30.何か足りない気がする
朝の8時。通学電車は相変わらずの混雑だったが、悠人のポケットでスマホが一度震えた。
「悠人、CC……ゲホゲホッ。私、どうやら昨日の大雨に『観測』されちゃったみたい。熱が38.5度もあって、今日はお休み。私がいないからって、限定ケーキを二人でこっそり食べちゃダメだよ! ゲホッ!」
咲良からの音声メッセージだった。鼻声がひどく、弱々しい声ではあったが、それでもいつもの明るい調子を必死に保とうとしているのが伝わってきた。 「あいつ、やっぱり風邪引いたか。」 悠人は苦笑いしながらスマホをしまった。
校門の前でCCと合流した。彼女は今日もトレードマークの黒いキャップを被り、耳元にはあのブルーのヘアアクセサリーを付けていたが、悠人の隣に並ぶその足取りは、どこか重そうだった。
「佐々木咲良の欠席連絡は、すでに受信しているわ。」 CCが先に口を開いた。口調は相変わらず淡々としていたが、彼女は何度も、本来なら咲良が元気に現れるはずの場所を振り返っていた。
校内の小道を並んで歩く。いつもなら、この道では咲良が止まらない小鳥のように二人の周りを跳ね回り、新作のタルトの話や、小野寺が撮った変な写真へのツッコミで騒がしいはずだ。 今、その騒がしさが消え、枯れ葉を踏む足音さえ聞こえるほど辺りは静まり返っていた。
「葉山。」CCが突然足を止めた。 「ん?」 「……何かが足りないわ。」 CCは眉を寄せ、清廉な視線を誰もいない後ろの空間に向けた。「歩行中、左後方から伝わってくるはずの『無効なデータ量』がゼロになっている……この環境は、解析しがたい違和感を私に与えるわ。」
悠人は笑った。それが彼女なりの表現だと分かっていたからだ。世界をデータとして捉える彼女にとって、咲良という「数値化できない活力」が日常から抜け落ちた真空状態は、耐えがたいものなのだろう。 「それを寂しいって言うんだよ、CC。」 悠人は優しく言い、人目のない木陰で、そっと彼女の指先に触れた。 「三人で登校するリズムに、僕たちはもう慣れすぎちゃったんだ。」
CCはしばらく沈黙したが、手を離そうとはせず、その微かな体温の繋がりを受け入れていた。 「寂しい……かしら。」彼女はその言葉を低く繰り返し、キャップを深く被り直した。「こうした非科学的な負の感情は、早急に排除すべきね。行きましょう、一限目が始まるわ。」 言葉とは裏腹に、校舎へと向かう彼女の背中は、いつもより少し小さく見えた。
昼休みのチャイムが鳴り、実験室のドアが開いた。 いつもなら「CCちゃーん! 購買部最後の一つの焼きそばパン、ゲットしたよー!」という突進と抱擁がセットのはずなのに、今日はドアの軸が軋む乾いた音だけが響いた。 悠人が中に入ると、CCが長ソファーの隅に座っていた。
普段、そのソファーは彼女たちの領地だ。林間学校以来、CCには少し子供っぽい習慣ができていた。高度な演算を行う昼休み、彼女は温もりを求める猫のように、咲良に寄りかかったり、その柔らかい肩を枕にして微睡んだりするのが好きだった。 だが今、CCの隣は空席だ。
彼女はいつもの姿勢で体を傾け、無意識に右手を横へ伸ばそうとしたが、途中でその動きを止めた。指先が触れたのは、冷たい革のシートだけ。そこには咲良の体温も、いつも漂っているストロベリーキャンディのような甘い香りもなかった。
「……人間工学的に、不合理だわ。」CCは低く呟き、強張った体を引き戻した。 「CC、大丈夫か?」悠人が近づき、温かいミルクのボトルを差し出した。
CCが顔を上げた。キャップの下の瞳は、どこか空虚に見えた。彼女は三人座れるはずの広いソファーを見つめ、解析に失敗した迷子のような口調で言った。 「悠人。過去の観測記録によれば、佐々木咲良の体温と肩幅は、昼間の脳冷却を維持するための最適な『支柱』だったの。その支柱が消失したことで、私の論理回路に不快感が生じているわ。」
そう言うと、彼女は無意識にソファーの中央へと身を寄せ、空白を埋めようとした。だが、どんなに姿勢を変えても、「何かが足りない」という真空感は消えなかった。
「それはデータで埋められるものじゃないからね。」悠人は彼女の正面に座り、この「依存症候群」に陥っている天才少女を優しく見つめた。「咲良は君にとって、もう単なる支柱じゃなくて、学校の一部なんだろ?」
