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100%の集中モード  作者: WE/9
大学セクション

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5.当ててみて、誰が帰ってきたか?

週末の新宿駅は相変わらずの人混みだったが、悠人は今日の凜がどこか心ここにあらずであることに気づいていた。彼女の視線は時折、改札口の方へと漂っている。 「凜、何か待ってるの?」悠人はカメラのストラップを調整しながら不思議そうに尋ねた。 「ええ」 凜は白いベースボールキャップを軽く押し下げた。語調は平坦だが、そこには微かな心の揺らぎが含まれている。 「今日は、中学を卒業したばかりの『可愛い子』が来る予定よ」 「中学卒業?」 悠人が反応する前に、背後から聞き覚えのある、少し冷淡で悪戯っぽい声が響いた。 「悠人さん。そんな間抜けな顔をしてると、迷子の老人として警察に連行されますよ」


驚いて振り返ると、そこには少し大きめのフーディーを着て、首にヘッドホンをかけた蛍が立っていた。彼女は両手をポケットに突っ込み、心底呆れたような目で悠人を見ていた。 「蛍ちゃん!? どうしてここに?」 「凜お姉様に招待されたんです」 蛍は凜の隣まで歩み寄ると、自然にその腕に絡みつき、悠人に向けて眉を上げた。「お姉様が言うには、最近の悠人さんは大学生活が安泰すぎて大脳皮質が退化し始めているから、私に『フォーマット』を手伝ってほしいって」 「私が好奇心旺盛だって言ったから、暇なら来ればって言っただけでしょ」 凜の反論を無視して、蛍は宣言した。 「では、今日の考察プランを開始します」


主導権を握った蛍が先を歩き、呆然としている悠人を振り返る。「何してるんですか? 私のバッグ、持ってください」 悠人は苦笑いしながら、二人のバッグを受け取った。前を行く凜と蛍の後ろ姿を見つめながら、彼の心には温かいものが込み上げていた。かつて孤独だった氷室家には、今、彼女たち姉妹だけの確かなリズムが流れている。


混雑を避けるため、三人は静かなファミリーレストランに入った。蛍は席に着くなりメニューをスキャンし、最も派手なチョコレートパフェを注文すると、単刀直入に切り出した。 「さて、考察ですから『データ交換』に移ります。凜お姉様、理学部のあのプロジェクト、教授に目をかけられてるって聞きました。大学生活は、想定通り退屈ですか?」 凜はオムレツを切り分けながら、淡々と頷いた。 「ええ。内容は興味深いけれど、人間関係のデータが混迷しすぎているわね。大学生という生物は、エネルギーの80%を無意味な群体行動に費やしているようよ。……あなたは? 受験は終わったのでしょう?」 「あんな程度の試験、目をつぶっていても終わりますよ」 蛍はパフェを一口掬い、無造作に言った。だが、その声は少しだけ沈んでいた。「でも……中学を離れる感覚は、想像していたより『軽い』というか。強制的に固定されていた座標が突然消えて、逆にフォーカスが合わなくなっている感じがします」


悠人はその言葉の中に、高校進学を控えた彼女の小さな迷いを感じ取った。彼はフォークを置き、優しく微笑んだ。 「蛍ちゃん、それは今、君が『マニュアルフォーカス(手動対焦)』のモードに入ったからだよ。無理にピントを合わせようとしなくていい。まずはゆっくり風景を眺めてみるのも悪くないよ」 「……チッ、またそういうポエムみたいなことを」 蛍は目を剥いて見せたが、すぐに悠人へ審神者のような視線を向けた。 「悠人さんは? 写真学科の生活はどうなんです? ラボの化学薬品の匂いの中に引きこもって、写真の撮れるミイラになっちゃうんじゃないですか?」 「まあ、順調だよ」悠人は照れくさそうに頭を掻いた。「最近はフィルムの現像を練習してるんだ。デジタルは便利だけど、薬液の中で像がゆっくり浮かび上がってくるあの数分間……あの『待つ』プロセスが、写真に重みを与えてくれる気がして。君たちが求める高速演算とは、真逆のロジックだけどね」


