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38/59

38.終わりにしましょう

午前二時、氷室家の外に響いていたパトカーのサイレンが、ようやく遠くへと消えていく長鳴きに変わった。 律は連行される直前、車のドアの横で足を止めた。高価なダークグレーのコートは土と血に汚れ、鼻梁の傷が彼を無様にさせていたが、その灰色の瞳は依然として屋内の影を凝視していた。自分が「作り上げた作品」であるはずの姿を、必死に探しているようだった。だが、彼を待っていたのは、電子ゴミでも見るかのような蛍の冷徹な蔑みだけだった。


「お嬢ちゃん、君には素質がある。……今度は僕が君を改造してあげようか?」

「お断りよ。消えなさい」

ドアが閉まる鈍い音と共に、九年間にわたって凛の悪夢を支配し続けた銀色の影は、物理的な鉄格子の向こうへと隔離された。


屋内には死のような静寂が戻った。氷室氏は力なくソファーに座り、両手で顔を覆って肩を激しく震わせていた。リビングの大画面には、蛍が暴いた取引記録や監視映像が静止したまま映し出されている。それはまるで真実を映す鏡のように、この九年間、この家で起きていた歪んだ現実を突きつけていた。


「すまなかった……凛……」 父親の声は掠れ、壊れていた。彼はゆっくりと立ち上がり、悠人のそばで身を縮めている凛(CC)へと歩み寄った。ポケットから古いハンカチに包まれたものを取り出し、震える手で差し出した。「これは……先ほど、律の荷物の隠し場所から見つけたものだ」


ハンカチを開くと、そこには踏み潰されたオルゴールが横たわっていた。歯車はひどく歪み、かつて金メッキされていたゼンマイは三つに断裂して、冷たい骸のようだった。 「九年前、律は私に言ったのだ。君が演算負荷のせいでうっかり壊してしまったと。そして、そのことで君に深刻なロジックエラーが生じているから、自分に『感情修正』を任せてほしいと……」


父親の涙がハンカチの上に落ちた。 「私は奴のデタラメを信じてしまった……。あいつが君を強くしてくれているのだと思い込み、君の中の『人間』としての部分が少しずつ解体されていることに気づけなかったんだ」


凛はそのオルゴールの残骸を見つめた。九年間、彼女はずっと自分が「贈り物を壊した罪人」だと思い込み、あの0.8秒の躊躇が人生の汚点だと信じてきた。だが今、真実が明かされた。その「遺憾」は彼女の無能さゆえではなく、周到に計画された裏切りによって生じたものだったのだ。


「……父さんは、もう君に何も求めない」 父親は声を詰まらせ、初めて一人の父親として、慈愛と罪悪感の入り混じった目で娘を見つめた。 「これを捨てたいなら捨てていい。悠人君の家にしばらく厄介になりたいと言うなら、それも応援する。……ただ、これだけは分かってほしい。君は、決して壊れてなどいないんだ」


凛は指先を伸ばし、冷たい金属の歯車にそっと触れた。今回、脳裏に律の嘲笑が浮かぶことはなかった。代わりに、長く積み重なっていた重荷がゆっくりと崩れ去っていくのを感じていた。


「行こう、凛」悠人が静かに言った。その手は今も、彼女の肩をしっかりと支えている。「今夜は雪がひどい。まずは、このデータだらけの場所から離れよう」


凛は頷き、監獄のようだったリビングを最後にもう一度見つめてから、外へと歩き出した。今度は、自分の意志であの黒いキャップを被り直した。外の寒風は鋭いが、彼女は律に定義されることのないこの街を、自分の目で見たいと思った。


葉山家の玄関には、オレンジ色の温かな灯りが漏れていた。氷室家の無機質な冷たさとは対照的な光だ。 「ただいま……お客さんも連れてきたよ」 悠人がドアを開けると、疲労の後に訪れるリラックスした声が響いた。


放課後、氷室家へ同行していなかった咲良は、大きなサイズのパーカーに身を包んで飛び出してきた。凛の青ざめた顔と額の腫れを見るなり、彼女は何も言わず、まずは凛を力強く抱きしめた。「おかえり。あとのことは全部任せて」


事態が急変したことと、外の吹雪が強まったため、咲良と蛍も今夜は悠人の家に泊まることになった。 「さあ、いつまでもボーッとしてないで。まずはこれを飲みなさい」 キッチンから出てきた蛍の手には、湯気の上がるお汁粉の椀があった。普段はコードを叩くためだけにある彼女の手が、今は不器用そうにスプーンを差し出している。


凛は磁器の椀を抱えた。指先に伝わる熱に、少し意識が遠のく。律がくれたチョコレートは常に正確な摂氏25度だったが、このお汁粉は視界が曇るほどに熱かった。小豆は少し煮崩れ、甘さも実験室のデータのように正確ではない。だが、その不規則な熱が胃に染み渡る時、凛は胸の中にある九年間凍てついていた氷山が、音もなく溶け出していくのを感じた。


「部屋は二つしかないわ」蛍がお汁粉を一口啜り、淡々と現実を告げた。 「私と咲良は客間。お姉様、あなたは今夜、悠人と寝なさい。あっちの部屋には暖房があるし、あなたみたいな低体温の『故障品』を修復するには適しているわ」


「えっ!? ちょっと待てよ、蛍!」 悠人はお汁粉にむせそうになり、顔を真っ赤にした。 「何が『えっ』よ」咲良が隣で意地の悪い笑みを浮かべ、悠人に肘鉄を食らわせた。「まさか、凛ちゃんを寝相が最悪で真夜中に寝ぼけてコードを書くような蛍と一緒に寝かせる気? それとも私たちと雑魚寝したいの?」


