36.心に植え付けられた恐怖
九年前の冬、東京は街の輪郭さえも覆い隠すほどの豪雪に見舞われた。 当時の氷室家は、現在のハイテクで無機質なマンションではなく、郊外にある屋根裏部屋付きの古い洋館に住んでいた。七歳の凛にとって、毎日最も恐ろしいのは窓を開けることだった。彼女の世界では、感覚信号は常に混乱し、暴力的だった。遠くでレールを鳴らす電車の轟音、隣家の時計の不正確な刻み、枝に積もる雪の微かな重みさえも、彼女の脳内では止まることのないデータの奔流へと自動的に変換されてしまう。
「うるさい……」 小さな凛はリビングのテーブルの影にうずくまり、両手で耳を強く塞いでいた。情報過多に陥った瞳が、不安げに小刻みに震えている。
「こんにちは。初めまして、僕の名前は律だ」
その時、一足の銀灰色の革靴が視界の端で止まった。 「凛、世界はそれほど怖いものじゃない。君はまだ、ピントの合わせ方を学んでいないだけだよ」
十四歳の律は、猫のように優雅な動作でその場にしゃがみ込んだ。彼は氷室氏が海外から呼び寄せた「天才少年」だった。当時の凛の目に映る律は、まるで雪の中から現れた神様のようだった。透き通るような銀髪と、万物を見通すような清廉な瞳。彼はテーブルの下の凛に向かって、柔らかな微笑みを浮かべた。
律はコートのポケットから、冷ややかな外気を纏った黒いベースボールキャップを取り出した。彼は節くれ立った細長い手を影の中へと伸ばし、まずは凛の冷え切った手の甲にそっと触れてリラックスを促すと、そのまま優しく彼女の頭に帽子を被せた。
律の指先には、わずかに温かなペンだこがあった。つばの位置を調整する際、彼の指先が凛の額や耳の縁をかすめる。彼は凛の乱れた黒髪を丁寧に整え、天井にある眩しすぎる蛍光灯を遮るのに十分なほど、深くつばを押し下げた。
「さあ、今は何が見える?」 律の声は氷の下を流れる渓流のように、澄んでいて安定していた。 キャップのつばが落とす影の向こう側で、世界は一瞬にして静かで、狭くなった。乱雑な色彩は遮断され、彼女の視界には律の優しい灰色の瞳だけが残った。
「……あなたが見える」凛は小さな声で答え、激しかった呼吸は次第に平穏を取り戻していった。 「それでいい。僕の前では、世界中のすべてを観測する必要なんてないんだよ」
律はポケットから美しく包装されたブラックチョコレートを取り出し、銀紙を剥いて凛の口元に運んだ。 「誤差は宇宙の呼吸なんだよ、凛。もし計算に疲れたら、そのつばの下に隠れていい。僕が君の唯一の座標になってあげるから」
あの頃の律は、凛を公園へ連れて行き野良猫の呼吸数を観察する兄であり、凍えるような実験室で毛布を掛けてくれる守護者だった。彼は凛に論理を教えたが、論理の外側で雪だるまを見つめてぼんやりすることも許してくれた。七歳の凛にとって、律が被せてくれたその帽子は、逃避のための殻ではなく、律が与えてくれた世界で最も温かい避風港だったのだ。
だが、その銀色の優しさは、翌年の春、桜が泥にまみれて散る頃には静かに毒素へと変わっていた。
十四歳の律は、「完璧」に対して病的なまでの執念を抱いていた。彼が凛に向ける愛は、「彼女が完全なる理性的データマシンになること」を前提としていたのだ。しかし、生活の細部を追ううちに、律は凛の中に宿る「人間」としての柔らかさが、雑草のようにたくましく成長し、彼が設計した精密な軌道を乱し続けていることに気づいた。
決定的な亀裂は、庭の小道で起きた。 あの日、一羽の傷ついたスズメが石段のそばに落ちていた。羽は血で汚れ、ぐったりとしていた。八歳の凛はその場にしゃがみ込んだ。その瞳には、律が教えた「種保存の確率分析」などなく、溢れんばかりの無力感と悲しみだけがあった。彼女は震える小さな手で、死にゆく命を自分の掌で温めようとした。
「凛、何をしているんだい?」 後ろから律の声がした。相変わらず優雅だが、凛の首筋を凍りつかせるほど冷ややかだった。 「律……この子、痛そうだよ」凛は顔を上げた。瞳には涙が溜まっている。「助けてあげられないかな?」
律は彼女のそばへ歩み寄ったが、腰を下ろすことはせず、見下ろすようにしてその瀕死の肉塊を眺めた。彼は手を伸ばしたが、助けるためではなく、凛の手を強引に引き上げると、腕時計の秒針を指し示した。
「君がこの個体を見てから、そんな無意味な共感反応を示すまでに、12秒を浪費した」 律の指は凛の細い手首を強く圧迫した。その瞳には、寒気のするような嫌悪が走った。 「この12秒があれば、生物が死に至る際の筋肉の収縮頻度を観察できたはずだ。それを君は涙を流すために使った。凛、君のデータは退歩している。これは許されない『偏差』だ」
こうした「修正」は、生活のあらゆる隅々に浸透し始めた。 凛が父親から余分に一つキャンディをもらって笑顔を見せれば、律は冷酷に彼女の帽子を取り上げ、平穏な口調で「糖分摂取とドパミン分泌の相関公式」を言えるようになるまで、暗い実験室に独りきりで座らせた。凛が画用紙に家族三人の拙い絵を描けば、律は彼女の目の前でその絵をズタズタに引き裂いた。
