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変数の出現

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31/59

31.氷室

東京の高級住宅街に佇む高層マンション。エレベーターの扉が無音で滑るように開くと、落ち着いたダークウッドの廊下が広がっていた。静寂に包まれ、自分の呼吸音さえも場違いに感じられるほどだ。 悠人の手には、洗練された洋菓子の箱があった。この「論理に満ちた」家庭に対応するために、彼なりに吟味して選んだものだ。玄関の前でCCが彼を待っていた。今日はトレードマークのキャップを脱ぎ、濃紺のワンピースを身に纏っている。実験室にいる時よりも内向的で、そしてどこか緊張しているように見えた。


「いい、悠人」CCは暗証番号を入力しながら、低い声で手短に釘を刺した。「この家の物品配置はすべて最適化されているわ。絨毯の毛並みの方向まで統一されているけれど、もしあなたの歩き方で対称性が乱れても気にしないで。それはただの父の個人的な偏執こだわりだから」


扉が開いた。 そこは想像していたような豪華絢爛な空間ではなく、極限まで削ぎ落とされたミニマリズムの世界だった。壁面は冷ややかなグレーホワイトで統一され、必要な家具以外に装飾品はほとんど見当たらない。大きな掃き出し窓の向こうには東京のスカイラインが広がり、夕陽が室内を厳かなオレンジ色に染め上げていた。


「お姉様、14秒遅刻よ」 清らかだが氷のように冷たい声が、ソファーの後ろから聞こえてきた。 そこには十歳前後と思われる少女がいた。仕立ての良い小さなジャケットを着こなし、ソファーの中央で両脚を揃えて座り、膝の上にはタブレットを置いている。CCとよく似たその黒い瞳は、まるで獲物を吟味するような眼差しで悠人を射抜いた。


「この人が、お姉様を浮かれさせているボーイフレンド、葉山悠人さん?」 「ほたる、彼は私の……パートナーよ」CCはぎこちない口調で答え、悠人に紹介した。「私の従妹の氷室蛍。現在小学五年生だけど、知能指数の測定結果は……普通の人間が挫折を味わうのに十分な数字よ」


蛍は鼻で笑い、不敵な冷笑を浮かべた。 「お姉様、『パートナー』の定義が寛容すぎるわ。私から見れば、彼はただの運動神経が発達しすぎた、平均体温が高すぎる生物体に過ぎない。私たちの家系の平均知能指数を著しく低下させる蓋然性が極めて高いわね」 彼女はソファーから飛び降りると、悠人の前まで歩み寄り、正確に一メートルの距離を保って足を止めた。見上げるその瞳は攻撃性に満ちている。 「葉山さん、父が出てくる前に、あなたに初級の『論理互換性テスト』を行う必要があるわ。もし私一人さえあしらえないようなら、その安っぽい砂糖の塊を持って今すぐ立ち去ることをお勧めするわ。後でお姉様に恥をかかせる前にね」


悠人は目の前の「ミニ版CC」のような少女を見て、腹を立てるどころか、その毒舌ぶりがどこか可愛らしくさえ感じた。彼は腰を落として蛍と目線を合わせ、咲良をも黙らせるあの得意の温かい笑顔を見せた。 「いいよ、蛍ちゃん。でも、もしテストに合格したら、後でそのケーキを一口分けてくれるかな?」 「……だ、誰が妹よ! 氷室観測員と呼びなさい!」 蛍は悠人の屈託のない笑顔に一瞬気圧されたようだった。毒づいてはいるものの、こわばっていた小さな肩が、無意識にピクリと震えた。


室内の空気はさらに緊張感を増し、傍らに立つCCの手のひらには微かに汗が滲んだ。蛍の「テスト」が遊び半分ではないことを、彼女はよく知っていたからだ。


蛍はソファーに座り直すと、細い指でタブレットを高速で操作し、画面を悠人に向けた。 「葉山さん、これはあなたの過去三年の偏差値曲線、部活動の記録、そしてあなたの亡きお父様が残した僅かなファイルからシミュレートした『未来価値モデル』よ」蛍の語気はベテランの精算師のように冷酷だ。「データによれば、あなたが体育会系を選ぶのと論理研究を選ぶのとでは、成功率の比が15:1になる。言い換えれば、あなたがお姉様の傍にいることは、本質的にリソースの無駄遣いなの。30秒以内に、あなたがお姉様の研究生活における『ノイズ』ではないことを、論理的に証明しなさい」


CCが反論しようとしたが、悠人はそれを手で制した。彼は複雑な図表を見るのではなく、蛍の目を見つめた。 「蛍ちゃん、数式はとても綺麗だね」悠人は穏やかに切り出した。「でも、僕の『価値』を計算する時、この家で一番大切なデータを忘れているみたいだ」


蛍は眉を吊り上げた。「忘れている? 私のモデルは48の変数を網羅しているわ」 「忘れているのは、『感情』だよ」悠人はリビングの隅に置かれた、少し傾いたぬいぐるみを指差した。この整然とした部屋の中で、それだけが異彩を放っていた。「それから、君のタブレットケースの裏に隠してある……君とお姉さんの古い写真もね」


