6.光と影
T大(トップ大学)理学部の研究室。その日、凜は助教に呼び出されていた。 「氷室さん、学術交流を軽視するなら、今回の特別奨学金の評価で君に社交性の合格点はあげられないな」助教の長谷川は、陰湿な声で言った。「その傲慢な帽子を脱いで、私の『個人的な指導』に従うというなら話は別だがね」
長谷川は輝かしい経歴を持ちながら極めて自負心が強く、凜のあの「アカデミックな場にふさわしくない」白い帽子と、人を寄せ付けない態度を快く思っていなかった。 凜はその悪評を耳にしていた。彼女は立ち尽くし、手にしたノートを強く握りしめる。データ上の挑戦は怖くないが、職権を利用した論理なき圧迫――それは彼女のシステムが初めて直面する「悪意」という名のバグだった。
「長谷川助教。校則第14条第3項に基づき、実験の安全を阻害しない限り、教職員が学生の身なりを制限する権限はありません」凜の声は清廉だが、微かに震えていた。 「校則だと? ここでは私がルールだ」長谷川は冷笑しながら近づき、凜の肩に手をかけた。
「……離れてください」 「長谷川助教。大学教育基本法、およびT大の教職員倫理規定に基づき、あなたの行為は重大な職場ハラスメント、ならびに権力の乱用に該当します」
厳格で、沈着で、それでいて強い威圧感を持つ声が背後から響いた。 長谷川が驚いて振り返ると、そこには濃紺のスーツに分厚い黒縁眼鏡をかけた男子学生が立っていた。彼はボイスレコーダーを手にし、もう片方の手で眼鏡を押し上げる。レンズの奥で、ゾッとするような冷たい光が反射した。
「誰だ君は? これは我が学部の問題だ。部外者は去れ!」 「私は佐藤。T大とK大の合同学生自治連盟・法務部の責任者であり、氷室さんの『学級委員長(クラス委員)』です」
佐藤が一歩前へ踏み出す。小柄ながらも「規律の執行者」としての気迫に、長谷川は思わず後ずさった。 「あなたが脅迫を始めた瞬間から、すでに三つの音声バックアップを取り、学生会のクラウドへ同期を完了しました」 「な……何をデタラメを! 私はただ指導をしていただけだ!」 「法律上、『指導』という言葉は奨学金を盾にした脅迫の隠れ蓑にはなりません」佐藤は淡々とファイルを開いた。そこには長谷川が過去に他の女子学生へ行ってきた不適切な言動の記録が整理されていた。「二週間かけて広範な『世論調査』を行いました。長谷川助教、あなたの行動データは、あなたがシステム上のノイズであることを示しています。選択肢は二つ。一つ、直ちに辞職願を提出すること。二つ、来週の懲戒委員会で会いましょう。その時はこの音声データと数十名の被害者の連名書を持参します」
眼鏡の奥の、一片の揺らぎもない瞳。長谷川は悟った。この男は冗談を言っているのではない。「規律」のためにどこまでも戦う人間だということを。 長谷川は逃げるように去っていった。
静まり返った廊下。佐藤はレコーダーをしまい、凜に向き直った。その表情が少しだけ和らぎ、少し不器用な口調になる。 「氷室さん、久しぶりですね。……こんな形での再会はあまり良くないですが。とりあえず、ホットココアでも飲んで落ち着いてください」 「佐藤委員長……」凜は肩の力を抜いた。「ありがとうございます。私の予測モデルにはなかった変数でした」 「クラスメイトを不当な干渉から守るのは委員長の責務です。高校でも、大学でも変わりませんよ」
佐藤は生真面目な微笑みを浮かべた。 「あの、のんびりした男はどうしていますか?」 「相変わらず、写真展の準備で忙しそうにしているわ」 佐藤は頷き、一週間前に京都で起きたことを思い出していた。
一週間前、京都。 カフェの入り口で、零司が冷たいコンクリートの壁に寄りかかっていた。指先には火のついていない煙草。帰国したばかりの彼からは、精密機械と硝煙の匂いがするような、独特の鋭いオーラが漂っていた。 その前で、佐藤が国家試験に挑むかのような厳しい顔で立っていた。
「おい、佐藤。お前、学生自治会の責任者なんだろ?」 零司が瞼を上げ、鋭い視線を向けた。「これを見ろ」 零司はコートの内ポケットから封印された茶封筒を取り出し、佐藤に投げた。 佐藤は眼鏡を直し、街灯の下でそれを読み進める。それは長谷川助教の経歴書だったが、そこには大学側が把握していない「黒歴史」が赤字で書き込まれていた。留学先でのアカデミック・ハラスメントの告発、もみ消された数々のトラブル。
「これは……長谷川の個人情報? 零司さん、どこでこんな海外の記録を?」 「データの世界に国境はない。痕跡を残せば必ずフォーカスできる」零司は冷鼻を鳴らし、佐藤を試すように見た。「来週、T大で最後の実験の授業がある。そこが奴の『犯行』が最も頻発するタイミングだ。監視の死角、疲れ切った学生、乱用される職権……すべての変数が交差する場所だ」
佐藤は資料を強く握りしめた。 「功績を立ててこい、委員長」零司は背を向けて手を振った。「それに、お前のT大の旧友には、今、お前のような『石頭』な規律が必要なのかもしれない」 「……承知しました」佐藤は深く一礼し、鞄を閉じた。「この『ノイズ』、法律の名において排除します」
「あいつ……読みが当たりすぎているな」佐藤は心底、零司に感服していた。「あ、氷室さん。私が突然現れたのは、何かの活動だと思いましたか?」 「ええ。何かの調査かと」 「違いますよ。データしか信じない『バカな天才』が、君のことが心配でたまらないと私に頼んできたんです」
その夜、凜は悠人にメッセージを送った。 【今日のノイズは排除されたわ。委員長は相変わらず100%信頼できるファイアウォールね。それに、零司が佐藤に頼んでくれたみたい。みんなが最強のバックアップだわ】
悠人から笑顔の絵文字と、暖色に満ちた現像したての写真が送られてきた。 凜はスマホを眺め、頭の白い帽子にそっと触れた。世界には悪意もあるけれど、こうして「規律」と「優しさ」で守ってくれる人たちがいる限り、彼女の座標が狂うことは永遠にない。




