37.追いかける
氷室家の近くにあるカフェ。黒いセダンはすでに二月の寒霧の中へと消えていた。 悠人は窓辺に立ち、寒さと怒りで指先を微かに震わせていた。何度もCCの携帯を鳴らすが、返ってくるのは冷淡なシステムガイダンスの音だけだった。
「落ち着け、悠人。律はあの車に信号ジャマーを積んでいる」 小野寺が眼鏡を押し上げ、レンズ越しに青白い画面を高速でスクロールさせた。タブレットを叩く音が激しく響く。 「彼はCCをこの街の周波数から完全に抹消するつもりだ。もっと高い権限のバックドアが必要だ。氷室家のファイアウォールを直接バイパスする」
「……蛍に連絡する」悠人は予備の番号をダイヤルした。 五分後、イヤホンから従妹の蛍の声が聞こえてきた。少し退屈そうで、それでいて恐ろしいほど冷静な声だ。 「――権限掌握完了。お兄様、氷室家のスマートホームシステムは『クローズドモード』に設定されているわ。あの男、リビングから寝室までの監視カメラをすべて私用暗号化クラウドに転送中よ。……でも、お掃除ロボットのベースカメラだけは漏れているわね」
蛍の指がキーボードの上で死神のリズムを奏でる。三十秒も経たないうちに、不鮮明ながらもリアルタイムの映像が悠人と小野寺の端末に送られてきた。 画面の中、廊下の照明は極限まで落とされていた。律の銀色の背中が、歪んだ稲妻のようにCCを壁際に圧迫している。音声はない。しかし、激しく上下するCCの肩と、無残に形を歪めた帽子が、その絶望を無言で訴えていた。
「システムのフォーマットを行っているんだ」 小野寺の声が氷のように冷え切った。「彼はCCの電子ロック権限を強制リセットし、彼女のすべての社会的繋がり――僕たちの連絡先も含めて、永久に遮断しようとしている。悠人、このプロセスが完了すれば、CCの外部感知はすべて彼にジャックされる」
「……住所を。今すぐ送れ」 画面の中で、律に密着され、呼吸さえままならないCCを見た悠人の瞳から、いつもの温厚さが消え失せた。代わりに宿ったのは、燃え盛るような冷徹な殺気だった。 「小野寺、君は教授に連絡を。蛍、警察が着く瞬間に合わせて、遠隔で鍵を開けてくれ」
「了解よ、お兄様。――狩りの時間ね」 蛍がエンターキーを叩く音が響いた。その声には、身内を傷つけられた者特有の激しい怒りが籠もっていた。
悠人は自転車に飛び乗り、二月の冷たい雨の中を狂ったように漕ぎ出した。彼の背後で、信号機がまるで意志を持ったかのように、彼の軌跡に合わせて次々と青に変わっていく。小野寺は走りながら、電話の向こうの教授に向かって叫んだ。 「教授! 今すぐ戻らないと、九年前に守れなかったものが、今日、完全に粉々に砕け散りますよ!」
闇を切り裂く車列の中で、悠人の鼓動と懐中時計の刻む音が重なった。これは単なる住所への移動ではない。闇に飲み込まれようとしている、世界でたった一つの座標を救い出すための、命を懸けた疾走だった。
薄暗い廊下で、律の気配は細かな網のように、凛を冷たい壁と自らの胸の間に封じ込めていた。 「この帽子は、もう長く被りすぎたね」 律の声は、毛のよだつような病的な優しさを含んでいた。
彼は凛の怯えるような抵抗を無視し、強引につばを掴むと、力任せに引き剥がした。避風港の象徴であり、CCにとっての最後の砦でもあったあの黒い帽子が、布の擦れる音を立てて床に虚しく転がった。 遮るものを失い、恐怖と混乱に満ちた凛の瞳が、律の直視の下に完全に晒される。律は満足げな溜息を漏らすと、彼女の乱れた髪に手を差し入れ、乱暴に後ろへかき上げた。
「ごらん、これこそが君のあるべき姿だ。ノイズもなく、遮るものもない。僕が剪定し上げた、最も完璧で純粋な空洞だ」 律は顎を強く掴み、彼女を無理やり仰け反らせた。睫毛が触れ合うほどの距離で、凛は律の灰色の瞳の中に、蒼白になった自分の顔が映っているのを見た。
