46.100%の集中モード
礼堂内の空気は重く、そして荘厳だった。一時間前の体育館に漂っていた汗と涙の混じった空気とは、まるっきり対照的だ。整然と並ぶ黒いアカデミックガウンは、まるで無数の静かな音符のように、最後の終止符を待っていた。
校長が壇上に立ち、眼鏡を押し上げ、澄んだ声がスピーカーを通じて隅々にまで響き渡った。 「続きまして、卒業生総代――氷室 凜さん。壇上へ」
会場に短く、かすかなざわめきが起きた。この学校の生徒たちは皆、成績優秀な「CC」のことを覚えていた。いつも帽子を被り、集団の縁を漂い、機械のように正確だった少女。だが今、その影が立ち上がった瞬間、誰もが息を呑んだ。
CCは立ち上がった。黒いガウンを纏い、その頭には、あの目を引く真っ白な帽子があった。彼女はそれを脱がなかった。それは彼女の座標であり、砦なのだから。 悠人は後方から彼女の背中を見つめていた。背筋は真っ直ぐに伸び、その歩みからは、入学当初のような「計算された歩幅」の不自然さが消えていた。代わりにそこには、確かな重みが宿っていた。
講壇に立ち、全校生徒と対峙したとき、CCはすぐには口を開かなかった。彼女はこの礼堂を見渡し、目を真っ赤に腫らした咲良、背筋を伸ばして座る佐藤、親指を立てて見せる健太、そして……隅の方で自分を優しく見守る悠人の姿を捉えた。 マイクを調整し、冷ややかだが温度を孕んだ声がゆっくりと流れ出す。
「三年前、この学校に来た時、私の世界は0と1だけで構成されていました。私にとって学校は成長の場ではなく、巨大なデータフィールドでした。皆さんの遺憾や衝突を見つめ、それを『ノイズ』と定義しました。そのノイズを最適化して消し去ることこそが、完璧な進化だと信じていたのです」
CCは一度言葉を切り、手でそっと白い帽子のつばに触れた。 「ですが、私は間違っていました。この三年間で、ある人が教えてくれたことがあります。人間が最も美しいのは、計算不可能な『間違い』の中にいる時なのだと」
「私たちは大切な一投を外します。くだらないことで喧嘩もします。不確かな未来に怯えて深夜に泣くこともあります。ですが、それらはシステムエラーではありません。私たちが人間であるという証なのです」
凜は顔を上げた。礼堂の高い窓から射し込む陽光が、彼女の白い帽子に落ちて眩しく反射した。彼女はかつて単なる「サンプル」だった、けれど今は「友人」である皆の顔を見つめ、最後に悠人に視線を止めた。 深く息を吸い、第一話に登場した時のような、正確で清廉な、けれど魂の震える口調で告げた。
「以上――氷室 凜」 彼女は微かに腰を折り、この青春に最後の敬礼を捧げた。 「……終了」
会場は、死を思わせるほどの静寂に包まれた。 かつてその言葉は、世界との繋がりを断ち切る冷酷な句読点だった。だが今は、「旧い氷室」の執行が完全に完了し、「新しい凜」が再起動することを告げる合図だった。 直後、会場には雷鳴のような拍手と歓声が爆発した。
式典が終わった後の喧騒が校内のあちこちへ散っていく。ボタンを交換する者、ガウンにサインし合う者、校門で最後の記念撮影をする者。 「凜」 礼堂の裏の渡り廊下で、悠人が彼女の手を引いた。 「ついてきて。行きたい場所があるんだ」
二人は人混みを避け、校舎の中へと入っていった。生徒たちはパーティーへ向かい、静まり返った廊下に二人の足音が響く。辿り着いたのは、屋上へと続く階段の入り口だった。 悠人は足を止め、すぐには登らず、一段目の階段を見つめて静かに言った。
「覚えてる? 高一のあのランチ。僕が限定スイーツを持ってきて、君が隣に座って、僕を分解でもするかのようにずっと見つめていたこと」 凜は階段を見つめ、口角を微かに上げた。「あの時のデータでは、あなたは矛盾だらけで非効率な個体だった。でも……あのケーキの味、今でも覚えているわ」
一段登った。 「じゃあ、この段は?」悠人が二段目へ行く。「君が三組の女子バスケを一人で叩き潰した日。君の帽子の影の下に、あんなに強い力が隠されているんだって初めて知ったんだ」 「それはあの日……あなたがずっとコートサイドで私を見ていたからよ」 凜も二段目へと続く。声は風のように軽い。「『観測』されることが、嫌じゃないんだって初めて思った」
階段を一段登るごとに、思い出が重なっていく。 校外学習。咲良の腕の中で倒れた時に聞いた、あの不規則で、けれどあまりにリアルな鼓動。 悠人の故郷。監視のない星空の下で、初めて見せ合ったお互いの弱さ。 部室での午後。時計やカメラを修理する悠人の横顔。 四人での同居。キッチンの匂い、喧嘩の声、ソファでうたた寝する悠人の寝顔。
屋上へ続く最後のドアを前にした時、夕映えの残光がドアの隙間から漏れていた。悠人はドアノブに手をかけ、凜を振り返った。 「道は、ここまでだ」 「いいえ」凜は一歩前へ出て、彼と肩を並べた。「ドアの向こうが、新しい起点よ」
悠人がドアを押し開けると、三月の風が桜の香りと夕日の熱を連れて一気に流れ込んできた。屋上は濃密な琥珀色に染まり、二人の影は粗いコンクリートの上に長く伸びて重なった。 悠人はフェンス際に立ち、深く息を吸った。三年間過ごした学び舎を見つめ、心の中に準備していた無数の言葉を思い浮かべる。未来の大学生活のこと、守り続けるという誓い、完璧を追い求めないという告白。