CCは長い間沈黙した。彼女は制服の襟に顎を埋め、膝を抱えて、本来二人で座るはずの場所に丸まった。 「……普段は、本当に騒がしいだけだと思っていたわ。」CCは声をくぐもらせて言った。「論理のかけらもない恋愛漫画を押し付けてきたり、計算中に突然頬をつねってきたり。それらはすべてノイズだと思っていたのに……そのノイズが消えた今、実験室がまるで廃止されたサーバー室のように感じられるわ。」 彼女は顔を上げ、悠人を見た。その瞳には、珍しく脆い色が浮かんでいた。
悠人は胸を締め付けられるような思いで彼女を見つめた。彼は立ち上がり、ソファーのそばへ歩み寄ったが、隣に座る代わりに、自分の肩を軽く叩いた。 「僕の肩は咲良ほど柔らかくないかもしれないけど、ただの『支柱』でいいなら、いつでも空いてるよ。」
放課後の実験室。夕陽が窓の影を長く伸ばしていた。小野寺も今日はシャッターを切らず、静かに隅でメモリーカードを整理している。「四分の一の欠落」が、黄昏の中でより鮮明に浮き彫りになっていた。
「行こう、CC。」悠人はリュックを背負い、まだぼんやりとしている少女に手を差し出した。「実験室の空気が薄すぎるなら、あの『酸素ボンベ』を連れ戻しに行こう。」
CCは顔を上げ、悠人の手のひらを二秒間見つめた後、無言で立ち上がり、キャップを被り直した。「私はただ、観測対象の免疫システム修復状況を確認しに行くの。これは部の人道的原則に則った行動よ。」
二人はまず、学校近くのケーキ屋に寄り道した。 ショーケースの前に立つと、CCの瞳にはいつもの鋭さが戻り、ガラス越しに指を滑らせた。「咲良の嗜好記録に基づけば、イチゴの含有率が30%以下のケーキはドパミン分泌を低下させる。けれど彼女は現在、風邪の状態にあるわ。過剰な糖分は代謝の負担になる……。」
彼女は数種類のケーキの間で、深刻な論理的葛藤に陥っていた。悠人は彼女の真剣な横顔を見つめ、思わず囁いた。 「CC、君が買ったものなら、咲良はきっと何でも大喜びするよ。」 「……チッ、そうかもしれないわね。」 CCは舌打ちのような音を漏らし、最終的に大粒のイチゴが飾られ、クリームが比較的軽やかな限定ムースケーキを指差した。 「これにするわ。データと味覚の妥協案よ。」
二十分後、二人は咲良の家の前にいた。 出迎えた咲良の母親は、珍しい組み合わせの二人に驚いていた。少女らしい趣味のぬいぐるみや雑誌で溢れた部屋に入ると、咲良は鼻を真っ赤にしてベッドの中でぐったりとしていた。
「……うわぁ! CCちゃん! 悠人ぉ!」 二人を見た瞬間、咲良の瞳がぱっと輝いた。彼女は布団から這い出してCCに抱きつこうとしたが、CCに冷たく、そして優しく枕へ押し戻された。 「接触禁止よ。あなたのウイルス量は現在ピーク値にある。私の演算コアに脅威を与えるわ。」
CCは無情な言葉を口にしながらも、手際は鮮やかにイチゴのムースをサイドテーブルに置き、咲良の乱れた掛け布団の端を丁寧に整えてやった。
「へへ……やっぱりCCちゃん、私のこと大好きだね。」咲良は鼻をすすり、ケーキを見て目元を潤ませた。 「たった一日学校に行かなかっただけなのに……なんだか一年分くらいの噂話を逃したみたいで、心が空っぽだったんだよ。」
「それはあなたのソーシャルプロセッサが過熱したことによる幻覚よ。」 CCはベッド脇の椅子に座り、身を乗り出した。距離は保っているものの、その注視するような、案じているような眼差しは、彼女が大切な人にしか向けないものだった。
悠人は傍らでその光景を見ていた。CCはまだキャップを被っていたが、その肩の力が明らかに抜けているのが分かった。イチゴの香りと風邪薬の匂いが混じり合うこの部屋で、欠落していた「四分の一」がようやく埋まったのだ。
別れ際、咲良はCCの袖を離そうとしなかった。「明日……絶対100%のパワーで復活するから! CCちゃん、寄りかかる場所を空けて待っててね!」 「……あなたの体温データを見てから決めるわ。」 CCはそう言い残して部屋を出たが、廊下の陰で、彼女が小さく安堵のため息をつくのを悠人は見ていた。
帰り道、星が瞬き始めていた。 「元気出た?」悠人が聞いた。 「……環境のバックグラウンドノイズが回復しつつあるわ。」 CCは自ら悠人の手を握った。指先は少し冷たかったが、その声には温もりが宿っていた。 「騒がしいけれど……あの座標が永遠に消失してしまったら、私の地図には修正不能な不良セクタが生じてしまう。それは事実だわ。」
彼女は悠人に寄り添った。今回は、支柱を求めているわけではない。ただ純粋に、寂しくなくなったこの瞬間の周波数を共有したいだけだった。




