32.大切な日
土曜日の駅前は、行き交う人々で賑わっていた。悠人は待ち合わせ場所である時計塔の下に立ち、無意識にあの古い懐中時計に目を落とした。指針は安定したリズムで時を刻み、規則正しいその音は、喧騒の中で妙に安らぎを感じさせた。
「12秒の遅刻ね。あなたの『直感』が許容する誤差の範囲内かしら?」
すぐ隣から、布が擦れる音と共に清らかな声が響いた。悠人が振り向くと、その場に固まった。
目の前に立つCCは、初めてあのトレードマークの黒いキャップを完全に脱ぎ去っていた。いつもはつばの下に隠されていた黒い長髪は丁寧に整えられ、黒曜石のようにしなやかに肩へと流れ、こめかみにはシンプルな銀色のヘアピンが留められている。オフホワイトのウールコートを纏った彼女は、普段の鋭さが影を潜め、少女特有の柔らかな線を漂わせていた。
キャップという遮蔽物がなくなったことで、深い星空のような彼女の瞳が陽光の下に完全に晒されていた。相変わらず清廉ではあるが、緊張のせいか、その瞳は行き場を失ったように微かに震えている。
「……CC?」悠人の声に驚きが混じる。「今日は、帽子を被ってないんだね」
CCの手が無意識に、そこにはない帽子のつばを求めて空を切った。指先が行き場を失い、頬に淡い朱が差す。「たまには雰囲気を変えてみようと思ったの。父が言っていたわ……『友人に会う』のなら、たまには相手に驚き(サプライズ)を与えるべきだって」
「今日の君……すごく綺麗だ」 悠人が心から感嘆の声を漏らすと、その優しい眼差しに、CCは脳の演算周波数がオーバーロードしそうになるのを感じた。
「……ありがとう」 CCは素早くバッグを開け、普段は命の次に大切にしているタブレットを一番奥へと押し込んだ。「今から、すべての電子機器と論理ナビゲーションをシャットダウンするわ。今日、私はあなたの『観測対象』になる。ルートの決定権はあなたに譲渡するわ」
二人は繁華街から離れた静かな路地へと足を踏み入れた。地図を持たないCCはどこか不安げで、街角の風速や建築密度を分析しようとする癖が出るたびに、悠人が絶妙なタイミングでそれを遮った。
「感覚を研ぎ澄ますなら、まずはここから始めよう」 悠人は彼女を連れて、コーヒーの香りと古本の匂いが漂う古い街並みを歩いた。道沿いのケーキ屋に、誕生日の割引キャンペーンの看板が出ているのが目に入った。
「悠人」CCが静かに口を開いた。視線は、道端をゆっくりと這う一匹のカタツムリに注がれている。「私の誕生日は2月17日。データによれば、一年の中で最も『冬季うつ』が発生しやすい、名残惜しい冬の盛りよ。私はずっと、その日付を『停滞』の象徴だと思っていたわ」
「2月17日か……」 悠人はその日付を噛みしめるように繰り返し、彼女を見て微笑んだ。「それは、春の芽吹きを待つ座標だね。……知ってる? 僕の誕生日は、卒業式の日なんだ」
CCは足を止め、怪訝そうに彼を見つめた。「卒業? それは別れに満ちた日ではないかしら」
「でも僕が生まれた時、窓の外からは卒業生の歌声が聞こえていたんだって。父が言ってたよ。あの日、たくさんの人が涙を流して別れを惜しんでいたけど、それ以上に多くの人が明日の空に期待していた。だから僕にとって、誕生日は終わりじゃなくて、『始まるために存在する別れ』なんだ」
悠人は赤信号の前で立ち止まり、完全に露わになったCCの顔を真っ直ぐに見つめた。 「君の2月17日は春を待つため、僕の誕生日は未来へ歩き出すため。僕たち二人は、実は同じ方向を見ているんだよ」
夕陽が再び二人の影をアスファルトの上に交差させた。悠人は直感に従い、線路を跨ぐ古い陸橋へとCCを連れて行った。 橋の下のレールは地平線の彼方へと伸び、遠くから電車が駅に滑り込む警笛の音が聞こえてきた。その瞬間、CCの呼吸が止まった。
似たような風速、似たような夕陽、似たようなホームの残響。 無理やり閉じ込めていた記憶が、制御不能なウイルスのように瞬時に脳内へ侵入する。前を歩く、夕陽を背にした悠人の背中を見つめる彼女の視界が、次第にぼやけていく。逆光の中でシルエットとなった悠人の背中が、あの日、電車の扉の向こうへ消えていったあの背中と重なった。
0.8秒の暗闇。 再び帽子の中に引きこもってしまいたくなるような、震えるほどの恐怖。
「……っ」 彼女の唇が震え、記憶の底に封じられた名前が舌先まで出かかった。だがその時、悠人が何かに感応したかのように、振り返ることなく後ろへ手を伸ばした。そして、CCの冷え切った指先を正確に、力強く握りしめた。
「怖がらなくていい」悠人の声は穏やかで、記憶のノイズを突き抜けて響いた。「僕はここにいる。君が見ているのは、僕だ」
CCはハッと目を見開いた。手のひらから伝わってくる確かな温度が、色褪せた古いフィルムの中から、鮮やかな色彩を持つ「現実」へと彼女を強引に引き戻した。振り返った悠人の笑顔を見て、混乱していたデータの座標が、ようやく「今」という一点で結ばれた。
「……悠人」
今度は、はっきりとその名前を呼んだ。 社交的なコストも、論理的な効率も考えない。ただ、帽子のない世界で、ようやくはっきりと見えたのだ。誰が今、自分にとって唯一の、かけがえのない座標であるのかを。




