13.不可逆反応の起点
これがあらゆる決断の起点だった。 T大物理学系のスーパーコンピュータ室には、冷却ファンの低いうなり声だけが響いている。凜はメインコンソールに座り、画面上で跳ねる複雑なスペクトルとデータを見つめていた。それはドイツのマックス・プランク研究所(MPI)から提供された研究課題――「非線形光学における時間結晶の観測」だった。 そこは物理学の禁域であり、彼女の魂の帰るべき場所でもあった。
「凜」悠人がドアを押し開けて入ってきた。手にはドイツ駐日大使館からダウンロードした、びっしりと文字が埋まったビザ申請書類の束がある。 「調べたよ。ベルリンのクロイツベルク地区には老舗のフィルムカメラ店がいくつかあって、そこの店主たちはライカのシャッター修理に極めて高い技術を求めているらしい」 悠人は彼女の傍らに歩み寄り、その書類を机に置いた。凜はデータを見ることなく、悠人の手へと視線を移した。彼女の実験器具を校正するために機械油で汚れ、それでも変わらず穏やかで力強い、その手を。
「悠人、もし私がこの契約にサインすれば、あなたの世界線は強制的に歪められることになるわ」凜の声は、珍しく微かに震えていた。「ここでの顧客を失い、慣れ親しんだ生活の周波数を失う。私のロジックでは、これはあなたにとって不公平な交換よ」
悠人は笑い、マウスを握る凜の手の上に、そっと自分の手を重ねた。 「凜、僕にとって公平かどうかのアルゴリズムは、何を失ったかではなく、僕のレンズの中に何が残っているかで決まるんだ」 彼は彼女に顔を近づけ、職人特有の純粋な眼差しを向けた。 「もし僕がベルリンに行かなければ、僕が直したどのカメラも、君がいなくなった後の影しか写せなくなる。そんな人生こそ、僕には許容できない誤差なんだ」
凜は画面上の「招待を承諾する(Accept Invitation)」というボタンを見つめた。 彼女はゆっくりと、もう片方の手も悠人の手の上に重ねた。二人の手が共にマウスを握り、その瞬間、物理法則は消失したかのようだった。ただ二つの魂が、九千キロ先の座標に向けて予行演習を行っているだけだった。
「これを押せば、私たちのシステムは不可逆反応に入るわ」凜が低く言った。 「なら、押そう」悠人が応えた。
「カチャッ」 マウスのクリック音は、シャッターが切れる瞬間のように清らかに響いた。画面には「確認成功」のダイアログが表示され、続いてベルリンの地図がダイナミックにロードされていく。その瞬間、遠いヨーロッパの冷たい空気が光ファイバーを通じて、この蒸し暑いラボへと吹き込んできたかのようだった。
決断が下されたその時、凜は突然立ち上がり、ロッカーへと歩み寄った。 彼女は悠人の目の前でラボの白衣を脱ぎ捨て、黒いジャケットに着替えた。そして、あの白いベースボールキャップを深く被り直した。
「悠人、これは新しい始まりよ」 凜は再び彼の前に立ち、あの絶対的に精密な気勢を取り戻していた。「これより、私たちの航路はベルリン。出航時期:一年後。目標:異郷の現像室で、私たちの共通の周波数を見つけ出すこと」
「了解、氷室教授」悠人は茶目っ気たっぷりに指を鳴らし、その瞳には守護の決意が満ちていた。




