終: 後日談
東京、午後三時。 高層マンションの一室。大きな掃き出し窓が、騒がしい都会の喧騒を音圧の外側へと追いやっていた。室内の陽光は遮熱ガラスに屈折し、穏やかで透き通るような光となって部屋を満たしている。リビングの飾り棚には、ミニマリズムなインテリアとは少し不釣り合いながらも、一塵の曇りもなく磨き上げられた思い出の品々が整然と並んでいた。
色褪せた赤いバンダナは、凛がかつてバスケットコートで汗を流した証。銀色のヘアアクセサリーは、悠人が初めて彼女の武装の下にある優しさを見抜いた時の評価。そしてイエローのオーバーイヤーヘッドホンは、南国にいたあの年、螢が「ノイズキャンセリングの故障」を理由に凛へ手渡した記念品。
その時、ワークデスクから金属パーツが噛み合う小さな音がした。 悠人が専用のメンテナンスライトの下で、ピンセットを使い複雑な時計のムーブメントを校正していた。眼鏡をかけたその鋭い瞳は、歯車やゼンマイと向き合うとき、今もあの頃と変わらぬ執着を宿している。
「パパ、パパとママはどうやって知り合ったの?」 澄んだ子供の声が静寂を破った。六歳の長女、氷室 凪。氷室家特有の整った顔立ちをした彼女が、デスクの傍らで首を傾げている。四歳の弟、葉山 陽は絨毯の上に静かに座り、悠人の動作を真似て二つの積木を正確に揃えようとしていた。その眼差しには年齢に似合わない落ち着きがある。
悠人は手を止め、娘の好奇心に満ちた瞳を見て、口元を緩めた。 「それは……長い話になるな」 悠人はピンセットを置き、遠いデータの記憶を辿るように話し始めた。 「最初の頃、お前のママは凍りつくほど冷たかったんだ。学校の廊下で会うたび、その目はまるで物理公式をぶつけて周りを計算し尽くそうとしてるみたいで、今にも誰かを殺しそうな顔をしてたんだよ」
「妻の過去を背後で議論するのは、家庭内の摩擦係数を増やすことになるわよ、悠人」 冷ややかだが笑いを含んだ声が玄関から響いた。凛がリビングに入ってくる。氷室家特有の強力なオーラは、家族の姿を見た瞬間に氷が溶けるように和らいだ。彼女は荷物を置くと、自然な動作で悠人の背後に回り、その肩に手を置いた。
さっきまで子供の質問をいなしていた悠人の瞳は、凛が寄り添った瞬間に春の暖流よりも柔らかくなった。そして凛もまた、悠人の肩に顎を預け、甘える猫のように穏やかな表情を浮かべた。 「いつの間にか、パパが私の後ろ盾になってくれたのよ」凛は娘を見つめ、安堵に満ちた幸福そうな声で言った。「だから、私も自然に寄り添うようになったの」
「ママ! 私、あの棚の上の白い帽子を被ってみたい!」 娘が棚の最上段、透明なケースに保管された少し古い白いキャップを指差した。「あれ、すごくカッコいいもん!」
凛は一瞬、言葉を失った。視線の先にあるのは、高三の夏、黒い帽子とインターハイへの切符に別れを告げたあの夜、悠人が手渡してくれたもの。受験のプレッシャー、大学の研修……彼女が歩んできた道を見守り、この家庭という座標の原点となった帽子だ。
「あの帽子か?」悠人は透明なケースを見上げ、眉を上げた。「デザインは古いし、繊維も劣化の限界だ。正真正銘の『骨董品』だよ。もし欲しければ、明日パパが最新モデルを買ってあげる」
「ちょっと、悠人!」 凛の表情が不服そうに歪んだ。彼女は身を起こすと、悠人の肩を軽くつねった。 「あなたの論理はどうなってるのよ? それはあなたが私にくれた最初の正式なプレゼントじゃない。私は高三から大学の卒業式まで、ずっと大切にしてきたのよ」
悠人は肩への力を受け流しながら、いたずらが成功した子供のような笑みを浮かべた。忘れるはずがない。あの白い帽子は、葉山家で交わした約束の象徴であり、級友から唯一無二の存在へと変わっていく過程の目撃者なのだから。
