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12.箱根(はこね)現像

朝六時の東京、街はまだ薄い朝靄に包まれていた。レンタルしたグレーのSUVが凜のマンションの下に停まり、エンジンが低いアイドリング音を響かせている。 「おい!主役たちが遅すぎるぞ!こんな効率じゃ箱根に着く頃にはお湯が冷めちまう!」健二が運転席の窓から身を乗り出し、マンションの入り口に向かって叫んだ。鮮やかなオレンジのスポーツフーディーを着た彼は、この静かな早朝には不釣り合いなほど活力に溢れていた。


後部座席で静かにマニュアルカメラのレンズを拭いていた輝が、顔も上げずに返した。「健二、うるさい。今は光が一番柔らかい時間だ。お前のデシベルは空気の質感を壊す」 黒のタートルネックにロングコートを羽織った輝の冷徹で整った顔立ちは、彼を静止した肖像画のように見せていた。彼は誰の感情沙汰にも関わらない。彼にとってこの旅の唯一の意義は、数枚の「正しい」写真を切り取ることだった。


その時、マンションのドアが開いた。 大きな登山リュックを背負った悠人が、片手に凜のシルバーのスーツケースを提げて現れた。後ろを歩く凜のコーディネートは、相変わらず非の打ち所がない「氷室スタイル」だった。ダークグレーのロングコートに黒のニット、ネイビーのパンツの裾からは、大雪の中でも絶対的な純潔を保っていた白い靴下と白いスニーカーが覗いている。 「予定通り到着よ」凜は白いベースボールキャップを深く被り直し、澄んだ瞳で車内の面々を見渡した。 続いて、オーバーサイズの紫のフーディーに明るいイエローのヘッドホンをつけた蛍と、優雅なトレンチコートを纏った大人な雰囲気の沙也加が出てきた。


「よし、全員揃ったわね」沙也加が自然に助手席に座り、健二にウィンクした。「健二君、運転技術が食べるスピードと同じくらい早いことを祈るわ。うちの『データカップル』は長旅の誤差には弱いのよ」 ドアが閉まり、六人の個性を乗せた閉鎖系クローズド・システムは、箱根の山道へと発進した。


車内では、蛍が自然に凜の肩に頭を預けて眠りにつき、凜はノートPCを開いて現在地から大涌谷までの最適な標高上昇曲線を計算し始めた。後部座席の悠人は、バックミラー越しに凜の真剣な横顔を見つめ、輝に小声で言った。「輝、山に着いたら光と影の境界線が君の単焦点レンズに合うと思うよ」 輝は手を止め、窓の外を流れる景色を見つめて淡々と答えた。「ああ。あそこの霧が、さっきのお前の視線みたいに暖色を帯びているといいんだがな」 悠人は一瞬言葉に詰まり、決まずそうに外を見た。車内には健二の豪快な歌声と沙也加の絶え間ないツッコミが響き、旅の最初の「ノイズ」を奏でていた。


箱根の午後、深い霧が山道を閉ざし、一行は林間に隠れた百年の歴史を持つ温泉旅館に到着した。木製の引き戸が開く音と共に、六人はそれぞれ男湯と女湯へと分かれた。


室内の湯船は湯気に包まれ、硫黄の香りが肌に粘りつくように漂っている。 凜は脱衣所で白黒はっきりとした「武装」を脱ぎ捨てた。水霧の中の彼女のラインは細く、清廉だった。陽の光を浴びることのない肌は透き通るように白く、鎖骨のくぼみには小さな水滴が溜まっている。背中の曲線は、お湯を汲む動作に合わせて優雅な関数曲線を描いていた。


「ふう……凜、あなたのデータから脳みそを差し引けば、その体はかなり女らしいわね」 沙也加が湯船に入り、豊かな胸元までお湯に浸かった。濡れた髪をかき上げ、成熟した女性特有の余裕を見せる。青石の縁に腕を伸ばし、熱気に潤った肌が健康的な赤みを帯びていた。 蛍は痩せた仔猫のように膝を抱えて湯加減を窺っていた。広いフーディーを脱いだ彼女はさらに華奢に見え、呼吸に合わせて肩の肩甲骨が微かに上下している。 「凜お姉様……帽子を被っていない時の方が、目は怖くないね」蛍は小さく呟きながらお湯に滑り込み、鼻先まで浸かって霊性溢れる瞳だけを覗かせていた。


凜は静かに座り、熱エネルギーに包まれた。お湯の下で朧げに見える自分の足を見つめ、小さく口を開いた。「ここは本当に穏やかね。思考のスピードが落ちていくのを感じるわ」 「スローダウンして正解よ」沙也加は微笑み、凜の肩に指先でお湯をかけた。「今は数値じゃなく、温度を感じるべきだと脳が言っているのよ」


一方の男湯は開放的で、露天風呂は深い渓谷に面していた。 健二が砲弾のように飛び込み、大きな水飛沫を上げた。鍛えられた広い肩と厚い胸板が熱気の中で蒸気を発し、原始的な生命力を放っている。「最高だ!これぞ男のロマン!」と彼は顔を拭いながら叫んだ。


輝は湯口の近くで静かに座り、うなじに当たるお湯に身を任せていた。彼の体は自律した引き締まりを維持し、筋肉のラインは誇張されず、精巧に磨かれた金属部品のように鋭い。目を閉じ、高い鼻筋を水滴が伝い落ちる。彼は会話には加わらないが、その冷徹な佇まいは霧の中の彫像のようだった。


