19.相変わらず、精密な朝の光
早朝四時十五分、京成電鉄の「スカイライナー」が深い藍色の夜幕を切り裂いて疾走していた。 車内は空っぽで、モーターの低い振動音と規則的なレール打撃音だけが交差する。車窓の外、東京郊外の建物がボヤけたネガフィルムのように飛んでいく。それは、彼らがこの街で過ごした二十数年の最後のシルエットだった。
悠人は窓際に座り、重い機材バッグを背負っていた。それは彼の生活の糧であり、凜を守るための武器でもあった。隣に座る凜は、今日、限りなく純粋な装いをしていた。白い立ち襟のフーディーに、同色のプリーツスカート。 そして何より目を引くのは、彼女の象徴であり、朝の冷光の中で透き通るほど雪白いハイソックスだ。ソックスは彼女の細いふくらはぎを隙間なく包み込み、シワ一つない。それは、決して侵してはならない絶対的な境界線のようだった。彼女はうつむき、膝の上で重ねた両手の指先を、力を込めて白くさせていた。 白いベースボールキャップは相変わらず深く被られ、今の複雑な瞳を隠している。
「凜」悠人が静かに沈黙を破った。その声は空っぽの車内で格別に温かく響いた。「君の計算では、今の僕たちは東京の原点から何キロのオフセット(偏差)がある?」 凜はしばらく沈黙した後、頭を微かに動かした。 「……座標の偏差量は時速百六十キロで増加中よ。悠人、私の脳は新しい座標系を構築しようとしているけれど、データが……混乱しているわ」 悠人は手を伸ばし、凜の冷たい手の甲を広い掌で覆った。彼女の指先がかすかに震えているのが伝わる。それは寒さのせいではなく、長く自分を護ってきた「防御機構」を失うことへの恐怖だった。
「なら、計算するのはやめよう」悠人は窓の外に広がり始めた微かな光を見つめた。「乱れたデータは僕に預けて。ベルリンに着くまでは、君は呼吸することだけを考えていればいい。残りのフォーカス合わせは、僕がやるから」 凜は悠人の肩に寄り添い、白い帽子の庇を彼の大コートに預けた。この瞬間、疾走する列車は世間から隔絶されたラボとなり、二人の体温だけがゆっくりと交換され、国境を越えるための最後の周波数を校正し合っていた。
「成田空港駅です」というアナウンスが響くと、凜は深く息を吸い、再び背筋を伸ばした。彼女は依然として帽子を被り、戦場へ赴く兵士のように、最後の武装を固く守っていた。
成田空港第3ターミナルのロビーは、影のない明るい冷色灯で満たされていた。早朝にもかかわらず、スーツケースのキャスター音と多言語のアナウンスが入り混じっている。 悠人がカートを押し、二人の荷物と重いカメラ防湿庫を運んでいた。国際線の出発ゲートへと続く角を曲がったとき、凜の規則正しい歩みが突然止まった。
「J」カウンター前の巨大な柱の下に、極めて不釣り合いな集団が立っていた。 「おい! 遅いぞ! 電車の中でピント合わせすぎて乗り過ごしたかと思ったわ!」健二の大声がロビーに響き渡った。隣には、目を赤くしながらも胸を張る健太と咲良が立っている。 輝は後ろの柵に寄りかかり、「記録」の象徴であるカメラを手に、光輪の中に入ってきた悠人と凜へ小さく頷いた。 佐藤と零司という眼鏡をかけた生真面目な二人が、珍しく並んで立ち、ポケットに手を入れたまま深い眼差しで旅立つ二人を見つめている。 もう一人の眼鏡をかけた不真面目な小野寺も漫画を閉じ、ゆっくりと悠人を見た。
「みんな……」悠人は驚き、その仲間たちを見つめた。 「私を見ないで。沙也加お姉様が、今日来なかったら一生『あの場面』は見られないって言ったのよ」 蛍が沙也加の後ろから現れた。厚手のフーディーを着てポケットに手を入れた彼女は、頑なに凜と目を合わせようとせず、空港の床だけを見つめていた。
沙也加は優雅に歩み寄り、整理された「ベルリン冬季防寒心得」を凜の手に握らせた。そして悠人に向き直り、年長者としての厳しさと温情を込めて言った。 「悠人君、あなたは優秀な修理屋だけど、ベルリンの光は冷たいわよ。もし凜のレンズを曇らせるようなことがあったら、私がすぐに飛んでいってあなたを解体してあげるわ」 「命懸けで、彼女の温度を維持します」悠人は笑い、力強く答えた。
その時、ベルリン行きの最終搭乗案内が流れた。ロビーの明かりが磨かれた床に反射し、散らばったデータポイントのように見える。全員が静まり返り、喧騒は重厚で厳かな儀式感に取って代わられた。 東京のあちこちに散らばり、「過去」と「守護」を象徴するこの神秘的な力たちが、今、円を描いて二人を包み込んでいる。彼らは単に見送っているのではない。高校時代から層をなして武装され、データと孤独に包まれてきた一つの魂が、正式に遠方へと踏み出す瞬間を見届けているのだ。
凜は黄色い境界線の前に立つ自分の白いスニーカーを見つめ、そして自分のために集まった仲間たちを見た。彼女は、五年間自分を守ってきた白い外殻が、この重い情熱の熱量によって、微かな亀裂を生じさせているのを感じていた。
