35.優雅と暴力
2月1日、東京の風には細かな氷の粒が混じっていた。 下校のチャイムが鳴り響き、CCはうつむいたままノートを整理していた。律が帰国して以来、彼女の脳内周波数は常に高負荷の焦燥状態にある。律を「過去の変数」だと論理的に説得しようとしても、身体は支配されていた頃の恐怖を鮮明に覚えていた。
「CCちゃん、今日新しくできたお店のホットチョコ、飲みに行かない?」 咲良が明るくCCの肩を抱き、彼女の周りに漂う低気圧を追い払おうとする。 「私は……」CCが口を開こうとした瞬間、校門の前で視線が凍りついた。
地味な黒いセダンの傍らに、濃いグレーのロングコートを着た律が立っていた。銀色の長髪が風に揺れている。彼は手にした二つの温かいブラックコーヒーを持ち、まるで「完璧な兄」のような微笑みを浮かべて、行き交う生徒たちに会釈をしていた。 そのオーラは周囲の騒がしい高校生たちとは決定的に異なり、青春という背景の中に突如として現れた精緻な氷細工のようだった。
「凛、迎えに来たよ。教授が、今夜は手伝ってほしい重要なデータがあると言っていたからね」 律は周囲の好奇の視線を無視して、真っ直ぐCCへと歩み寄った。彼女のわずか一歩手前で足を止め、当然のように手を伸ばしてCCのベースボールキャップのつばを直そうとした――その動作は、数千回も繰り返してきたかのように手慣れていた。
CCは反射的に一歩後退した。それは極めて明確な拒絶の意図だった。 律の手は一秒にも満たない間、空中で止まったが、すぐに優雅に引き戻された。口元には相変わらず真意の読めない笑みが浮かんでいる。 「どうしたんだい? 外の世界に長く居すぎて、家のルールを忘れてしまったかな?」
「今日は友達と約束があるの」CCはリュックのベルトを握りしめた。冷徹な声だが、そこには隠しきれない震えが混じっている。 「友達?」律はそこでようやくゆっくりと顔を向けた。スキャナーのような蔑みの視線で咲良を掠め、最後は校門から出てきた悠人の上で止まった。その瞳は一瞬で深く鋭くなり、安物を鑑定するかのような光を宿した。 「君の演算効率を15%も低下させる、この『ノイズ』たちのことかい?」
「ノイズ?」悠人が足早に歩み寄り、CCと律の間に割って入った。空気を通じて伝わってくるCCの掌の冷たさと恐怖感に、悠人の胸が締め付けられる。 「……あなた、勘違いしているようだ」悠人は律の感情のない灰色の瞳を射抜き、静かだが力強い口調で言った。 「CCの今の状態は退化じゃない。彼女が初めて、自分の周波数を自分で選ぶ権利を手に入れたんだ」
律は声を立てて笑った。その笑い声は寒風の中でひときわ耳障りに響いた。彼は悠人にじりじりと詰め寄る。身長はほぼ同じだが、長年トップクラスの研究室で培われた律の傲慢さは、病的なまでのプレッシャーとなって辺りを支配した。 「権利? 論理の世界にあるのは『効率』と『廃棄物』の区別だけだ」律は手を伸ばし、悠人の制服の襟にある校章を指先で軽薄になぞった。「葉山君、君の父親がやっていたような感性研究は、とうに時代遅れなんだ。凛を君の側にいさせれば、彼女は基本的な読秒すらまともにできない無能に成り下がる」
「律、もうやめて」CCの声が震える。彼女は前に出ようとしたが、律に猛烈な勢いで手首を掴まれた。 それは乱暴な引きずり方ではなく、関節を正確にロックする「封じ込め」だった。CCが脱出できない程度の力を正確に加えつつ、皮膚に青あざを残さない力加減。それこそが彼のやり方――優雅な暴力だった。
「教授が研究室で待っている。凛、君は無意味な挨拶に120秒も浪費した」律は悠人に向かって、礼儀正しく、しかし残酷な微笑みを向けた。 「我が家の『製品』をこれまでケアしてくれて感謝するよ。だがメンテナンス期間は終了だ。残りのデータ調整は、僕がこの手で完了させる」
