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100%の集中モード  作者: WE/9
変数の出現

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40.バレンタインデー

二月十四日、バレンタインデー。 葉山家のキッチンは、今まさに「科学では説明不能」な混沌状態に陥っていた。悠人は咲良に「男子禁制の神聖な領域」としてリビングへ追い出され、壊れた時計の修理を余儀なくされている。今、キッチンは三人の少女たちの戦場と化していた。


「カカオバターの物理特性に基づき、撹拌速度は毎秒1.2回転を維持。温度は32°Cを恒常的に保つ必要があります」 CCは潔白な新しい帽子を被り、精密手術でも行うかのような厳粛な面持ちでいた。左手に赤外線温度計、右手にスパチュラを持ち、ボウルの中のチョコレート液を「最適論理状態」に保とうと試みている。しかし、昨夜悠人に帽子を贈られた時の笑顔が脳裏をよぎった瞬間、手の頻度が乱れ、危うく汗がボウルに落ちそうになった。 「あ、数値がオーバーフローした……温度が36度まで急上昇しました!」 CCは短く悲鳴を上げ、大慌てで温度を下げようとする。


「あー、CCちゃん、固すぎだよ! チョコレートなんて『魂(Sugar)』さえ込めれば美味しくなるんだから!」 隣の台では、咲良が「破壊的クッキング」の真っ最中だった。テーブルの上にはココアパウダーがぶちまけられ、ハート型の型には色とりどりのトッピング、果ては正体不明の「パチパチキャンディ」まで詰め込まれている。 「食らえ! 『スーパー無敵咲良特製・愛の爆弾』!」 咲良が豪快に混ぜた拍子に、真っ黒なチョコ液が「パチャッ」とCCの白い袖口に飛び散った。 「……咲良、あなたの魂が……私のデータに付着したわ」 CCは呆然と袖を見つめ、その瞳に諦めの色がよぎった。


二人が「論理崩壊」と「物理破壊」の膠着状態に陥る中、テーブルの端から規則正しい音が響いた。 蛍はヘッドホンをつけ、無表情ながらも恐ろしいほど正確な動作で作業をしていた。目の前には電子秤、真空低温調理器、そして実験室レベルのピペットまで並んでいる。 「二人とも、カカオ豆の死骸を床に撒き散らさないでくれる?」 蛍は冷淡に、冷却の終わったチョコを型から外した。カチッという澄んだ音と共に、黒曜石のような光沢を放ち、気泡一つない完璧なトリュフチョコが並んだ。 「き、綺麗……」CCが近づいて観測し、感嘆の声を漏らす。「蛍、どうやって凝固曲線を計算したの?」 「計算なんてしてない。オーブンを制御する自動調温プログラムを書いただけよ」 蛍はヘッドホンを外し、マグマのような咲良の産物と、練りすぎてザラついたCCのチョコを冷ややかに一瞥した。 「……絶望的ね。これを悠人に渡すつもりなら、先に胃洗浄の予約をしておくことを勧めるわ」


「いい加減にしなよ、この毒舌ガキ!」 咲良がチョコまみれのスパチュラを振り回して怒る。 「事実を述べているだけよ」蛍は優雅に自作のチョコを一粒口に運び、幸せそうな笑みを浮かべた。「ふむ。風味の解像度98%。……CC、もし誰かを今日中に殺したくないなら、これを一粒貸してあげてもいいわよ?」


CCは自分の「論理失控」チョコと、咲良の「愛の爆弾」、そして蛍の冷徹なまでに完璧な作品を見比べ、深い演算のジレンマに陥った。「心意気」と「食の安全」、バレンタインの第一座標として選ぶべきはどちらなのか。


リビングでピンセットを握る悠人は、キッチンの騒ぎ――咲良の悲鳴、蛍の毒舌、そして時折聞こえるCCの慌てた「座標修正」の独り言を、無意識に拾い続けていた。 「ふぅ……」悠人はピンセットを置き、窓の外を眺めた。 CCが白い帽子を被るようになってから、この家は一気に明るくなった気がする。彼はポケットの中の小さな木箱に触れた。この数日、夜中にこっそり時計の歯車で作った「永遠の座標」のペンダントだ。


そこへ、キッチンのドアが開いた。 「餌付けの時間よ」 蛍が先頭を切って現れ、芸術品のようなチョコを差し出した。「この家における調理技術の最高到達点よ。食べなさい、お兄様」 「お、おう。ありがとう、蛍」 悠人が一粒食べると、精密機械を食べているかのような正確な食感に圧倒された。


次に、煤だらけの咲良が飛び出してきた。「悠人! 外観に『不可抗力的なエントロピー増大』が起きたけど、これは私の魂の結晶よ! 水を大量に用意して食べてね!」 悠人はずっしりと重い「爆弾」を受け取り、苦笑いした。