しかし、彼が口を開くより先に、凜が一歩前へ踏み出した。 風が彼女の髪を乱すが、その瞳はかつてないほど澄んでいた。彼女は悠人を見つめ、風の中で凛とした声を響かせた。
「悠人。あなたと一緒にいることは、私の計画を遥かに超えた事象だったわ」 悠人は言葉を失った。凜の瞳の中で、砕けた光が揺れている。 「分かっているわ。もうデータだとか、確率だとか、座標だとか……律が残した残影の話はすべきじゃない。全部デリートすべきだって」 「でも、これだけは言わせて。私が友達として、彼女として、あるいはどんな形であれ、あなたの側にいる一分一秒……」 凜は一度言葉を切り、世界で一番優しい微笑みを浮かべた。
「それは私にとって、100%の集中なの」
彼女は両手を伸ばし、ずっと被っていた、悠人から贈られたあの白い帽子を脱いだ。夕日を浴びた彼女の指先が微かに光り、ゆっくりと、優しく、その帽子を悠人の頭に被せた。 大きめのつばが悠人の視界を遮り、世界の喧騒を遠ざける。
悠人が反応する間もなく、凜は静かにつま先立ちをした。 真っ白なつばと金橙色が交差する狭い視界の中で、凜は身を乗り出し、悠人の唇にそっと触れた。
それは計算された正確さでも、ロジックによる必然でもない。 二つの歯車が二年の月日を経て、この一秒、ついに隙間なく噛み合った瞬間だった。
屋上の時間は、強力な重力場に捻じ曲げられたかのように、極めて緩やかに流れた。 そのキスは青くさく、けれど迷いはなかった。凜の唇が重なった瞬間、三年間抑え込んできた、修復し、砕けては組み直してきたすべての感情が、その触れ合いを通じて溢れ出した。悠人の視界は白い帽子のつばに覆われ、世界は鼻先に漂う凜の淡い香りのみに凝縮された。
長い重なりの中で、悠人の手は微かに震え、やがて凜の細い手を探り当てた。彼はすぐに握りしめるのではなく、指先でそっと彼女の手のひらをなぞり、そこに宿る、機械ではない温もりを確かめた。 凜もそれに応えた。指を悠人の指の間に滑り込ませ、十本の指を固く絡め合わせる。その強さは、お互いの存在を刻み込むかのようだった。
ようやく唇が離れた時、二人の呼吸は少し乱れていた。 凜は離れず、そのまま額を悠人の肩に預け、彼の腰に腕を回した。悠人もまた、彼女を強く抱き寄せた。顎を彼女の頭に乗せ、節々が白くなるほど力を込める。かつて「コードの集合体」と見なされていたその身体を、自分の生命の中に溶け込ませるかのように。
「悠人……」凜が悠人の胸の中で、その名を呼んだ。「私の核心温度が……上がりすぎているみたい」 「なら、そのまま上げ続けてよ」悠人は目を閉じた。「これは故障じゃない。これが『生きている』って感覚なんだ」
二人は静かに抱き合った。屋下から聞こえてくる卒業式の定番曲が、風に乗って途切れ途切れに届く。 やがて凜はゆっくりと腕を解いたが、手だけは繋いだまま、腰に下げたカメラを手に取った。悠人が直した、あの新しいカメラだ。 夕日の最後の光がカメラを照らし、2008年から届いた古いシャッターが、内省的な輝きを放った。
「記録しましょう……私たちのことを」 凜が静かに提案し、悠人は頷いた。彼はカメラを握る凜の手に自分の手を重ねた。二人は協力してカメラを掲げ、レンズを自分たちへと向けた。 ファインダー越しに、白い帽子を被った自分と、その肩に寄り添い、頬を赤らめた凜が見えた。
「押すわよ」 重なり合った指が、古いレバーを動かした。 「カタ、カタ、カタ……」 その軽快な機械音は、過去と未来の橋渡しだ。レバーが戻ると同時に、二人はシャッターを切った。
「カシャッ」
それは、二人の新しい生活の、最初の一枚だった。
画面の中では、夕日が街全体を琥珀色に染め上げ、恋人たちのシルエットがその光の中心に刻まれていた。 悠人は少しサイズの合わない白い帽子を被り、つばの下から覗く横顔には、すべてを委ねたような安らぎが満ちている。凜は悠人の肩に額を預けたまま、あの氷山のように正確だった口角に、数理ロジックでは説明できない幸福な弧を描いていた。
何より美しいのは、繋がれた手だった。 画面の下方で、二人の指は白くなるほど強く絡み合っている。それは単なる体温の伝達ではなく、異なる二組のコードが長い調整を経て、ついに書き換えられることのない「定数」へと合体したかのようだった。
背景では、三月の桜が風に舞い、無数の淡い紅となって、黒いガウンと白い帽子の間に彩りを添えていた。 その写真は、遠い未来でも、過去の遺憾でもなく、「今この瞬間」を正確に射抜いていた。 かつて自らを機械と称した少女が、あの一秒、愛のために鼓動する「人間」へと完全に変わった姿を。
数十年後、この写真の端が丸まり、色が褪せ、2008年の部品が動かなくなったとしても。 二人はこの一枚を通じて、あの夕暮れの桜の香りを思い出すだろう。
これが、彼らの座標。 これが、今この瞬間の、お互いへの100%の集中。