「離してよ!」咲良が飛びかかろうとしたが、律はすでにドアを開け、強迫的なまでの保護姿勢でCCを後部座席へと押し込んだ。 ドアが閉まる鈍い音は、二つの世界を切り離す断絶の響きだった。
悠人は追いかけようとしたが、車は滑らかに、そして速やかに校門を去っていった。リアウィンドウの影越しに、悠人は後部座席でキャップを深く被り、顔を隠しているCCの姿を見た。彼女は振り返らなかった。いや、律の支配的な空気の中で、振り返る勇気さえも封鎖されていたのだ。
校門前は再び騒がしさを取り戻したが、悠人の握りしめた拳は微かに震え続けていた。今回、律が奪っていったのはCCの身体だけではない。彼女がようやく築き上げた「現実の世界」への信頼そのものなのだと、悠人は感じていた。
黒いセダンが氷室家の地下駐車場に入った時、車内の空気は窒息しそうなほど希薄になっていた。道中、律は一言も発さず、ただ指先で規則正しく膝を叩いていた。そのリズムは、CCが崩壊するまでの時間を計測しているかのようだった。
家に入ると、広々としたリビングにはロボット掃除機の低い作動音だけが響いていた。父親はまだ研究室から戻っていないようだ。 「凛、今日の君の振る舞いには困らされたよ」 律はコートを脱ぎ、ソファーへ投げ捨てた。彼は振り返り、自然な動作でCCの手を取ろうとした。 「おいで。脈拍を見せてごらん。ノイズのせいで君の周波数はひどく乱れている」
CCは弾かれたように手を引っ込めた。律の冷たい皮膚に触れた瞬間、感電したかのような衝撃が走った。 「触らないで、律。私はもう、あなたの実験対象じゃないと言ったはずよ」 「反抗もまた、非効率なエネルギー消費だ」 律は怒ることもなく、むしろ寛容な微笑みを浮かべた。再び歩み寄り、CCの肩に手を置こうとする。その声は反吐が出るほど親密だった。 「僕は君を助けているんだよ。九年前と同じようにね。忘れたのかい? 君にキャップを被せてあげたのは誰だったかを」
「忘れてないわ。でも、あなたが私のオルゴールを踏み潰したことも覚えているわ!」CCは激しく彼の手を振り払い、怒りと恐怖で身体を震わせながら廊下の奥へと逃げようとした。「これ以上、近づかないで……」
しかし、律は二度と彼女に退路を与えなかった。 銀色の影のようなしなやかさで、彼は一瞬にして廊下の行く手を塞いだ。猛烈な勢いで踏み込むと、CCの身体を挟むように両手を壁に突き、彼女を狭い死角へと追い詰めた。身長の差を利用して、律は上半身をCCに完全に押し付けた。冷たい香水の匂いが、CCの全感覚を侵略していく。
CCは恐怖のあまり彼を突き放そうとしたが、律の細身の身体は岩のように重かった。彼の胸が彼女の鼓動を強く圧迫し、呼吸が途切れ途切れになる。
「凛、僕が戻ってきたのは、あんな退屈な実験データのためだけだと思っているのかい?」 律は頭を下げ、唇をCCの耳元に寄せた。その声は低く、歪んだ粘着質を帯びていく。 「教授は、自分が『芸術品』を彫り上げていると思っていたようだが、僕は彼よりも強欲なんだ。何年もかけて君の感情を削ぎ落とし、人付き合いを編集し、常識に縛られないように仕立て上げたのは……」
彼は片手を伸ばし、硬直したCCの首筋をゆっくりとなぞった。その瞳には、反吐が出るほどの貪欲さが透けて見えた。 「……それはね、徹底的に『人間』としての情を失った君こそが、最も完璧な『器』になるからだ。反抗せず、道徳的な重荷もなく、ただ正確に命令を遂行する……僕だけの所有物だ」 「君の世界を観測するだけじゃない。僕が手塩にかけて作り上げた、この絶対的な理性の純粋さを、骨の髄まで堪能させてもらうよ」
律の低い笑い声が廊下に響き渡り、CCは自分の魂が冷たい現像液の中に沈められていくような感覚に陥った。彼女はついに理解した。律の執着は科学的なロマンなどではなく、論理という外殻に包まれた、もっとも狂気じみた「狩り」なのだと。