「それは……」悠人は、頬を赤らめてうつむいたままの凛を見て、ついに降参した。


隣の客間からは咲良と蛍の騒ぎ声が聞こえてくる。 「蛍! このノートPC固いよ、腰に当たってる!」「あなたのほうこそ、私の顔をいじるのやめて。スマホ、ハッキングするわよ」

「やってみなさいよ! 枕投げの刑だー!」


そんな活気ある喧騒を余所に、悠人の部屋の空気は静かで、どこかぎこちなかった。 悠人がクローゼットから予備の布団を引っ張り出し、床に敷こうとしたその時、ベッドの端に座っていた凛が、そっと彼の裾を掴んだ。


「……床で寝ないで」 凛の声は蚊の鳴くように細かった。彼女は悠人のオーバーサイズの白いTシャツを着ており、袖口から指先が隠れるほどで、その姿は小さく、脆そうに見えた。 「一人は怖い……。隣に誰もいないと、またあの0.8秒の中に引き戻されそうになるの」


悠人の心臓がドクンと跳ねた。凛の澄んだ、しかし縋るような瞳を見つめ、彼はゆっくりと布団を置き、ベッドの反対側へと腰を下ろした。 「分かった。どこにも行かないよ」


部屋には暖色系のベッドサイドランプが一つだけ灯っていた。凛はゆっくりと身体を動かし、熱源を探す子猫のように悠人へと近づいた。言葉は交わさなかったが、彼女はそっと悠人の肩に頭を預け、制服のジャケットの下にある、真実味を帯びた、熱い体温を感じ取った。


悠人は一瞬強張ったが、すぐに力を抜いた。彼は腕を回し、凛の細い肩をそっと抱き寄せた。指先が額の腫れた傷に触れる時、その動作は極めて優しくなった。 「まだ……痛むかい?」彼は低く尋ねた。


凛は目を閉じ、悠人の首筋に顔を寄せた。彼女が初めて自ら求めた、「非論理性」の極みとも言える親密さ。 「ここは痛くないわ……。でも、心拍数がすごく速いの。悠人、これも誤差なの?」 「これは誤差じゃないよ」悠人の声は少し掠れていた。彼は彼女の頭のてっぺんに、邪念のない、清らかなキスを落とした。「君が生きていて、誰かに大切に想われているという証明だ」


この瞬間、データも座標も存在しなかった。ただ二つの魂が、凍てつく二月の深夜に、互いの体温を通じて「完璧」という刃に傷つけられた痕を修復し合っていた。


午前三時、雪が止み、窓の外の東京は薄っすらとした銀世界に包まれていた。 悠人は腕の中の彼女が眠っていないことに気づいた。呼吸は穏やかだが、指先が無意識にハンカチに包まれた硬い塊を撫で続けていた。彼は凛の肩を軽く叩き、低く囁いた。「ベランダへ行こうか。あそこの空気は澄んでいるよ」


二人は厚手の毛布を羽織り、ベランダのウッドデッキに並んで座った。 凛はゆっくりとハンカチを広げた。壊れたオルゴールが月光の下で刺すように光る。歪んだ歯車、断裂したゼンマイ。それは律が彼女の「故障」を定義するために使った鉄の証拠だった。


「律は、私はオルゴールも直せない二級品だと言ったわ」凛はその残骸を見つめた。瞳にあるのはもう恐怖ではなく、深い疲労だった。「この九年間、脳内で何万通りもの修復ルートをシミュレートした。でも、どうしても結果は失敗になる。それが私の人生の結論なんだと思っていたわ」


悠人はその残骸を受け取った。彼は論理で分析することなく、ポケットから小さなピンセットを取り出した。時計の芯を調整するための道具だ。彼は溶接も再構築もしようとはせず、ただ、まだ形を留めている一つの転輪を、そっと弾いた。


「……チッ……カッ……」 損傷した金属が擦れ合い、暗く、外れた音符を一つだけ奏でた。


「ほら、鳴ったよ」悠人は凛を見た。その眼差しは月光よりも優しかった。「旋律は途切れ途切れで、リズムもめちゃくちゃだ。でも、これがこの子の今の『声』なんだ。完璧でなければ音楽じゃないと言うなら、どうして人間は歌を歌うんだろう? どうして外れた民謡を聴いて涙を流すんだろう?」


彼は凛の冷たい手を握り、壊れた歯車を彼女の掌に乗せた。 「あの0.8秒の停止は、君の罪じゃない。それは君が人間として、悲しみに直面した時に見せた最も誠実な反応なんだ、凛。君は壊れた機械じゃない。自分の鼓動を聴いている女の子なんだよ」


凛はその歯車を見つめ、ついに瞳を潤ませた。彼女は立ち上がり、ベランダの縁へと歩み寄ると、雪に覆われた静寂な街を見下ろした。そして目を閉じ、脳内で最後の一つの命令を実行した。 【デリート:律による評価レポート】


そして、力一杯、手を振り抜いた。 九年間の呪いを宿した壊れた歯車は、銀色の弧を描いて空を舞い、静かに積もった雪の中へと吸い込まれていった。


「デリート……完了したわ」凛は振り返り、再会して以来、初めて心からリラックスした微笑みを見せた。


悠人は歩み寄り、背後から彼女を優しく抱きしめた。今度は、凛は退かなかった。温かな座標へと、自ら寄りかかった。


二月の明け方の微光の中で、かつての壊れた『カノン』はもう重要ではなくなっていた。悠人の呼吸音と、凛の鼓動が重なって奏でるメロディ。二人のための、全く新しい交響詩シンフォニーが、今まさに始まろうとしていた。

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