15.熱平衡
本来なら一人暮らしに適した凜の小さなアパートは、今や六人もの人間が詰め込まれたことで、熱気に満ちあふれていた。玄関には、悠人のワークブーツ、健二の目立つバスケットシューズ、輝の洗練された革靴、そして沙也加のエレガントなハイヒールが整然と並んでいる。 そして最も目立つ場所には、凜のいつもの白いスニーカーが置かれ、その隣には蛍の少し乱れた同モデルの靴が寄り添っていた。
リビングの中央には大きな電磁調理器が置かれ、鍋の中の昆布出汁がグツグツと音を立てている。健二は袖をまくり上げ、肉の茹で加減に関する科学的比率を大声でまくしたて、輝は隣で静かに座り、片時も離さないカメラでこの貴重な「生活感」を霧のような湯気の中に収めていた。
「健二、それ以上納豆を入れないで。光学ラボ出身の人間にとって、それは最大の化学汚染よ」沙也加は優雅に和牛をくぐらせながら、容赦なく突っ込んだ。
この賑やかな宴の中で、蛍だけが異常なほど沈黙していた。彼女はソファの隅に縮こまり、黄色い大きなヘッドホンをつけ、飲みかけの麦茶のコップを握りしめていた。テーブルを囲む見慣れた顔ぶれを見つめ、そしてその横に積み上げられた、ドイツ語のラベルが貼られた段ボール箱の山に目をやった。
「蛍、肉をもっと食べなよ。高三の脳力消費は激しいんだから」悠人が最も柔らかい肉を蛍の皿に取り分け、いつものように優しく声をかけた。
その気遣いが、何らかの敏感なスイッチに触れた。 蛍はその肉を見つめると、前触れもなく目先を赤くし、勢いよくヘッドホンを剥ぎ取った。声は押し殺していた泣き声とともに漏れ出した。
「なんで……なんで今なのよ? みんなは卒業して夢を追いかけて、沙也加お姉様は遠くの大学院に行って……。私だけ受験勉強で取り残されるの? 私に悩みがある時、誰がピントを合わせてくれるの? 数値が計算できない時、誰が一緒に夜更かししてくれるのよ!」
蛍にとって、この小さなアパートはかつての葉山家と同じだった。凜の住処であるだけでなく、彼女にとって世界で唯一の安全な座標だったのだ。しかし今回は、彼女が去るのではなく、周りのみんなが彼女を置いて去っていくのだ。
リビングは静まり返り、鍋の湯気だけが立ち上り続けていた。
「蛍」沙也加は箸を置き、蛍のそばに歩み寄ると、彼女を優しく抱きしめた。それは沙也加特有の包容力だった。「物理的な距離は定数だけど、信号の強度は繋がりの深さで決まるのよ。私たちは消えるわけじゃない。サーバーを少し遠くへ移設するだけ」
「おい、ちびっ子」健二は珍しくおちゃらけた態度を捨て、蛍の頭を力一杯撫でた。「アスリートの意志力をなめるなよ! 俺はコートにいなくても、いつでも飛んで帰ってきてバスケを教えてやる(あるいは目を覚まさせてやる)からな」
輝は光と影の境界に座ったまま、淡々と口を開き、温泉旅行の時の集合写真を取り出した。 「蛍、このネガをずっと見ていたんだが、君は誰かの影なんかじゃない。君はこの写真の中で最も明るい光点だ。光は距離によって消えることはない。レンズを通じてより遠くへ拡散していくだけだ」
そして最後は、ずっと蛍の隣に座っていた凜だった。 彼女はベルリンに関する資料の束を置き、ゆっくりと細い手を伸ばして、蛍の震える指を握った。
「蛍。量子もつれの理論によれば、たとえ九千キロ離れていても、一度繋がりを持った二つの粒子は状態が同期し続けるわ」 凜の声は清冷だが、確固たる意志がこもっていた。彼女は白いベースボールキャップをわずかに深く被り直し、瞳には守護者としての厳しさと温情を宿らせた。 「あなたは私の従妹であり、唯一の伝承者よ。私たちが戻るまで、しっかり自分を律しなさい。あなたにとって受験のプレッシャーは学力ではなく、周囲の環境が全置換されることにあると分かっているわ。けれど、あなたなら適応できる。これは任務よ。約束して、いいわね?」
「専門用語」だらけだが限りなく温かい慰めを聞き、蛍はついにこらえきれず声を上げて泣き出した。数ヶ月間溜め込んできた孤独感を、すべて吐き出すように。
悠人はその光景を見つめ、輝と視線を交わした。この会食は終わりではなく、盛大な「校正」なのだと確信した。
「よし、蛍、泣き止んだらしっかり食べろよ」悠人は笑ってティッシュを彼女に手渡した。 そして自分のカメラを持ち上げ、そこについているストラップを指差した。「ベルリンの修理店には、君のために『チーフ・リモート・アドバイザー』の席を特等席で用意してあるからね」
立ち上る鍋の湯気、騒がしい友人たち、そして泣きはらした顔の天才少女。この狭いアパートで、彼らは大学編の最後となる熱平衡を、完璧な形で完結させた。




