2.どこにも居場所はない
自分の夫が愛人を作っている。その愛人と出かけている。その二人と一緒に、わき役として添えられる自分。これだけでも滑稽極まりないのに、愛人の冴から向けられる視線が追い打ちをかけるのだ。
目が合えば睨まれ、心結と二人きりになる時は必ず罵詈雑言を吐かれた。早く離婚しろ、お前なんていらない嫁、私の方が勝吾様にふさわしい、と。その言葉に、心結は黙って頷くのだ。そうしないと冴からぶたれ、髪が抜けるまで引っ張られるから。散々な目に遭うのはもう嫌だ――既に心がズタズタに傷ついている心結は、冴に従順になるしかなかった。
もちろん勝吾相手でも同じだ。逆らえばひどいことをされる。だから心結は「畏まりました」と頭を下げた。そんな従順な心結へ「気味の悪い女だ」と捨てセリフを吐き、勝吾はご飯を食べずに行ってしまう。早朝から用意をしたご飯は、わずか一口で終了。こんな日も少なくない。
勝吾の足音が聞こえなくなると、心結はすぐ左目へ手を置いた。味噌汁が直撃した場所だ。瞼に手をかけると、ズルリと何かが滑る。
(もしかして皮膚がはがれた……?)
心配しながら引っ張ると、指についていたのはワカメ。まさか味噌汁の具が、自分の顔に乗る日がくるなんて――情けない自分に失笑さえ漏れない。とうに心結は笑うことを忘れてしまったのだ。
心結は無表情のまま痛みを我慢する。左目を押さえながら、畳に転がる豆腐や麩を拾った。豆腐の大きさが違うと怒鳴られたことがあったため、慎重に刃を運んだ。その豆腐も今や端が欠け、一口も手をつけられず畳へ転がっている。惨めだ。自分と同じくらいに――
「何をしている」
「よ、義正様……」
久我家の現当主、義正が項垂れる心結を発見する。畳に零れる味噌汁を見ても、心結の顔に張り付くワカメを見ても何も言わなかった。そればかりかいつものように心結を蔑む。
「畳を汚したのか。罰当たりな奴め」
「も、申し訳ございません……」
義正からの冷ややかな視線が刺さる。心結よりも畳を心配するあたり、勝吾の親だ。心結が隠した左目の下は全く眼中にないらしい。久我家において「心配されること」は皆無である。
その後も心結を罵倒した痕。やっと満足したのか、義正は鼻を鳴らして去った。残されたのは、すっかり冷えた味噌汁に体温を奪われていく心結だけ。外から差し込む木漏れ日だけが、彼女を気にするよう体を暖めていた。
(これから外出するなら、井戸へ行かなきゃ……)
さすがにみそ汁を被ったままでは外へ行けない。心結は急いで畳と台所を掃除した後。少ない荷物を片手に、一人森の中へ入っていく。勝吾の母・藤子から「一緒の風呂へ入らないでちょうだい」と言われて以来、ずっと井戸水で体を洗っている。誰にも見つからないよう屋敷から離れた木々の中で。
(寒い……っ)
いくら春になったとて、地下からくみ上げられる水は冷たい。しかも火傷した目の周辺が激しい痛みを伴った。心結は呻きながら、顔へ水をかけていく。どれくらい火傷を負ってしまったのか。痕は残るのだろうか。自分の顔がどうなっているのか知るのが怖い。しかし心結は勇気を出し、桶の水面に写る顔を覗き見た。
「よかった……」
熱かった割には火傷の痕が残っていない。血色の悪い青白い肌が、やや赤くなっている程度だ。
心結は、昔からこういうことがあった。
激しいケガをしたと思っても軽傷で済むことが多いのだ。
今回も然り。あれだけの熱湯をかぶっておいて、よく赤らんだだけで済むものだ。しかし全く問題がない、というわけでもなかった。瞬きを繰り返している内に、心結はわずかな異変に気付く。
(左がぼやけて見える。見えづらい……)
最初はゴミが入っているかと思ったが、どうやら違うらしい。何度目をこすっても焦点が合わず、ぼやけるのだ。左目の視界に写る全ての物が歪んで見える。それなのに右目は正常を保とうとするから、両目が拮抗して気持ち悪い。酔った感覚にその場へ座り込む。しかし胃に何も入っていないため、なんとか吐かずに済んだ。
心結は昨日の昼から何も食べていない。前述したように、食べる時間がとれないほど仕事を押し付けられるからだ。
通常、勝吾たちの料理、配膳、片付けが全て終わり次第、使用人たちは順番に食事をとる。しかし久我家の使用人からも見下されている心結は、いつも最後まで片づけをさせられる。やっと終わったと台所を見渡せば誰もおらず、最近はご飯さえ一粒も残っていない。つまり心結のご飯がない、ということだ。今回はそれが三食続いたため、心結の胃はとうに空っぽ。吐く物がない状態。
(やつれた顔……)
水面に写る顔を見て、心結は肩を落とす。頬がこけて、肌が青白い。今にも倒れそうだ。
しかし勝吾は心配しない。当主の義正にいたっては「痩せても儚くていいだろう」と、心結の体調を心配するばかりか、もっとご飯を抜けと指示する。最初は義正を鬼だと思った心結だが、ご飯を抜く事で思考力が奪われる。
少しずつ心を失った心結は、今となっては従順に従う奴隷そのものだ。何もかもがどうでもいい。この命、いつ消えても構わない――
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