「こうした虚偽の感情的繋がりは、君の弱点だ」 律は裂かれた紙屑を凛の頭上から振りまいた。その語気は急き立てるように神経質になっていた。 「僕が帽子を被せてあげたのは、君を凡庸から隔離するためであって、その中で夢を見させるためじゃない。凛、もし君が感性を殺せないのなら、僕が君の世界への期待をこの手で殺してあげるよ」
崩壊の頂点は、あの午後のオルゴールだった。 凛の手から滑り落ちたオルゴールが床で砕け散った時、彼女はその壊れた歯車を見つめながら、巨大な空白と悲しみの中にいた。それは単なる物への惜別ではなく、律による抑圧への恐怖が限界に達した瞬間だった。
律はタイマーを見つめていた。凛がその0.8秒間に見せた硬直と失意を確認し、彼は残酷な冷笑を浮かべた。彼はゆっくりと近づき、哀鳴を上げる部品を足で踏みつけながら、凛の耳元で悪魔のように囁いた。
「ごらん。これが君の限界だ。その0.8秒の躊躇と、前回のテストの結果が、君が壊れたノイズだらけの二級品であることを証明している。凛、がっかりだよ」
凛は、かつてチョコをくれた少年の目を見つめた。今の彼の瞳には「失敗した実験体」への蔑みしかなかった。あの日、彼女はついに悟った。この帽子はもう避風港などではない。自分を現実世界から完全に遮断するために律が用意した、見えない檻なのだと。
変質した実験は、雷鳴の轟く深夜に終焉を迎えた。 氷室氏が学会から帰宅し、実験室の重厚なドアを開けた時、彼は骨の髄まで凍りつくような光景を目にした。実験室の明かりは消え、数台のモニターが青白い光を放ちながら、中央に置かれた狭い感覚遮断ボックスを照らしていた。
律は監視席に座り、聖職者のような狂信的な笑みを浮かべてデータを記録していた。そして、八歳の凛はボックスの中に閉じ込められ、極限の暗闇と静寂の中で、一秒一秒の経過を震える声で正確に報告させられていた。
「律! 何をしているんだ!」 氷室氏は激昂して駆け寄り、強引に電源を遮断すると、虚脱状態の凛をボックスから抱き上げた。
「教授、あと少しで成功だったのに」 律はゆっくりと立ち上がった。銀色の髪が影の中で不気味に光る。その声には、信じられないことに「心外だ」と言わんばかりの不満が混じっていた。 「僕は彼女の余分な痛覚反射を切除してあげていたんです。あと数回シミュレーションを行えば、彼女は人間としての低効率な本能を完全に捨て去ることができた。あなたも、彼女が完璧な実験体になることを望んでいたはずでしょう?」
「私は彼女に優秀な人間になってほしかったのだ。お前のような怪物になれと言った覚えはない!」 氷室氏は、泣くことさえできず虚空を見つめる娘を抱きしめ、激しい後悔に震えた。 「律、お前は病んでいる。お前の天才性は、他人を破滅させる刃になってしまった」
翌朝、一切の猶予なく、氷室氏はすべての行政手段を講じて計画を凍結させた。律の養子縁組は解消され、海外の研究機関への移送手続きが強制的に取られた。
雨上がりの駅のホーム。空気には湿った土の匂いが漂っていた。 凛は父親の後ろに立ち、律に踏み壊され、こっそりと拾い集めたオルゴールの残骸を握りしめていた。彼女はホームの端に立つ律を見つめていた。心の中にはまだ、わずかな困惑と悲しみが残っていた。自分に帽子を被せてくれたあのお兄さんに、なぜ世界がこうなってしまったのかを問いたかった。
電車が滑り込んでくる轟音の中、律は父親の制止をすり抜け、凛の前に駆け寄った。 父親は反射的に凛を背後に隠したが、律は手を出さなかった。彼はただ、父親の肩越しに、その灰色の瞳を凛に突き刺すように向けた。そして、憐れみと悪意が混じり合った微笑みを浮かべた。
「凛、これが最後の授業だ」 列車の警笛にかき消されそうな、歪んだ声が響いた。 「僕がいなくなれば普通に戻れると思っているのかい? 君が大切に持っているそのゴミを思い出すがいい。あの0.8秒間、君は修復ではなく悲しみを選んだ。その罪悪感は、一生君に付きまとうよ」
彼は声を潜め、彼女の魂の深淵に癒えることのない傷を刻み込んだ。 「君はそのオルゴールを一生直せない。なぜなら、君自身が、世界を狂わせる『壊れた0.8秒』そのものだからだ」
電車の扉が閉まった。律は窓越しに、最後にもう一度だけつばの位置を調整するジェスチャーをしてみせた。その動作は相変わらず優雅だったが、これ以上ないほど皮肉に満ちていた。
凛は空っぽになったホームに立ち尽くし、雨が彼女の靴先を濡らしていた。あの日から、帽子は彼女の視界を完全に遮り、律が残した呪いの言葉は、その後十年にわたって、彼女が自分を定義するための唯一の座標となってしまった。
それは、凛の記憶が二つに分かたれた瞬間でもあった。あの帽子を大切に想う気持ちと、あの男を心の底から恐れる気持ち。彼女はその矛盾を抱えたまま、長い暗闇の中を歩き始めることになった。




