2.T大
T大(トップ大学)の理学部棟において、氷室凜はもはや伝説に近い存在だった。
「あの子が氷室凜か? 入試の数学で満点を取って、サークルにも入らず、教授のゼミでさえ堂々と間違いを指摘するっていう……あの『CC』?」 「見るなよ。先週、医学部の先輩がナンパしに行ったけど、話が終わる前に『あなたの論理には三箇所の飛躍がある』って一蹴されたらしいぜ。あの白い帽子の前では、男の鼓動なんてただのノイズに過ぎないんだ」
二人の男子学生が図書館の書架越しに盗み見ていた。窓際の指定席で、凜は相変わらず白いキャップを深く被り、量子演算に関する分厚い原著論文を積み上げている。彼女の周囲には透明な壁があるかのようで、あらゆる「ときめき」や「下心」を寄せ付けない。
しかし、その壁は午後九時四十五分、正確に亀裂が入った。
凜の机の上でスマホが震えた。静まり返った自習室ではその振動は際立って聞こえた。凜はすぐにスマホを手に取った。すると、氷のように冷徹だった彼女の表情に、ルームメイトさえ見たことのない「変数」が現れた。 彼女が、笑っていたのだ。社交的な微笑みではない。瞳に微かな光を宿し、耳の付け根を赤く染めるような、そんな笑みだ。
隣に座っていた同学科の友人――同じく天才少女でありながら、性格は小鳥のように騒がしい沙也加が、その瞬間を逃さず捉えた。 「……凜、今の表情、偏差値300%オーバーだよ」 沙也加は幽霊のようににじり寄り、声を潜めた。「当ててあげようか。『T大の計算機』がそんな顔をするのは、素数の新公式を見つけたか、あるいは……たった一つの可能性しかないよね」
凜は瞬時に笑みを消し、冷静さを取り戻した。 「沙也加、その観察力は明日の実験レポートに使うべきよ」 「誤魔化さないで! ちょっと見せてよ!」 沙也加は目ざとく、まだ消えていないスマホの画面を覗き込んだ。そこには送られてきたばかりの一枚の写真。現像液が少し頬についた悠人が、カメラに向かってピースサインを作っている、少し抜けた笑顔の写真だった。 添えられたメッセージは一言:【今日は1950年の骨董品を修理できた。この達成感、会った時に50%分けてあげるよ】
「……彼氏!?」沙也加は息を呑み、声を裏返らせた。「あの、全校男子を絶望させ、教授を頭抱えさせる氷室凜が、どこかの男に……ロックオンされてるわけ!?」 「驚くようなデータじゃないわ」 凜は顔を背けた。帽子を被っていても、冷静さで照れを隠そうとしているのは明白だった。「彼はただの……パーツの修理が得意な人よ。私はその、修理が必要なサンプルの一つに過ぎないわ」 「サンプルがあんな顔で笑うわけないでしょ!」 沙也加は激しく凜の肩を揺さぶった。「これがバレたら、理学部の男子は集計不能なレベルで崩壊して、期末試験の平均点が下がるわよ! 医学部や法学部だって……これはT大の国家安全保障に関わる問題だわ!」
凜は少し沈黙し、スマホの中の悠人の笑顔を見つめた。 「だから、公開するつもりはないわ」凜は沙也加を見つめた。その瞳は、人を戦慄させるほどの正確さを取り戻していた。「沙也加、これは私の唯一の『非公開データ』よ。もし漏らしたら、あなたが明日提出するプログラムのコード、すべての『セミコロン(;)』を『全角(;)』に書き換えてあげる」
「……えげつない! 悪魔だわ!」沙也加は身震いし、即座に手を挙げた。「分かった、誓うわ! 私の単位のため、そして男子たちの命を守るため、この秘密は墓場まで持っていくわ!」
その夜、コンビニへ向かう道すがら。 凜はふと立ち止まり、街灯に照らされた自分の影に向かって、こっそりと、練習するようにピースサインを作ってみた。 「50%の達成感、ね……」 彼女はスマホを取り出し、返信を打ち込んだ。 【50%、受領したわ。残りの50%は、明日会った時に、物理的な接触で補填して】
送信ボタンを押した後、彼女は慌てて帽子をさらに深く被り、夜の闇へと消えていった。 その後ろで、明らかに足取りが軽くなった凜を見送りながら、沙也加は感心したように首を振った。 「計算機だなんて嘘。ただの恋する普通の女の子じゃない。……でも、あの氷室凜をあんな風に変えちゃう男の人って、一体何者なのよ?」