「凛、知っているかい? この世で最も魅惑的な論理……それは『絶対的な従属』だ」 律の眼差しが次第に熱を帯び、歪んでいく。彼は酸欠で震える彼女の唇の間近で、反吐が出るような独白を紡いだ。 「君の脳には僕のコードが刻まれ、その恐怖は僕が手塩にかけて育てた産物だ。今から、この実験体の最後の権限を回収させてもらうよ。……無用な論理を吐き出すその口も含めてね。君の全感覚に、上書き不能な唯一の刻印を植え付けてあげる。これから呼吸をするたびに、僕が与えた恐怖と――快感を思い出すようにね」
律の腕が猛然と引き絞られ、凛の華奢な身体を自分へと力強く密着させた。彼は獲物を数え上げる捕食者のような傲慢さで目を閉じ、震える紅い唇目掛けて、侵略的に顔を伏せた。
律の唇が強引に重なろうとしたその瞬間、時間は静止したかのような静寂に包まれた。 凛の脳裏に、今の精密な論理とはかけ離れた一人の少年の姿が浮かんだ。だらしなくて、平凡で、でも短期間のうちに律に代わって、自分を救い出してくれたもう一人の「救世主」。
その0.8秒の論理的死角において、凛は崩壊することを選ばなかった。彼女はカッと目を見開いた。空虚だった瞳の中に、決然とした激しい殺意が爆発した。彼女は全身の力を振り絞り、額を最後の一撃として、前方へと叩きつけた!
「ゴンッ!」という鈍い衝撃音。律は悲鳴を上げて後退し、鼻梁から鮮血が噴き出した。 「君が……まさか……っ!」 律が言い終わる前に、玄関からロック解除の電子音が響き渡った。
ドアが悠人と駆けつけた警官たちによって軽々と開けられ、制服姿の警官二人が廊下へとなだれ込み、出口を瞬時に封鎖した。 「警察だ! 動くな!」
氷室教授がその直後に飛び込んできた。床にへたり込む凛と、顔中を血に染めて狂気を剥き出しにする律。データに没頭し続けてきた教授の目から、ようやく悔恨の涙が溢れ出した。彼は駆け寄り、律の頬を力任せに張り飛ばした。 「私の座標から出て行け! 凛の世界から消えろ!」
律は壁際に崩れ落ち、優雅だった銀髪は見る影もなく乱れていた。彼は神経質な笑い声を上げ、「これは科学のため、彼女を育てるためだ」という歪んだ持論で弁明しようとした。だがその時、リビングの隅から冷ややかな声が響いた。
「見苦しい芝居はやめなさい。吐き気がするわ」 蛍がドア枠に寄りかかり、家中を掌握したノートPCを手にしていた。悠人に似て、しかしより冷徹なその瞳には、深い蔑みと嫌悪が宿っている。彼女は無様に転がった律を、腐敗した実験サンプルを見るかのように見下した。
「完璧に暗号化したつもりでしょうけど、あなたのクラウドは穴だらけよ」 蛍がキーボードのキーを一つ叩くと、リビングの大画面に律がここ数日で行った研究データの横流し記録と、CCの自由を不法に制限するためのコード指令が映し出された。 「本物の技術の前では、あなたの変態的な『執着』なんてゴミ同然のコードですわ」
警官たちは証拠を確認すると、即座に律の手首に手錠をかけた。 「律さん、不正アクセス、監禁罪、および研究成果の横領の疑いで同行願います」
連行される間も、律の灰色の瞳はCCを射抜くように凝視し続けていた。だが今度は、CCは目を逸らさなかった。
悠人は自分の制服のジャケットを脱ぎ、震えの止まらない凛を優しく、しかし確かな力で包み込んだ。彼女の頭を自分の肩に寄せ、温もりで先ほどの息詰まるような侵略の記憶を上書きしていく。
凛は目を閉じ、悠人の規則正しく、激しく、そして真実味のある鼓動を聴いた。律の影はパトカーのサイレンと共に遠ざかり、彼女はついに、壊れた論理の破片の中から、自分自身の座標を取り戻したのだ。




