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変数の出現

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28/66

28.雨信

「気象庁のデータによれば、今日の東京の降雨確率はわずか5%のはずよ」


CCは旧実験室の円弧状の窓の前に立ち、黒い長髪を無造作に背中に流し、指先に黒いベースボールキャップを引っ掛けていた。窓の外で突然降り出した土砂降りの雷雨を見つめる彼女の清廉な声には、珍しく微かな敗北感が混じっていた。「その5%の誤差が、今、正確に私の肩を叩いているわ」


悠人が後ろから歩み寄り、備品部から借りてきたばかりの、ごく普通の透明なビニール傘を手に、黙って彼女の隣に差し出した。 「何事にも例外はあるさ。家まで送るよ」


悠人の誘いに、CCはわずか0.5秒だけ躊躇した。 「……お願いするわ」


二人は並んで校門を出た。雨足が強いため、濡れないようにと悠人が傘をCCの方へ傾けると、二人の肩はどうしてもぴったりと触れ合うことになった。 「悠人、右肩が濡れているわよ」CCはキャップを深く被り直し、視線を真っ直ぐ前に向けたまま、無意識に悠人の体の方へと寄り添った。 「大丈夫だよ。これくらいの雨、いつもの部活でかく汗と大差ないから」


悠人は隣の少女を見下ろした。透明な傘の表面を雨粒が叩く鈍い音が響き、繁華街のネオンの下、二人の影が長く伸びていた。「そういえば、この道は君の家の方だよね? 小さい頃はこの辺りで育ったって言ってたし」


CCは少し沈黙し、古びて今はもう営業していない和菓子屋の前で足を止めた。 「この店……昔、私が唯一『論理』から逃げ出せる場所だったの」 CCは埃の積もったショーウィンドウを指差した。雨幕の向こうに、ずっと昔の光景を見ているようだった。 「当時は毎日、塾で深夜まで過ごしていたわ。父からはすべての公式を暗記することを強要されていた。でも、この店の店主だけは、私が通りかかるたびにデータとは何の関係もない、甘すぎるくらいのたい焼きを差し出してくれた。……それが、私が甘いものに執着するようになった唯一のきっかけよ」


「『正解』よりも『甘さ』の方が大切だって、初めて感じた時だったのかな?」悠人が優しく尋ねた。


CCが顔を上げた。雨の冷たさと悠人の体温が空気の中で混じり合う。彼女は悠人の袖をぎゅっと掴み、雨音に消されそうなほど細い声を出した。 「……計算を間違えても、許されるのだと。そう教えてもらったのは、あの時が初めてだったわ」


目の前のCCを見つめる悠人の胸に、ある感情が湧き上がった。彼女はもう、実験室で采配を振るう天才ではなく、東京の街角で温もりを探している一人の少女だった。彼は傘の柄を強く握りしめた。 「じゃあ今日は、カロリーの計算も、効率の推計もなしだ」 悠人はCCの手を取り、雨上がりの東京の街を走り出した。 「この近くにまだ開いている店を知ってるんだ。あの頃、食べ足りなかった甘さを全部取り戻しに行こう」


CCは彼に引かれるまま走り、黒い髪は風に乱れ、キャップが脱げそうになった。彼女は悠人の背中を見つめた。この雨は完全に計算外だったが、今、彼女の鼓動の周波数は、いかなる既知の公式をも遥かに超越していた。


雨は次第に弱まり、細かな銀の糸へと変わった。悠人はCCを連れて、路地の角に隠れたレトロな佇まいの洋菓子店へと飛び込んだ。ドアを開けると、バニラと焼きプリンのキャラメルの濃厚な香りが広がり、外の湿った冷気とは鮮やかな対比をなしていた。


「いらっしゃいませ!」 店員の声をよそに、悠人は隣のCCが「硬直」したことに気づいた。 気まずさからではない。目の前のショーケースに並ぶ、精緻な輝きを放つスイーツたちのせいだ。複雑なデータを解析する彼女の黒い瞳が、今はスイッチを入れたかのように見開かれ、モンブランやイチゴのショートケーキ、きらきら光るオレンジタルトを映し出していた。


「悠人……」声は冷静さを保っていたが、傘を握る指先には力がこもっている。「あそこの食べ物、すべてが美味しそうに見えるわ」 「食べたいなら素直に言えばいいのに、CC」悠人は思わず吹き出し、彼女を窓際の席へと促した。


「食べたいかどうかではないわ。これは、優れた工芸に対する敬意よ」 CCはキャップを調整し、隠しきれない垂涎の表情を隠そうとしたが、ひくひくと動く鼻先がすべてを物語っていた。


