34.律
東京の夕暮れ。空は光を通さない、深い鉛色に染まっていた。 悠人はCCに付き添い、彼女のマンションへと続く小道を歩いていた。今日のCCは異常なほど口数が少ない。帽子を脱いでいるにもかかわらず、その清廉な瞳は焦燥に揺れ、数歩ごとに無意識に肩をすくめていた。
「――3分42秒の遅刻だ。凛、君らしくないじゃないか」
その声が響いた瞬間、悠人は隣にいるCCの身体が激しく震えるのを感じた。 エントランスの前に、一人の男が壁に寄りかかっていた。銀灰色のシルクシャツを纏い、灯りに照らされた透き通るような白髪は、病的なまでの精緻さを漂わせている。
その浅灰色の瞳には、吐き気を催すような不遜さが宿っていた。男は傍らに立つ悠人を無視し、優雅な足取りでCCへ歩み寄ると、わずか10センチの距離で足を止めた。
「律……」CCの声は、呻きのように細かった。「……どうして、ここに?」
「会いたくなったから、航空券を書き換えたのさ」 律は細長い指を伸ばし、親密そうに、しかし強烈な圧迫感を持ってCCの顎を掬い上げた。 CCは身体をのけぞらせ、明確な**「拒絶の意図」**を見せた。しかし律の指はそのまま彼女の耳元へと滑り、強く押し当てながら、からかうように囁いた。 「帽子を脱いだのかい? その汗臭い『観測対象』の影響かな。凛、君の趣味の失墜には驚かされるよ」
「彼女から離れてください」 悠人が一歩踏み出し、CCを庇うようにして律の視線を遮断した。
「おや? 葉山悠人君だね?」 律は優雅に手を引っ込め、存在しない埃を払う仕草を見せた。 「君の父親の研究は興味深い。数値化できない『直感』の探求……。凛が君に惹かれるのも無理はない。人間というものは、非効率な故障に好奇心を抱くものだからね」
その夜、氷室氏が会議で不在の中、律は「家族の旧友」として当然のように氷室家の食卓に座っていた。 ダイニングの空気は氷のように冷え切っていた。律は優雅にステーキを切り分け、その一太刀は手術のように正確だった。彼は事あるごとに、かつてCCが彼の腕の中で泣いていた過去を持ち出し、調味料を渡す際、わざとらしくCCの手の甲をなぞった。
それは極めて隠微な侵略だった。傍目には偶然に見えるかもしれないが、CCにとっては、守るべき社会的境界の徹底的な崩壊を意味していた。
「律、自重して」 CCはついにカトラリーを置いた。冷徹な声が、微かに震えている。「私はもう、あなたにデータを校正してもらう必要のある子供じゃないわ」
「そうかな?」律はナイフとフォークを置き、ブラックホールのような深い眼差しを向けた。 「だが君の脳内の『0.8秒』は、今もエラーを吐き続けている。凛、僕以外に君を修復できる人間はいない。その葉山悠人が与える温もりなんて、君のセンサーを狂わせるモルヒネに過ぎないんだよ」
CCは立ち上がり、両手をテーブルについて、初めて律の目を真っ直ぐに見据えた。 「……それは故障じゃない。私の『選択』よ。律、もしデータのために戻ってきたのなら、今すぐ立ち去りなさい」
CCの瞳に宿った抵抗の光を見て、律は憤るどころか、興奮を孕んだ笑みを浮かべた。 「面白い反応だ。どうやら、君を再校正する必要があるようだね。……長く離れすぎたせいかな。では、おやすみ、凛」
CCは律を冷たく一瞥すると、振り返ることなく部屋に入り、ドアの鍵を閉めた。
同じ頃、悠人は公園のベンチに座り、スマホの画面に届いたCCからの**「大丈夫、心配しないで」**というメッセージを眺めていた。
彼の直感が悲鳴を上げていた。それは身体的な危険信号ではなく、もっと苦痛を伴う**「周波数の干渉」**への警戒だった。
「小野寺」悠人は電話をかけた。その声はかつてないほど冷静だった。「君の情報収集能力を借りたい。律という男の、ここ数年の海外での動向を調べてくれ。あいつは親睦のために戻ってきたんじゃない。……あいつのCCを見る目は、回収を待つ『物品』を見る目だ」
電話の向こうで、小野寺のキーボードを叩く速い音が響いた。 「了解だ、悠人」




