1.また、物語の始まり
近郊にある写真学科の校舎は、深夜二時を過ぎてもなお明々と灯りがついていた。空気中には現像液の酸っぱい匂いと、ドリップコーヒーの香りが混ざり合っている。
「ダメだ……僕の『構図神経』がもう千切れた……」 健二がスタジオの古びたソファに倒れ込み、首にかけたカメラを力なくぶら下げた。一方、アニメ文化分析担当の小野寺は――別の大学だが、今回の合同展覧会の手伝いで今夜はこの場所にいた。 「それは君のデータ演算能力が低いからだよ」小野寺がノートPCを叩きながら毒づく。「葉山を見てごらんよ。あの古い機械式シャッターの修復に三時間も没頭してる。まばたき一つしてないよ」
全員の視線が部屋の隅へと向いた。悠人はワークライトの下でピンセットを握り、微細な発条のパーツを調整していた。グレーのパーカーの袖を肘まで捲り、その瞳には周囲の喧騒とは一線を画す、絶対的な冷静さが宿っている。
「なあ、葉山」 輝がにじり寄り、興味津々に尋ねた。「お前、実はロボットじゃないのか? それとも……心の中にいつでも充電させてくれる女神様でも住んでるのか? 普通の写真学科の奴なら、今頃合コンの相手に連絡してるか、失恋して酒を煽ってるはずだろ」 「彼女がいるんだ」 悠人は顔も上げず、淡々と答えた。「だから充電も合コンも必要ない」
スタジオに死のような静寂が訪れた。 「悠人氏、今さらさらっとネタバレするのかい?」小野寺が驚きを隠せずに問う。 「何だってぇ――!?」健二がソファから飛び起きた。「彼女!? この、毎日レンズに向かって独り言を呟くだけの僕ら写真学科にいて、お前に彼女がいるってのか!?」
「ああ」悠人はピンセットを置き、ふぅと小さく息を吐いた。「高校から付き合ってる。今は学校が少し離れてるけど」 「どこの子だ? モデル学科か? それとも隣の女子大か?」 輝が興奮してスマホで検索を始めた。「写真を、写真を見せろ! さもないと信じないぞ!」
悠人が断る口実を探そうとした、その時。デスクの上に置いていたスマホが震えた。画面が明るくなり、極めてシンプルな白いアイコンが飛び出す。表示名は:【氷室 凜】。 悠人はその名を目にした瞬間、冷静だった瞳が和らぎ、自分でも気づかないうちに口角を緩ませていた。 「悪い、電話だ」
ビデオ通話のボタンを押す。画面には、複雑な数式がびっしりと書き込まれたホワイトボードが映し出された。凛は少し大きめの白い白衣を纏い、あの真っ白な帽子が室内の照明の下で際立っている。
「悠人、現在は午前二時二分十二秒」 凛の声がスピーカーから流れる。清廉で、心地よく、独特の周波数を纏った声だ。 「観測によると、あなたの周囲のデシベル数と呼吸数に相関関係が見られない。これは、周囲に85%の確率で干渉ノイズが存在していることを示しているわ。直ちに『強制休憩』プログラムを実行して。そうでないと、明朝のデートであなたのフォーカス精度が12%低下する」
「分かってるよ、凛」悠人は画面に向かって優しく微笑んだ。「こっちももう終わる。君は? まだラボか?」 「最後のシミュレーションが終わったところよ。偏差は許容範囲内」 凛は帽子を少し整え、画面越しに悠人をロックオンした。「明朝十時、新宿駅三番ホーム。六十秒以上遅刻したら、蛍に頼んであなたのスマホをハッキングさせるから」 凛は少しだけ頬を膨らませ、赤らめた顔で、彼女の持つ最も少女らしい一面を見せた。 「了解したよ、長官」
通話を切った後、悠人は背後から重苦しいプレッシャーを感じた。 振り返ると、健二、輝、さらには小野寺までもが石化したように目を見開いて彼を凝視していた。彼らのスマホ画面には、トップ大学である「T大」の公式サイトが表示されている。
「……おい、葉山」健二の声が震えている。「今の彼女……もしかして、去年の数学オリンピック覇者で、入試成績も歴代記録を塗り替えたっていう、あの『T大の女神』氷室凛じゃないか?」 「ああ、彼女だよ」悠人はパーツを片付けながら、当然のように言った。「今学期は工学部と理学部のダブルメジャーを履修してて、結構忙しいみたいだけど」
「……」 「……」 「教授さえ口出しできないっていうあの『データの悪魔』で……AIの擬人化かって言われるほど美人の氷室さんが……」輝が頭を抱え、床に膝をつきそうになった。「お前の彼女? しかも、今……甘えてなかったか?」
「甘えてるんじゃなくて、あれは『リマインド』だよ」悠人はカメラバッグを背負い、崩れ落ちた友人たちに手を振った。「じゃあ、終電があるから行くね。残りは日曜に補填するから」
小野寺は眼鏡を支えながら、悠人の去りゆく背中を見送って、ぽつりと呟いた。 「まさかあそこまで進展しているとは……。凛氏、限定フィギュアを処分したりしないだろうね」
深夜のキャンパスを歩きながら、悠人は凛から届いた最後の一通のメッセージを見た。 【睡眠は明日のより正確なフォーカスのために。おやすみなさい】
世間の凛への評価は「冷酷」「精密」「不可侵」だ。だが、悠人だけは知っている。あの白い帽子の下で、彼女が美味しいケーキを食べて目を細めることも、彼に会いたいがために研究を早める努力をすることも。 四十二・五キロという距離は、他人にとっては隔たりかもしれないが、二人にとっては週末の再会でより確かな体温を感じるための、必要なプロセスでしかなかった。
彼は手の中のカメラを握りしめた。 それは、彼と彼女の間にある、唯一にして永遠の「定点観測」だった。




