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100%の集中モード  作者: WE/9
大学セクション

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7.深山の実習

大二から大三への進級を控えた夏休みの前夜。悠人が働く写真事務所には、全国の大学から届いた志願書が山積みになっていた。 世界的写真家・高木が今回進めるのは「動態光影捕捉」という極秘プロジェクト。精密機器を修復でき、かつ極限の野外環境でも光の変化に対応できるアシスタントを求めていた。


悠人は連日、事務所で書類の整理を手伝っていた。輝かしい学歴や経歴を眺めながら、彼は心のどこかで不安を感じていた。高木が自分からの立候補を待っているのは分かっていたが、自分にはまだ何かが足りない気がしていた。


その日の深夜、悠人は事務所の古びたソファで光学レンズの補正公式を研究していた。 隣では、期末レポートの追い込みで徹夜続きだった凜が、いつの間にか悠人の肩に寄りかかって眠っていた。規則正しい寝息を立て、白いベースボールキャップが少し傾いて彼女の顔を半分隠している。 悠人は手元のデータに悩み、無意識に凜に尋ねようとして、彼女が深く眠っていることに気づいた。


その時、悠人の視線は凜の膝の上にあるノートPCに止まった。画面はついたままで、そこには「光の散乱経路」に関するシミュレーション・アルゴリズムが走っていた――それは彼女が悠人のために、レンズの誤差を校正しようと片手間に書き上げたツールだった。


悠人の心に衝撃が走った。 「世界で最高の計算機は……僕の肩の上にいたじゃないか」


翌朝、事務所にやってきた高木は、デスクの上に二枚の志願書が置かれているのを目にした。 一枚は悠人のもの。そしてもう一枚は、物理学の論文に挟まれた氷室凜のものだった。 「先生、アシスタントには『光に対する絶対的な感受性』と『データに対する絶対的な掌握力』が必要だと言いましたね」 悠人は高木の目を真っ直ぐに見据え、強い口調で言った。 「この世界に、彼女以上にその役割にふさわしい人間はいません」


高木は、精密すぎて恐ろしいほど完璧な補足レポートを眺め、老獪な笑みを浮かべた。 「坊主、やっと気づいたか。お前がいつ、隣に座っているその価値万金の『ナビゲーションシステム』の存在に気づくか試していたんだよ」


一方の凜は、ただ眠っていただけで全国の学生が切望するポジションを手に入れたことに、当惑したような顔をしていた。


最終的に、ロケ地は長野県の霧ヶ峰高原に決定した。 夏季の寒暖差が激しく、午後は突如として豪雨や霧に見舞われる。ここは「極限環境の光影」をシミュレートする最高の実験場だった。


「それで、二人で二ヶ月間も山に籠もるっていうの?」 報告を聞いた凜は、表情こそ変えなかったが、ノートPCを閉じる動作には少し力がこもっていた。 「遊びに行くんじゃないんだよ、凜。あそこは電力が不安定だから、君のPCは僕が手動で発電しなきゃいけないかも」悠人は冗談めかして言った。 「データパスの先にあなたがいる限り、私のシステムはクラッシュしないわ」 凜は帽子のつばを指でなぞり、極めて微かな笑みを浮かべた。


長野県、霧ヶ峰高原。ここには東京のような蝉時雨はなく、代わりに骨まで凍みるような湿気と、突如として視界を奪う濃霧があった。T大のクリーンな実験室に慣れた凜にとって、ここはまさに災難だった。


「悠人、これで三回目よ」 古びた観測所に座る凜は、熱を帯びたキーボードを叩き、深緑の登山靴に履き替えた足をせわしなく動かしていた。その声には、珍しく焦燥が混じっている。 「湿度が85%を超え、センサーのデータ偏差が2.5%に達したわ。この環境では、正確な動態捕捉演算が不可能よ」 山岳地帯の寒暖差で彼女の顔は蒼白になり、白い帽子は霧に濡れて重く沈んでいる。自然界の「計算外のノイズ」が、彼女の論理の防壁を少しずつ侵食していた。


「凜、演算を止めて。プロセッサがオーバーヒートしてる。君の脳もね」 悠人が薄暗い機械室から現れた。ワークパンツには泥がつき、手には清潔なセーム革を持っている。彼は手慣れた様子で凜の機材を受け取ったが、すぐに修理はせず、まずは温かいボトル缶のミルクティーを凜の冷え切った手に握らせた。 「まずは熱量を補給して。残りは修理屋の仕事だ」


悠人は膝をつき、揺れるオイルランプの光の下で、湿気にやられたコネクタの解体に取り掛かった。彼は公式よりも「手触り」を信じている。小型の除湿機で基板を乾かしながら、静かに語りかけた。 「ここの霧は実験室のシミュレーションとは違う。魂があるんだ。無理に『排除』しようとしちゃダメだ。ただのランダムな変数だと思えばいい。古いレンズを直す時と同じだよ。少しのカビの跡が、かえって優しい光を写し出すこともあるんだ」


深夜、電力が完全に遮断され、観測所は静寂に包まれた。窓の外で風が唸っている。凜は窓辺に座り、モニタの微かな残光を見つめていた。 「悠人、データが正確でなければ、高木先生のプロジェクトに狂いが生じるわ……」 悠人は何も言わず、黙って彼女の背後に回り、厚手のジャケットを肩にかけてやった。そして、後ろから優しく彼女を包み込んだ。布地越しに伝わる彼の体温、その安定した、確かな感覚が、凜の心にあった「不確実性」への不安を瞬時に埋めていく。


「僕がいるから、狂いなんて起きないよ」 悠人の声が耳元で低く、温かく響く。 「僕は君のスタビライザー(安定装置)だって、忘れた?」 凜は悠人の肩に寄りかかった。彼から漂う、機械油と森の匂いが混ざった微かな香りに包まれ、心を乱していたデータ干渉は、もはやどうでもいいことに思えてきた。


「座標校正、完了」 凜は目を閉じ、悠人の鼓動を感じた。 「誤差……0.00%」


山での最後の日。清晨の第一光が霧を突き抜け、テラスに差し込んだ。高木は遠くからカメラを構えた。 ファインダーの中には、凜の帽子についた露を丁寧に拭う悠人と、今日の撮影に必要な露出パラメータをノートに書き留める凜の姿があった。 それは生死を賭けた極限の挑戦ではない。霧に包まれた山頂で、二人の心が「不完全」な環境の中で、いかにして互いにとっての「完璧なフォーカス」を見つけ出すかという、静かな証明だった。


「あの二人は、全く……」 高木は微笑み、シャッターを切った。その一枚にはデータなど存在しない。ただ、霧に柔らげられた光影の中で、一つに溶け合う二つの魂が写っていた。

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