47.先のことは、また今度
三月の東京。空気にはまだ冷たさが残っているが、街角の桜は待ちきれないと言わんばかりに薄紅色の花を咲かせていた。 「はい、みんな並んで! 手を繋いで、離しちゃダメだよ!」 二十八歳になった佐々木咲良は、幼稚園の入り口でしゃがみ込み、最後の一人の靴紐を丁寧に結び直した。髪は高校時代より少し短く切り揃えられ、より快活な印象を与えている。その人懐っこい笑顔は変わらないが、瞳には教師としての包容力と落ち着きが宿っていた。
最後の子を送り出し、咲良は少し疲れ気味に伸びをして、ポケットから画面に少しヒビの入ったスマホを取り出した。 「ふぅ……さて、次は私の『年長さんたち』の番ね」 連絡先をスワイプし、**「蛍」**という名前に指を止める。十年前、ヘッドホンの下に閉じこもっていたあの少女も、今や大学を卒業する年になっていた。
「もしもし? 蛍ちゃん! 私よ」 咲良は元気いっぱいの声で電話に叫んだ。「今夜の集まり、もう向かってるわよね? 『アルゴリズムのバグ』なんて言い訳で遅刻するのは禁止よ!」 電話の向こうから、小さく、そして呆れたような溜息が聞こえ、続いてキーボードを叩く軽快な音が響いた。 「咲良お姉様。声のデシベル数が許容範囲を超えています。まだテストが三セット残っているのですが……」 「またそんなこと言って! 今日はあなたの好物の和牛居酒屋を予約したんだから!」咲良は脅すように言った。「それに、凛お姉様と悠人も来るわよ。二人の『バカップル頻度』が下がってないか、確かめなくていいの?」 二秒ほどの沈黙。続いて椅子を引く音が聞こえた。 「……五分。サーバーを落としたらすぐ出ます」
電話を切ると、咲良は「作戦成功」と言わんばかりの満足げな笑みを浮かべた。招待リストには懐かしい名前が並んでいる。 ・健太:春季リーグを終えたばかりのプロ選手。今頃グループチャットに筋肉の自撮りを連投しているはず。 ・佐藤:定時退社を貫く模範的な公務員。居酒屋でメニューの「予算分析」を始めているだろう。 ・小野寺と零司:一人はアニメ評論動画の編集に追われ、もう一人は金融街のビルから脱出してきたばかり。
咲良はスマホをしまい、沈みゆく夕焼けを見つめた。十年前、あの旧校舎の屋上で同じ夕日を見ていた。あの頃は卒業が世界の終わりだと思っていたけれど、今の自分には分かる。卒業は、この「100%の冒険」のスタートラインに過ぎなかったのだ。 「みんな、大きくなったよね」 彼女は小さく呟き、桜の舞い散る路地裏の居酒屋へと歩き出した。
居酒屋の中は、温かい照明と木の調度が安心感を与えていた。 「咲良! こっちだ!」 健太が十年前より一回り太くなった腕を振り、大声で呼んでいた。大人びたスポーツウェアを着ていても、熱血選手特有のオーラは隠せず、周囲の客が視線を送っている。 「健太、少し静かにしなさい。ここはコートじゃないのよ」 隣に座る佐藤が、高級なチタンフレームに変わった眼鏡を押し上げた。手元には整理された会議資料が置かれている。 「いいじゃねえか! 今日は全員集合なんだからよ!」 健太はハッハと笑い、オードブルを必死に撮影している小野寺に声をかけた。「おい、大インフルエンサー様。ライブ配信中か?」 「『ナラティブの記録』と言ってくれ」小野寺はプロのような顔つきで照明を調整した。「今夜の集まりの緊張感は120%だ。フォロワーたちが伝説の『氷室の光』を待ってるんだよ」
その時、居酒屋の木戸が静かに開いた。 長い髪をなびかせ、オーバーサイズのパーカーにタクティカルパンツを合わせた少女が入ってきた。首には黄色い特製ヘッドホン。その瞳には冷淡さの中に、年齢にそぐわない深い知性が宿っている。 「蛍ちゃん!」咲良が嬉しそうに飛びついた。 十九歳の蛍は、慣れた動作で咲良の「ハグ攻撃」を回避した。冷淡さは相変わらずだが、見知った顔ぶれを目にすると、口角がわずかに、抗えないように動いた。 「咲良お姉様。健太さん、先月より筋肉量が2.3%増加していますが、体脂肪のコントロールが甘いですね」 「うっ……さすが蛍だ。一瞬で見抜かれたぜ」 健太は苦笑しながら後頭部をかいた。
仲間たちが席につき、ジョッキの触れ合う音が心地よく響く。健太の試合、佐藤の役所での苦労話、零司の景気予測。この瞬間、社会的な肩書きは消え去り、彼らはただの「2020年に共に過ごした友人たち」に戻っていた。 「ところで……」 零司がウィスキーのグラスを揺らしながら、入り口に目をやった。「あの二人は、いくらなんでも遅すぎじゃないか?」 咲良は時計を確認し、神秘的な微笑を浮かべた。 「いいえ、もうすぐ来るわ。あの二人にとって、『遅刻』も一種のシンクロ(同期)なのよ」