「『家宝』だと言うなら、なおさら壊しちゃいけないな」 悠人はそう言いながら立ち上がり、腕を伸ばしてその思い出を封じ込めたケースを降ろした。 凛は優しくケースを開けた。白いキャップは光の下で今も清らかに輝いている。彼女は屈んで娘の頭にそれを被せ、丁寧にツバを調整してあげた。
「わあ! クール!」娘は凛のあの「誰にも屈しない」構えを真似て、弟を連れてリビングで追いかけっこを始めた。 子供たちがはしゃぐ姿を見て、凛の心は完全に解き放たれた。彼女はワークデスクに座る悠人の元へ戻ると、隣の椅子ではなく、長年の「物理的慣性」に従うように、自然と彼の膝の上に跨って座った。
悠人はその腰を引き寄せ、二人は互いの体温を感じる距離で見つめ合った。 「さっきのは、わざと言ったわね?」 凛は長い指で悠人の短い髪を整え、気だるげで親密な口調で言った。 「そう言わないと、そんな可愛い顔を見せてくれないだろう?」 悠人は低い声で答え、彼女を吸い込むような深い眼差しで見つめた。
凛は反論せず、ただこの男を見つめていた。その手からは微かに金属の匂いがしたが、その広い胸板こそが彼女の人生で最も安定した避難所だった。 彼女は悠人に微笑みかけた。それは氷室家の令嬢としての挑発的な笑みではなく、母性を湛え、温かく、完全に無防備な「妻」としての微笑みだった。
「あなたの論理は時々腹が立つけど……」凛は彼の耳元で、羽羽のように細く、しかし確かな声で囁いた。「ありがとう。私の座標を、あなたの傍に収束させてくれて」
「俺に感謝する前に、みんなに感謝しないとな」 悠人の視線が上がった。飾り棚の最上段には、二枚の集合写真が飾られている。 一枚は、ベルリンへ発つ時に空港で撮った写真。全員の目は少し赤いけれど、祝福の笑顔に溢れている。 もう一枚は一ヶ月前、高校や大学の仲間たちとレストランで撮ったものだ。
写真の中の悠人は凛の腰に手を回し、凛は凪と陽を両腕で抱いている。 その周りには、仲間たちの今の姿があった。 ショートヘアになったが温かさは変わらない咲良。 パートナーを連れ、証明写真のように真面目な顔をした佐藤。 肩を組み合う健太と健二、ようやく微かな笑みを浮かべた零司、全く変わらない小野寺、髪を後ろで結んだ沙耶加、相変わらず冷静だが隣の彼女が満面の笑みを浮かべている輝。
そしてその隣には、相変わらず「ツン」とした表情をしながらも、体は正直に彼氏に寄り添っている螢。二人の身長差は、微笑ましいコントラストを描いている。
誰もが、歳月という名の美しい形跡を刻んでいた。 窓の外、東京の夕陽が高層ビルの間に沈み、部屋を黄金色の光輪で包み込んでいく。壊れたイエローのヘッドホンの傍らで、二人の影は重なり合い、この長い理系恋愛物語の中で、最も完璧な、揺るぎない「絶対常数」となった。
完
あとがき(作者より)
この物語を描くにあたって、私は三つの異なる結末を用意していました。しかし、最終的にこうして戻ってきて、この作品の登場人物たちに最も相応しい、完全な「終止符」を打つことを選びました。
理由はとても単純です。私自身、彼らを放っておくことができなかったからです。
ですが、今回が本当に最後の結末となります。どうか彼らに、心からの「さよなら」を告げてあげてください。そして、もし私の新しい物語が始まったら、ぜひまた会いに来てください。
もし、この作品を心から愛してくださったのであれば、その声を届けていただけると嬉しいです。
以上をもって、本編を完結といたします。ありがとうございました。
-WE/9