最後は、うつむき加減に躊躇しながら歩くCCだった。オーバーサイズのパーカーを着て、白い帽子を深く被り、両手を袖の中に隠して、素朴な紙箱を差し出した。 「悠人……」CCの声は蚊の鳴くように細かった。 箱を開けると、そこには不格好なチョコが入っていた。縁にはカッターで修正しようとして失敗した痕がある。温度管理が上手くいかず、光沢もない。 「蛍の評価によれば……これは『廃棄物レベル』の作品よ」 CCは唇を噛み、羞恥心に瞳を揺らした。 「温度を計算しきれなかったの。……ごめんなさい」


悠人はそのチョコを見つめ、それからCCの不安げな顔を見た。彼は何も言わず、一粒を口に放り込んだ。 少し苦く、その後に過剰な砂糖の甘さが広がり、食感はザラついている。だが、その不均一な粒子の感触から、キッチンで何度も温度計を確認し、彼のために緊張し続けたCCの「心拍」が伝わってきた。


「……美味しいよ」 悠人の眼差しは、窓の外の残雪を溶かすほどに優しかった。 「……嘘よ」 CCはうつむいた。白い帽子の下で、困惑が揺れる。「味覚データの最適解とは、ほど遠いはずだわ」


「データは最悪だけど、温度は正しいよ」悠人はCCの広い袖を引き寄せ、自分の方へと少し引き寄せた。「蛍のチョコは完璧な『作品』だけど、CCが作ったのは僕への『チョコレート』だ。この不規則な甘さこそ、僕が保存しておきたい座標なんだ」


CCは呆然とした。頬の温度が、先ほど制御しようとして失敗したカカオバターの融点を遥かに超えて上昇していくのを感じた。 「……悠人。私の冷却システムが……フリーズしたみたい」 彼女はうつむいたが、口元には抑えきれない笑みが浮かんでいた。


「はいはい、ごちそうさま!」 咲良が手を叩き、リビングの甘ったるい空気を切り裂いた。「チョコの発送が終わったなら、次のミッションに出発よ! 冷蔵庫が空っぽで細菌がデモを起こしてるわ。目標、駅前スーパーの『バレンタイン特売』!」


四人は連れ立って家を出た。CCは真っ白な帽子を被り、二月の寒風の中を歩く。観測任務ではなく、一人の普通の人間として、生活感の溢れる場所へ向かうのは初めてだった。 「いい、CCちゃん。スーパーの特売コーナーは戦場よ!」 咲良はカートを押し、オリンピック選手のような鋭い目で宣言した。


スーパーの中は混雑していた。CCは冷凍庫の前でラベルを見つめ、脳をフル稼働させた。 「悠人、左前方45度のオージービーフが30%オフ。でも色彩飽和度から判断して、右側の定価の方が脂質の黄金比に近いわ……」 「CC、安い方でいいんだよ。そんなに細かく計算しなくていいって」悠人は笑いを堪えて後ろをついていく。 「ダメよ、これは私が唯一できることなんだから」


一方、蛍は淡々と半額の寿司をカゴに放り込み、スマホを操作していた。 「悠人、スーパーの在庫管理システムをハック……じゃなくて、補充時間を予測したわ。三分後、あっちで半額の大福が出るわよ」 「蛍! スーパーでハッキング技術を使わないでくれ!」


その時、特売のアナウンスが流れた。「主婦の闘志」を燃やした客たちが生鮮コーナーへ殺到する。CCは初めてその「非理性的な人の波」に押され、バランスを崩してよろけた。 悠人は素早く踏み込み、彼女の腰をしっかりと抱きとめた。 白い帽子のつばが悠人の胸に軽く当たり、CCは彼を見上げた。喧騒と安売りのラベルに囲まれたその場所で、彼女は極上の静寂を感じた。


「……大丈夫?」悠人の声が、すぐ近くで響く。 「……また、助けられたわね。ありがとう」 CCは帽子を直し、赤らめた顔で小さく言った。「悠人、スーパーは騒がしいけれど、実験室よりずっといい匂いがするわ」


それは生鮮品の香りと、パンの焼ける匂い。そして、隣にいる少年の温かな体温の匂いだった。


夕焼けがスーパーの窓から差し込み、四人は戦利品を抱えて帰り道を歩いた。咲良は半額のチキンをゲットしたと喜び、蛍は冷蔵庫の収納効率を計算し、悠人とCCは最後尾を歩く。雪の残る道に、二人の重なり合った長い影が伸びていた。


CCは新しい白い帽子をそっと押さえた。 この「不合理な」日常が、少しずつ、彼女の冷たいデータ座標を温かな色彩で塗り替えていた。

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