蛍の顔が瞬時に凍りついた。彼女は反射的にタブレットを裏返し、膝で隠した。 「君の論理で言えば、解像度も不足していて、構図も非対称で、研究価値なんて全くないはずの古い写真を、どうして持ち歩いているのかな?」 悠人は立ち上がり、ゆっくりと蛍に近づいた。 「データが持ち歩けと言ったから? それとも……それを見ていると、心が少し温かくなるからかな?」


「そ、れは……それは人間がいかに非効率な感情に支配されているかを忘れないための戒めよ!」蛍は声を荒らげて反論したが、その冷たい仮面にはひびが入っていた。 「本当は寂しいんだよね」悠人は溜息をつき、口調を和らげた。「僕への敵意は、僕が彼女の時間を奪うように、彼女に残された数少ない家族の温もりまで奪ってしまうんじゃないかって、不安だからなんだろう?」


「……デタラメよ」蛍はうつむいたが、その口元はまだ石のように固かった。「お姉様、この人の直感はあまりに悪質だわ。直ちに排除することを推奨するわ」


「客人を困らせるな、蛍」 低く威厳のある声が廊下の奥から響いた。氷室氏がいつの間にかそこに立っていた。濃い色の着物(和服)を纏い、袂に手を差し入れている。その深邃な眼差しが悠人に向けられ、複雑な感情を滲ませた。 「彼が今やったことは、かつてあの男が最も得意としていたことだ。――論理を飛び越え、核心を突く」


「お父様」CCは低く呼びかけ、無意識に悠人のそばへ一歩寄り添った。 氷室氏は静かにリビングへ歩を進め、悠人の持つ菓子の箱に目をやった後、悠人の顔をじっと見つめた。「葉山悠人君。テストは終了だ。蛍は認めたがらないだろうが、君の『直感』には確かに観測すべき価値がある」 彼は背を向け、二人をダイニングへと促した。 「入りなさい。蛍、手を洗って夕食の準備だ」


ダイニングの灯りは暖色系で、リビングの冷たさとは対照的だった。今日は母親が不在だというが、氷室氏が用意した夕食は驚くほど家庭的なものだった。盛り付けこそ定規で測ったように正確だが、立ち上る湯気には生活の香りが満ちていた。


「座りなさい、葉山君」氷室氏は主座に座り、少し語気を緩めた。「すまない、蛍は甘やかされて育った。論理は鋭いが、その実、この家にある数少ない熱を守ろうとしているだけなんだ」 蛍は隣で頬を膨らませていたが、おとなしく箸を取り、悠人がナプキンを手渡した際には小さな声で「ありがとう」と口にした。


食卓を囲みながら、氷室氏は悠人を見て懐かしげな目を向けた。「君の父親は、昔から我々を悩ませる男だった。共同の研究室で全員がデータにかじりついている中、彼だけが昼寝をしていた。『データは嘘をつくが、空気の匂いは嘘をつかない』などと言ってね」 「父らしい評価ですね」悠人は微笑んだ。心の中にあった父親という存在の空白が、細かな記憶の断片で埋まっていくのを感じた。


「あのような奔放な男の息子がどんな人物か、ずっと興味があった」氷室氏はCCに視線を向け、その目が優しく和らいだ。「だが、この半年のCCの変化を見て確信したよ。彼女が『非論理的』な物事に悩み、空を眺めてぼんやりすることさえ覚えた。その時、彼女がデータの外側の世界を見せてくれる人間に出会ったのだと悟ったよ」 CCは箸を握る手に力を込め、うつむいた。耳の先が赤くなっていたが、反論はしなかった。


食後、氷室氏は書棚から古びた木箱を取り出し、悠人に差し出した。 「これは精密機器でも重要なデータでもない」氷室氏が箱を開けると、中には少し年季の入った懐中時計が入っていた。「君の父親が研究を終えた際、私に無理やり押し付けていったものだ。『論理が速すぎると感じた時、時間の流れには温もりがあることを思い出させてくれるものが必要だ』と言ってね。私が修理しておいた。今、それはあるべき座標へと戻るべきだろう」


悠人は懐中時計を受け取った。金属の質感が微かな冷たさを伝えてきたが、掌に収めると、ずっしりとした確かな重みがあった。 「……ありがとうございます、氷室さん」


「葉山君」玄関で見送る際、氷室氏は悠人の肩を軽く叩いた。「CCを頼む。彼女は賢いが、『人間らしく生きる』という学問に関しては、まだ初心者だ。これからも彼女にとっての『不合理な変数』であり続けてくれ。……CC、駅まで送ってさしあげなさい」


マンションを出ると、夜の東京には心地よい涼風が吹いていた。 CCは自ら悠人の隣に並び、今回は一メートルの契約を口にすることなく、そっと悠人の腕に自分の腕を絡めた。


「悠人」CCは夜空を見上げ、長い髪を風に遊ばせた。「蛍がさっき、こっそり教えてくれたわ。あなたが選んだケーキの糖度は、彼女が最も好む数値域だったそうよ」 「それは僕に未来を予測する能力があるからだよ」悠人はおどけて言い、懐中時計を握りしめた。 「……いいえ。それはあなたという変数が、いつも正確に、データでは算出できない場所を射抜くからよ」


CCは静かに囁き、悠人の肩に頭を預けた。家へと続く道には、二つの重なり合った、調和の取れた影が長く伸びていた。

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