悠人は二人の間に座り、腕には機械修理の際にできた細かな傷跡が微かに残っていた。両手を後ろにつき、霧に霞む空を見上げた。 「悠人、お前さ」健二が泳いで近づき、真剣な目を向けた。「車で言ってたベルリンに修理店を出すって話、本気か? 腕は確かだけど、言葉も文化も違う場所だ。ライカを直すより万倍難しいぞ」 悠人はすぐには答えず、湯面に映る自分の影を見つめて静かに、しかし断固として言った。 「健二、僕はたくさんの古いカメラを直してきた。部品が生産終了していたり、規格が全く合わなかったりしたけれど、いつだって動かす方法を見つけてきた。僕にとって、凜は代わりのきかないオリジナルパーツなんだ。彼女がいなければ、僕のフォーカスシステムは永遠に校正できない」


輝が目を開け、悠人を一瞥した。魂を見透かすような深く冷ややかな眼差し。「悠人」輝が淡々と告げた。 「その『固執』を『駆動力』に変えられるなら、環境の偏差値などお前のピントには影響しない。お前がそこにいる限り、光はそこにある」 「ありがとう、輝」悠人は笑い、掌でお湯を顔に当てた。


その時、竹垣の向こう側から声が聞こえてきた。 「沙也加お姉様、あなた……大きすぎよ!」 「ハハッ!氷室家の天才たちは発育不全かしら? ハハハ!」 「沙也加、触らせて」「私も!」 「え? いいわよ」「柔らかい……」「じゃあ私も二人のを触るわね」 その短い会話に、男湯の面々はプロセッサがオーバーヒートする感覚を味わった。 「うわあ!沙也加、揉まないで!」 「んあっ!沙也加お姉様、恥ずかしい……」 「からかうのって楽しいわね!二人とも弾力がいいわ。大きさは私には勝てないけど、ハハハ!」 男湯は完全に石化していた。


温泉の後、宴会場は酒と料理の香りに包まれていた。健二は清酒の飲み過ぎで畳の上でいびきをかいて寝転び、沙也加と蛍は旅館の知恵の輪に興じていた。沙也加が優雅に木片を動かし、蛍は不満げに三秒で構造の欠陥を指摘する。 輝は一人隅で、マニュアルカメラを手に残った蝋燭の火で測光していた。その瞳は相変わらず冷静で、賑やかな社交の場は彼に関係のない背景ノイズでしかなかった。


悠人はそれを見て、テラスへと続く障子をそっと開けた。 外の空気は冷たく、浴場の熱気とは劇的な対照をなしていた。そこにはすでに凜が立っていた。旅館の淡いブルーの浴衣を纏い、帯をきつく締めた腰のラインが細く際立っている。寒さを防ぐためか、浴衣の下には依然として清潔な白い靴下を履いており、それがこの曖昧な温泉郷における彼女の最後の矜持のように見えた。


「悠人、来たのね」凜は振り返らなかった。帽子は被っておらず、黒い長髪が夜風に乱れて彼女の横顔を半分隠していた。 「ここは寒いよ、中に入らないか?」悠人が隣に立つ。二人の腕の間隔は二センチにも満たない、互いの体温を感じ取れる限界の距離だった。 「ここの景色は綺麗だわ」凜は空を仰いだ。箱根の山頂には光害がなく、無数の星が輝いている。 「悠人、シリウスを見て。視等級はマイナス1.46、地球からの距離は8.6光年。私たちが地球上でどう動こうと、その座標は人類の尺度ではほとんど変わらないわ」 悠人は静かに聞いていた。これが凜が不安な時の防御的な科学解説であることを知っていた。


「さっき計算していたの」凜は木の床を踏む白い靴下を見つめた。「私がヨーロッパへ行き、あなたが東京に残れば、物理的距離は9,000キロ増える。通信の遅延、時差、そして感情の減衰係数を考慮すると、このシステムの崩壊確率は87.4%よ」


「じゃあ、その9,000キロをゼロに縮めたらどうなる?」悠人が不意に、カメラの焦距を議論するかのように平穏な口調で言った。 凜は驚き、悠人を直視した。 「健二や輝とも話したんだ」悠人は微笑み、凜の耳元にかかった髪をそっとかき上げた。指先が彼女の冷たい頬に触れる。「修理屋はどこでだって生きていける。ベルリンでもロンドンでも、君が行きたい場所ならどこへでも行く。君がそこにいる限り、僕のフォーカスシステムには標的があるんだ」


「悠人……それは合理的じゃないわ。私のために、ここで築いた顧客も生活も捨てるなんて……」 「凜、君こそが僕の『絶対座標』なんだ」 悠人は彼女の言葉を遮り、強い眼差しを向けた。「君がいなければ、僕が直したどのカメラも、僕が本当に見たい世界を写すことはできない」


凜は沈黙した。その瞬間、彼女の脳内のあらゆる公式やアルゴリズム、確率論が停止した。月光に照らされた悠人の鼻筋を見つめ、その温かな真実味に、彼女は初めて「未来」に計算は不要なのだと感じた。 彼女はゆっくりと、巨大な慣性を克服するように、悠人の肩に頭を預けた。


「……誤差修正、完了したわ」凜は消え入りそうな声で囁いた。「悠人、次の航路の偏差値も、私と一緒に背負ってくれるかしら」 「ああ、約束するよ」


障子越しに、薄暗い室内で輝がシャッターを切った。フィルムが巻き上げられる微かな音が、星空の下で座標を合わせた二人の姿を、銀塩の中に永久に刻み込んだ。彼は感情には関与しないが、この一枚が旅の最も精密な「現像エビデンス」になることを知っていた。


今の二人はまだ知らない。彼らの写真を盗撮する任務が、高校から大学まで三人もの人間に引き継がれてきたということを。

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