「『待つことの重み』、ですか……」蛍は小さく反芻し、すぐに毒舌モードに戻った。「反応が遅いあなたの大脳が、低速信号しか処理できないだけでしょ」 「そうかもね」悠人は隣の凜を見て、愛おしそうに目を細めた。「僕には一番大切な『定点』があるから、他のことは少しゆっくりでも構わないんだ」 蛍は大げさに手で目を覆った。「凜お姉様、大学で冷たいデータと向き合ってるのに、どうしてこの恋愛ノイズ垂れ流しの男に耐えられるんですか?」 凜は反論せず、悠人の口角に付いたソースを指で拭い、静かに答えた。 「これはノイズじゃないわ。これは『BGM』よ。この周波数がなければ、私の演算は冷たくなりすぎてシステムオーバーヒートを起こしてしまう。蛍、あなたにもいつか、あなただけのBGMが見つかるわ」 「……私にそんなもの必要ありません。私の世界は、自分でフォーカスします」 蛍はスプーンを動かした。強がってはいるが、離れたキャンパスにいながら同じ周波数を保ち続ける二人を見て、彼女の瞳の奥にあった未来への焦燥は、少しだけ和らいだようだった。


夕暮れ時、代々木公園の芝生に座る三人の影が長く伸びていた。 悠人はカメラを構え、雑誌を読み耽る凜と蛍にレンズを向けた。凜の横顔は相変わらず清廉だが、その手は優しく蛍の髪を整えている。毒舌な蛍も、今は凜の肩に頭を預けて安らいでいた。 「カシャッ」 「悠人さん、盗撮の腕は相変わらず最低ですね」蛍は顔も上げずに毒づいたが、その口角は微かに上がっていた。「まあ、背景の屈折率だけは合格点をあげてもいいですけど」 「そいつはどうも、蛍お嬢様」悠人は笑って二人の隣に座った。


蛍は突然身を起こし、悠人を真っ直ぐに見つめた。その瞳には、珍しく真剣な色が宿っていた。 「ねえ、悠人さん。T大なんていう天才と変人だらけの場所で、あなたみたいな平凡な男が……本当に凜お姉様を守りきれるんですか?」 悠人は隣にいる凜と、彼女がずっと大切にしてきたあの白い帽子を見つめ、静かに答えた。 「天才を守ろうなんて思ってないよ。僕はただ、この帽子の下にいる一人の女の子を守りたいだけなんだ」 蛍は三秒ほど沈黙し、それからヘッドホンを耳に当て、いたたまれないように顔を背けた。 「あーもう、今の。糖分過多で私のヘッドホンじゃフィルタリングできません。凜お姉様、行きましょう! 美味しいものでも食べて、この甘ったるいノイズを消去しなきゃ!」


蛍を見送る駅のホーム。凜が飲み物を買いに行った隙に、蛍は悠人のポケットにそっと何かを忍び込ませた。 「これは?」悠人が取り出すと、精巧なクラシックカメラのボタンを模したストラップだった。 「そこのショップで見かけたんです。あなたのあの機械に似てたから」蛍は窓の外を見つめ、硬い声で言った。「あなたたちのベタベタした行動には反吐が出ますけど……もし道に迷いそうになったら、それを見て、さっさと凜お姉様の座標に戻ってきてください」 「蛍ちゃん……」 「感傷に浸らないでください。電車が来ました。お姉様にバイバイって伝えといて!」 蛍は悠人を突き放すようにして電車に飛び乗った。


凜が戻ってくると、悠人はストラップを手にぼんやりとしていた。 「彼女、何て言ったの?」 「別に」悠人はそのストラップをカメラバッグに結びつけ、凜の手を取った。「僕たちのプログラムは完璧に動作してるってさ」

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