んでくれるかもしれないし――と心結にしては積極的な想像をしたところで、足元に落ちた布を見る。反射的に、自分の手を動かした。ナギの温度を思い出すように。
(明らかに普通の体温ではなかった。それにナギ様はさっき、わざと話をすり替えた気がする……)
異常な手の冷たさ。そのことを質問しようとした矢先、ナギは「名前で呼べ」と言った。心結の話を遮ったのだ。それは、ナギにとって珍しいことだった。
「ナギ様……」
やはり体調が悪いのでは?
今日ヒスイさんを呼んだ方がいいのでは?
もっとナギの体調が悪くなったらどうしよう――
不安が渦巻く。その時、ナギが店へ戻って来た。心結は体調のことを詳しく聞きたかったけど、だまり屋の暖簾がゆらりと揺れる。どうやら次の客が来てしまったらしい。
「い、いらっしゃいませ」
歯がゆい思いをしつつ、心結は受付へ戻る。その際ちらりとナギを見るが、いつもの無表情で文机に向かっていた。しゃっきり伸びた背筋は、健康の証なのか、虚勢なのか。
「ご案内、いたします」
客をナギの前へ案内する。これからは客とナギの交渉時間だ。一番目と二番目に大切な物を聞き、客が了承したら治癒を始める。今回のお客も交渉をのんだ。治癒の開始だ。
「眩しくなる。目をつむっていろ」
客が持って来た物へ手をかざし、ナギが能力を使う。その時、緑光が、再びナギの顔を色白へと塗り替えた。それが治癒の光だと分かっていても、心結は恐ろしくなってしまい、あと一歩で止めに入るところだった。
そんなことを、一日が終わるまで何度も繰り返す。
お店が繁盛するのは嬉しい事だが、果たしてそれで良かっただろうかと。店内に飾っただまり屋の広告を見て、心結は何度も自問自答するのだった。
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