17.ナギの変化
「ここは、桃源郷やったんか」
「とう、げんきょう……?」
頭上に疑問符を浮かべる心結に、ナギが「気にするな」と一言。同時に、ヒスイの目が大きく見開かれる。
「そうか。君が心結ちゃんか。思ったよりも小さくて驚いたけど……そうか。やっぱりナギも男やったっちゅーことやな」
「何を邪推している」
「そうムキにならんでもえぇって」
心結を見たヒスイは、まるで魂が抜けたようだった。あまりの心結の美貌に、光悦とした表情を浮かべている。しかし狐のように吊り上がった彼の目が鋭く光っていることを、ナギだけは見逃さなかった。
「初めまして~。僕はヒスイ。薬屋をやっとるよ」
「は、初めまして……」
丁寧にお辞儀をして挨拶するものの、目はナギへ向いている。助けを求める視線だ。気づいたナギは、軽く紹介を始める。
「……怪しい奴ではない」
紹介と言っても、これだけ。しかし心結は納得したようにヒスイへお辞儀をした。どうやら信用したらしい。
「皇心結と申します。これからよろしくお願いいたします」
「よろしく~。それより風邪を引いとるってほんま?」
「ほとんど治ってはいるのですが……」
ヒスイは「どれどれ~」と心結へ近寄る。しかし、いきなり高い壁がたちはだかった。見ると、二人の間にナギが割って入っている。ヒスイは「なに?」と、それはそれは楽しそうに目を細めた。呆れたナギは、ヒスイではなく心結へ体を向ける。
「薬をもらった。これを三食のご飯の後に飲め」
「あ! いつの間に俺の薬箱からとったんや!」
ヒスイは長い髪を振り乱し、自分の薬箱を抱える。面倒なことに巻き込まない内にと、ナギは、部屋へ戻るよう心結を促した。
しかし、心結は動かなかった。見ると、ナギから渡された薬を握って震えている。
「すみません、ナギ様……私いま、お金を持っていなくて」
「……」
何を言い出すかと思えば、そんなこと。ナギは、短く息を吐く。
「夫婦の間に商売など持ち掛けん。さっき、そう言ったはずだ」
「!」
心結は目をパチクリとさせ「そうでした」と呟く。彼女のその姿が、ナギの目には喜んでいるように映った。どうして喜ぶのか、その意味はよく分からないが。
ナギは「もう戻れ」と、彼女の背中を優しく押す。後ろ髪を引かれつつも、心結は素直に従った。
「お薬ありがたく頂きます。ありがとうございます、ナギ様。ヒスイ様も」
「あいよ~」
ヒスイが手を振り続けると、心結は廊下を歩く度に律儀にお辞儀をした。二人の姿が完璧に見えなくなるまで。静かになった店に、ヒスイの声が響く。
「ご執心やなぁ」
大事な商売道具である薬箱を抱えながら、ヒスイはまじまじとナギを見た。いつも感情を表に出さず淡々としているナギ。その口元が、まさか緩むことがあるなんて。
「ほんまに奥さんなんやな。もう一筋やん」
「……結婚はしたが好いているわけではない。言っただろう、利害関係にすぎないと」
「ふぅん」
ヒスイは薬箱を背負う。草履を履くために視線を下げると、長い髪が彼の顔を隠して影を作る。
「あの子が、能力者やったらなぁ」
「……ヒスイ」
まだ諦めていなかったか。じっとりとした視線を送れば、誤魔化すように笑うヒスイ。逃げるように暖簾に手を掛けるも、「そや」と再びナギへ向く。
「心結ちゃん可愛らしい子やけど、見た目がボロボロすぎるわ。そやけど磨けば光るで。今度、リリーにだまり屋へ行くよう頼んでおくわ」
「リリー……」
頭に浮かんだリリーを、煙たそうに手で払う。そんなナギを見て「色んな表情するようなったなぁ」とヒスイ。
「利害関係ゆうとるけど、それだけじゃないんとちゃう?」
「……どういう意味だ」
「鏡みてみってことや」
ほな、とヒスイは暖簾をくぐる。一気に静かになり、ナギは肩の力が抜けた。しかし休んでいる暇は無い。各方面へ結婚を知らせる書を作らないといけないのだ。背筋を伸ばして文机に向かう。その時、墨汁を垂らした硯を覗きこめば、自分の顔が反射した。ナギは小首を傾げる。
「いつもと変わらんではないか」
長すぎる前髪のせいで、口元だけが露わになっている。何も変化のない口だ。しかしヒスイに言わせれば、自分に何らかの変化があるらしい。……からかっているだけかもしれないが。
「……くだらん」
面倒な性格をしているヒスイだが、もらった薬は効果絶大だった。鉛のように重い体が、だんだんと軽くなっていく。ナギは真っ白の紙に筆を走らせる。仕事は、体調のいい内に進めておくに限る。
しかし廊下からコチラへ迫る足音が聞こえる。一つ、二つ。最初に顔を出したのは、自室で寝ているはずの心結だった。




