表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
100%の集中モード  作者: WE/9
変数の出現

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

29/53

29.雨後

朝の空気は雨上がり特有の微かな冷たさを帯び、街路樹の銀杏の間から差し込む陽光が、地面に斑らな影を落としていた。


葉山悠人は、校門前のいつもの場所で、視線をしきりに通りの角へと向けていた。平凡な月曜日の朝だが、彼にとっては「正式に付き合い始めて」から最初の登校日だ。 「落ち着け、悠人。いつも通り挨拶するだけだ」 自分に言い聞かせながらも、ポケットの中の手のひらは微かに汗ばんでいた。昨夜、興奮で眠れなかった無様な自分を悟られないよう、彼は鏡の前で練習した通りの「自然な笑顔」を必死に保とうとしていた。


そこへ、あの見慣れた黒いベースボールキャップが角から現れた。


CCはいつも通り整った制服に身を包み、精密機器の詰まった黒いリュックを背負って、平然とした足取りで歩いてくる。しかし、悠人は鋭く察知した。彼女の視線が空中で自分と交差した瞬間、規則正しかったその足取りが極めて僅かに乱れたのだ。――左右の足の着地頻度が約0.5秒分、狂った兆候だった。


「凛! おはよう!」悠人は大きく手を振り、駆け寄った。 CCは驚いた猫のように咄嗟にキャップを深く被り直し、悠人の顔を素通りして彼のネクタイへと視線を落とした。「おはようございます、葉山君」


その口調は、昨夜の頬へのキスなどなかったことにするかのように冷淡で、呼び方までもが「葉山君」へと戻っていた。 「おい、昨夜あんなに……」 悠人が親密な空気を取り戻そうと距離を詰めると、CCは耳元で緊張した声を潜めて言った。 「……鈍感な人。意味がわからないの? 公の場で親しげにするのは控えて」 そう言い捨てると、彼女は足早に校門の中へと消えていった。


残された悠人が少し落胆したその時、風が凛の耳元の髪をふわりと揺らした。 彼は目を見開いた。 黒い髪の間から、淡いブルーの光沢を放つ小さな銀のヘアアクセサリーが顔を覗かせていたのだ。それは彼女の普段のスタイルではなく、先週文具店を通りかかった際、悠人が「君に似合いそうだ」と何気なく言ったあの品だった。


「……めちゃくちゃ気にしてるじゃないか」 悠人は思わずしてやったという笑みを浮かべ、気分は一気に快晴へと変わった。彼は足取り軽く彼女を追いかけた。CCの歩みはさらに速まったが、髪の下に隠れた耳の先が、昨日の洋菓子店のイチゴのように真っ赤になっているのを、悠人は見逃さなかった。


午後の放課後、旧実験室の重厚な木製ドアがゆっくりと開いた。 普段ならこのチーク材のテーブルは二人の戦場だ。一方は確率の推論に、もう一方は妄想に近い思考に耽る場所。だが今日の実験室の空気は、まるで静電気を帯びているようだった。視線が不意にぶつかるたび、胸を焦がすような熱が生まれる。


「……このデータの標準偏差が……」 「このサンドイッチのハムの比率が……」 二人は同時に口を開き、そして同時に気まずそうに沈黙した。


CCはソファーの端に座り、キャップを深く被ってタブレットに向き合っていた。画面には複雑な関数グラフが踊っているが、悠人は気づいていた。彼女が同じページを眺めたまま、すでに十分間も指を動かしていないことに。


「凛」悠人は二缶のコーヒーを持って近づき、彼女の隣に座った。一メートルではない、肩が触れ合うほどの距離だ。 「葉山君、距離を保ってください……」 凛は踏まれた猫のように反射的に横へ逃げようとしたが、そこはすでにソファーの肘掛けだった。逃げ場はない。


悠人はコーヒーを置き、顔を近づけて声を低くした。 「いいじゃないか、今は周りに誰もいないんだから」


CCの肩が明らかに震えた。彼女はようやくタブレットを置き、顔を向けた。その黒い瞳には、羞恥と戸惑いが入り混じっている。 「校内において『交際』という概念は、論理システムをオーバーロードさせるわ。私の演算能力の70%がドパミンの異常分泌を抑制するために割かれていて、研究の進捗に深刻な影響が出ているのよ」 硬い学術用語で武装しようとする彼女だったが、ぎゅっと握られた小さな拳が本心を露呈していた。