しばらくして、再び木戸が開いた。今度は爽やかな夜風と共に、数片の桜の花びらが舞い込んだ。 「ごめん、道が少し混んでて」 聞き慣れた、磁気を含んだような優しい男の声に、騒がしかったテーブルが瞬時に静まり返った。
咲良が真っ先に振り返り、今夜一番の悲鳴を上げた。 入り口に立つ悠人は、十年前より背が伸び、肩幅も広くなっていた。ジャケットには数枚の花びらが付いている。だが彼はすぐに歩み寄ることはせず、少し体を横にずらし、極めて自然に左手を差し出した。背後にいる伴侶を待つために。
そして、白くしなやかな手が彼の掌に重ねられた。二人は指を絡ませ、光の中へと足を踏み入れた。 「凛お姉様!」 蛍が真っ先に立ち上がった。口調は冷静だが、その瞳には「重要ターゲットを観測した」という光が溢れていた。 入ってきた凛の美しさに、小野寺は危うくシャッターを切り忘れるところだった。白いニット帽が彼女のオーラを優しく、そして力強く引き立てている。彼女はもうデータに隠れる少女ではない。一人の、光を放つ成熟した女性だった。
「皆さん、お久しぶり」 凛は微かに腰を折り、いつものように正確で、けれど体温に満ち溢れた微笑みを浮かべた。
「何が渋滞よ! 絶対に桜の下で散歩しすぎたんでしょ!」 咲良が駆け寄り、凛の手を引き、悠人の肩を叩いた。「ほら座って! 悠人、あんた格好良くなりすぎよ。健太のプレッシャーがすごそうなんだから!」 「おい咲良! 俺だってMVP級の魅力があるんだぜ!」健太が抗議しながらも、二人のために椅子を引いた。
二人は席に座ったが、その手は繋がれたままだった。 「凛お姉様」 蛍が、凛の腰に下げられたカメラを見つめて静かに問うた。「あのパーツは……まだ動いていますか?」 凛は視線を落とし、カメラの頂部にある、少し色褪せた金属製のレバーをそっと撫でた。高価なプロ仕様のカメラの中で、そこだけが不調和で、そして最も輝いていた。 「ええ」凛は頷き、悠人を見つめた。「これが、私のすべての動力の起点。どんなに機材を変えても、このパーツだけは代わりがいないの」
「よし! 感動的な話は最後にするわよ!」咲良が興奮で頬を赤くしながらグラスを掲げた。 「今日は、あの狭いアパートの卒業から十年の祝杯! 健太が現役なことに、佐藤が過労死しなかったことに、小野寺のフォロワーが減らなかったことに、零司が破産しなかったことに……そして、蛍ちゃんがようやく私をお姉様と呼んでくれたことに、乾杯!」 次々とグラスが掲げられ、重なり合う音が華やかな交響曲のように響いた。
悠人もグラスを掲げた。凛とグラスを合わせる直前、彼は彼女の耳元で小さく囁いた。「今の座標は、正確かな?」 凛はテーブルを囲む騒がしい親友たちを見渡し、自分を0から1へと変えてくれた仲間たちを見つめ、最後に、人生のすべてをくれた隣の男を見つめた。 彼女はカメラを構え、皆に向けて、今夜最初の一枚を。
「座標誤差:ゼロ」 凛は微笑んで答えた。
「現在の幸福指数は――100%よ」
居酒屋の灯火が次第に消えていき、夜道には桜の花びらが静かに舞い落ちていた。 悠人と凜は手を繋ぎ、家路を歩んでいた。夜風が凜の被っている白いニット帽を優しく揺らす。 悠人はふと隣を向き、青春のすべてを共に歩んできた女性を見つめて、穏やかな声で尋ねた。
「凜、これからの十年のことだけど……何か新しい計画はある?」
凜は足を止め、空の彼方に輝く、微かだが永遠に消えない星の光を見つめた。 彼女はかつてのように即座に確率や座標を並べることはしなかった。ただ悪戯っぽく微笑むと、彼の肩に頭を預け、最も「CC」らしくなく、けれど最も「凜」らしい言葉を口にした。
「それについては……先のことは、また今度。」
だって、隣にいるのがあなたである限り、どんなランダムに訪れる未来も、すべてが最高のデータなのだから。
読者の皆様へ (給讀者的話)
物語『100% の集中モード』を最後まで見守ってくださり、本当にありがとうございました。
最初に出てきた「0と1」の無機質なデータの世界から、悠人と凜の物語は今日、一つの大きな区切りを迎えました。二人は不器用ながらも、青く輝いた高校生活に最高の終止符を打つことができました。
しかし、終わりは「また、物語の始まり」でもあります。主線となる物語はここで一旦完結となりますが、次にめくるページは――**「大学編」**です。
大学編では、少し肩の力を抜いて、温かくて穏やかな日常系のストーリーをお届けする予定です。それぞれの場所で成長しながらも、互いを「100%の專注」で見つめ続ける二人の、少し甘くて人間味あふれる日常を記録していきます。
新しいステージで始まる二人の物語を、どうぞお楽しみに。大学のキャンパスで、またお会いしましょう!