イミグレーションの黄色い境界線は、明るい照明の下で「過去」と「未来」を切り裂く境界のように鋭く引かれていた。 悠人は足を止め、凜と向き合った。空港の喧騒も、キャスターの音も、遠くのエンジン音も、すべてが無形の力場によって遮断されたかのようだった。
「凜」悠人は手を伸ばし、五年間使い込まれて少し古びた白い帽子の庇に指をかけた。声は低く、落ち着いている。 「この帽子は五年間君を守ってきたけれど、もう、お別れを言う時だと思うんだ」
凜の体が一瞬硬直したが、悠人の眼差しを受け、ゆっくりと肩の力を抜いた。彼女は退くことも避けることもせず、ただ静かにそこに立ち、悠人の手の温かな力に身を任せた。五年間被り続けてきた白い帽子がゆっくりと押し上げられ、そして取り去られた。
その瞬間、抑圧されていた漆黒の長髪が解き放たれたインクのように肩へと流れ落ち、冷色灯の下で柔らかな光を放った。帽子の庇の下に五年間隠されていた瞳が、初めて完全な形で光と人々の視界の中に現像された――それは深く、澄み渡り、世界を観測したいという渇望に満ちた二つの星だった。
凜は悠人から帽子を受け取り、泣きじゃくる蛍のもとへ歩み寄った。 「蛍、これをあなたに」 凜の声は相変わらず清冷だったが、そこには極寒を燃やし尽くすような温度があった。自分のすべての防御と孤独を象徴した帽子を、慎重に蛍の手の中に置いた。
「カチャッ」 その受け渡しが完了した瞬間、輝が正確にシャッターを切った。その写真は顔ではなく、受け渡される帽子と、その後ろでなびく凜の長い髪にフォーカスを合わせていた。
悠人は再び凜の手を握った。二人は二度と振り返ることなく、黄色い境界線を力強く踏み越え、搭乗口へと続く自動ドアの向こうへと消えていった。
「うっ……」 蛍は唇を噛み締め、最期の理性を保とうとしていた。しかし、あの白い後ろ姿が消えた瞬間、彼女のシステムは完全に崩壊した。凜の体温が残る帽子に顔を埋め、喉の奥から押し殺した嗚咽を漏らした。 「大丈夫よ、蛍ちゃん、大丈夫……」咲良は目を潤ませ、すぐに駆け寄って左側から彼女を抱きしめた。 「これは必要なプロセスよ」沙也加が静かに言い、右側から蛍と咲良をまとめて抱き寄せた。
成田空港のゲート前で、三人の少女の影が重なり合った。 そして九千キロの航路の果てで、再フォーカスされた座標は、比類なき鮮明さを携えて、自分たちの世界へと航行していた。
エピローグ:ベルリン、午前八時
朝は、もはや私一人が制定する秩序ではない。 冷気の中で、私は複数の呼吸音と、水の流れる音よりも温かなリズムを聞く。
ベルリンの早朝は冷たいブルーの色調を帯びている。蛇口から出る水は相変わらず冷たいが、私はもう、それを使って感情を凍結させようとは思わない。 水を掬い、顎を伝い落ちる滴を感じる。顔を上げ、鏡の中の自分を見る。 私の名前は、氷室 凜。 他人の目には、私は相変わらず冷静で、相変わらず正確さを追求しているように映るだろう。 けれど彼らは知らない。私のシステムには、消去不可能な一組の定数が書き込まれていることを。その定数は「葉山悠人」という。
タオルで顔を押さえる動作は、以前と同じく規則的だ。化粧水、乳液。パッティングのリズムの背後で、隣の部屋からカメラのシャッターを切る乾いたテスト音が聞こえてくる――悠人が今日の出発の準備をしている音だ。 かつて、世界は制御不能な変数でできていると思っていた。けれど今は分かる。変数が存在するのは、フォーカスを合わせる過程に意味を持たせるためなのだと。
クローゼットを開けると、白いフーディーとプリーツスカートが整然と並んでいる。 服を着て、ボタンを一番上まで留める。これは世界への礼儀であり、防御ではない。 制御不能になるのは好きではないけれど、「偏差」を受け入れることは覚えた。悠人が教えてくれたのだ。光が屈折する時こそ、虹の色が見えるのだと。
ベッドの端に座り、雪白いハイソックスを引き上げる。今回も、ソックスの高さは正確に膝の下で止まる。この純白はもはや世界との境界線ではなく、この感情に対する私の純粋な告白だ。 九千キロも離れた場所へ行くのは怖くないかと聞かれたことがある。 凜は立ち上がり、姿見の前に立った。服には塵一つなく、瞳には潤いのある厚みが宿っている。 最後に、彼女の手は習慣的に机の上へと伸びた。 かつて私に寄り添った、黒い、そして後の白いベースボールキャップ――。 それは今、東京で蛍を守っている。
[特寫:彼女は両手で滑らかに流れる黒髪を軽く整えた。帽子の庇を押し下げるのではなく、顔を上げ、澄み渡り、鋭く、そして恐れのない瞳で、差し込む陽光を真っ向から受け止めた。]
「凜、準備はいい?」 悠人がドアの外で静かに声をかける。 「もうすぐ終わるわ。少し待って」
今日も、私はこの少しだけ騒がしい世界を迎え入れる準備ができている。
こちらは、氷室 凜。 オーバー(以上)。
皆様ありがとうございました。
-WE/9