「じゃあ……これはどうかな?」 悠人は手を伸ばし、昨夜ほど大胆ではなく、けれど確かな意志を持って、そっとCCの小指に自分の小指を絡めた。 あの洋菓子店のテーブルの下でそうしたように。


その瞬間、CCのすべての「論理防壁」が崩壊した。真っ直ぐだった背筋がふっと緩み、長い髪が頬の両側に垂れ下がる。 「……卑怯だわ」 細い声で呟きながらも、彼女は悠人の手を振り払うことはしなかった。それどころか、観念したように、そっと悠人の肩に頭を預けた。 「こういうデータの干渉は……防御のしようがないわ」


「なら、防御しなきゃいい。僕たちの時は、天才CCじゃなくて、ただの凛でいいんだから」 悠人は彼女の髪に光るアクセサリーを見つめ、胸がいっぱいになった。古い時計の振り子の音だけが響く実験室で、凛は目を閉じ、制服越しに伝わる悠人の体温を感じていた。この「気まずさ」の裏にある甘い感覚に、彼女は初めて、データ以外の世界がこれほど温かいものだと知った。


しかし、その幸福な静寂は長くは続かなかった。


「おーい! 二人ともサボってんの? 最高にいいもの持って……」 咲良の元気な声がドアを開ける音と共に響き、続いてカメラのシャッター音が鳴った。 「カシャッ」 小野寺拓海がカメラを構えて入り口に立っていた。その瞳には「すべてお見通しだ」という悪戯な光が宿っている。


「……!!」 CCは強烈な電流を浴びたかのようにソファーから跳ね起きた。その速さは空中に残像を残さんばかりだ。彼女は即座にテーブルのタブレットを掴んで顔を隠し、極度の羞恥心から声を上擦らせた。 「小野寺拓海! 許可のない画像サンプリングは重大な権利侵害よ! 今すぐ、直ちにそのデータを削除しなさい!」


「いやあ、社長。この写真の構図、まさに芸術ですよ」 小野寺はCCの奪取を軽々とかわしながら、モニターを眺めた。 「夕陽、古いソファー、そしてこの『一メートルを超越した』親密感。SNSに上げたら校内サーバーがパンクするの間違いなしだな」


「上げるなよ!」悠人も顔を真っ赤にして立ち上がり、必死になだめた。「小野寺、冗談だろ。ほら、CCがオーバーヒートしそうなんだから」


咲良は新大陸を発見したかのように二人の周りを跳ね回り、目を輝かせた。 「ねえねえ! さっきの距離……絶対5センチ以下だったよね!? 悠人、ついに私たちの氷山天才を攻略したの?」


「それは……それは熱伝導実験のデータ収集をしていただけよ!」 CCは最後の理性を振り絞って弁解したが、斜めに曲がったキャップと真っ赤になった首筋が、言葉の説得力を皆無にしていた。


数分間の混乱の後、小野寺が慈悲深くレンズキャップを閉めた。 「安心しろ。この写真は『絶対機密』フォルダーに保存しておく」 小野寺は悠人を見つめ、珍しく真面目な、祝福の混じった表情を見せた。 「何せ、どこの馬の骨とも知れない脇役に主役の恋路を邪魔されたら、俺のシャッターチャンスが台無しだからな。結婚式の時は写真を頼みに来いよ」


夕暮れ時、部活動が終わり、悠人と凛は再びいつもの路地を歩いていた。雨の気配は消え、夕陽が二人の影を長く伸ばし、やがて地面で一つに重なり合った。


凛は立ち止まり、キャップを脱いで、晩風に髪をなびかせた。彼女が悠人を見つめる瞳から、校内での強がりは完全に消えていた。 「悠人」彼女は静かに名前を呼んだ。 「ん?」 「今日の学校でのデータは……完全にめちゃくちゃだったわ」 彼女はうつむき、指先で制服の裾をいじった。「明日もあなたがソファーのあんな場所に座っていたら、私は本当に機能停止してしまうかもしれない」


悠人は笑い、自然に手を伸ばして彼女の頭を優しく撫でた。 「じゃあ、停止しちゃえばいい。たまには脳をフリーズさせるのも、いい休息だよ」


凛は頭上に伝わる熱を噛み締め、ようやく悠人にしか見せないような、微かな微笑を浮かべた。 「……放課後限定、よ」 彼女は小さく言うと、今度は自分から、悠人の手を握り締めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