まもなく、二人のテーブルにはティータイムのセットが並んだ。CCは層の重なりが美しいミルフィーユを、悠人はシンプルな焼きプリンを注文した。 「いただきます」


CCはフォークを手に取り、優雅かつ正確に動かした。カスタードクリームのたっぷりついたパイ生地を一口頬張った瞬間、彼女の眉がぴょこんと跳ね、全身から緊張が解けていくのが分かった。 「美味しい?」悠人は頬杖をつき、興味深げに彼女を見つめた。


「……98点。残りの2点は、カロリー過多による罪悪感の分よ」 満足げに目を細める彼女の口角に、小さな白い生クリームがついていた。 「悠人、この店のレシピは……十年前のあの店よりも繊細だわ。当時は、父から週に一度のスイーツしか許されなかった。それも、数学の問題集を三冊解き終えた後でなければね」


「三冊? それは酷だな」悠人は眉を寄せ、紙ナプキンを手に取って身を乗り出すと、彼女の口元のクリームを拭ってやろうとした。


CCは本能的に避けようとしたが、悠人の指がナプキン越しに唇の端に触れると、動きを止めた。 一メートルにも満たない距離の中で、外の雨音は消え去った。CCは悠人の真剣な眼差しを見つめ、胸の中で鼓動が規則正しく刻まれるのを感じた。十年前、東京の街角で重いカバンを背負い、独りで世界を計算していた少女の姿を思い出す。あの頃の自分は、未来にこんな男子が現れて、口元のクリーム一つでこんなにも優しい表情をしてくれるなんて、想像もしていなかった。


「悠人」彼女が突然、静かに名前を呼んだ。事務的な口調ではない。 「ん?」 「糖度が……過剰だわ」CCは窓の外へ顔を向けた。キャップの下の耳の先が赤く火照っている。「ケーキだけでなく、空気までも」


悠人は一瞬呆気に取られたが、すぐにこれがCCなりの感情表現だと気づき、わざとさらに顔を近づけた。「じゃあ、いっそのこと振り切らせてみる? どうせ今日、確率の女神はお留守みたいだし」


「……バカ」CCは低く毒づいたが、彼を突き放すことはせず、代わりにテーブルの下で、そっと悠人の小指に自分の指を絡ませた。 賑やかな店内で、二人だけの最も静かで、密やかな座標がそこに決まった。


店を出て、二人が霧雨の中を並んで歩き始めた時。悠人は無意識に触れ合う肩の感触を確かめ、ずっと溜め込んでいた思いを口にした。 「CC」悠人は足を止め、傘の柄を握る手に力を込めた。 「ずっと考えていたんだ。データも大事だけど、僕たちの『定義』も……そろそろ更新すべきじゃないかな?」


CCは立ち止まり、彼を横目で見た。キャップが目を隠していたが、その視線が集中しているのが分かった。 「定義? 現在の観測によれば、私たちの協力効率は極めて高く、部活が合法化されたことで安定度も40%向上して……」


「部活の話じゃないんだ」悠人は彼女の言葉を遮り、勇気を出してその瞳を見つめた。「君と僕の話だ。大磯浜で星を見て、旧実験室で幾晩も過ごし、『一メートル契約』だって交わした。僕は、君の視線一つで心拍数が上がるんだ。正式に言葉にしたことはなかったけど……」


悠人は深く息を吸った。「CC、君の論理では、僕たちは今、どんな関係なんだ?」


長い沈黙が流れた。透明な傘を雨粒が叩くリズムだけが響く。彼女はうつむき、二人の靴の先の、消えかかった距離を見つめた。 やがて顔を上げた彼女の瞳には、データでは隠しきれないほどの優しさが宿っていた。


「……計算結果によれば、これで付き合っていないと言うのなら、この街の全論理が崩壊しているわ」 悠人は一瞬虚を突かれたが、今日一番の笑顔を見せた。「じゃあ、結論は?」


「結論は、手続きとしての『申請』は飛ばしたけれど、『事実関係』はすでに成立しているということよ」 CCはキャップを深く押し下げ、蚊の鳴くような、けれどはっきりとした声で告げた。 「私たちは……付き合っているわ」 「了解。……りん」 「行きましょう、帰りましょう。悠人」


濡れたアスファルトの上を歩く二人の手は、何度も触れ合った。触れるたびに弱い電流が走るようで、歩調が自然と同期していく。 やがて薄暗い街灯の下で、悠人は意を決して彼女の指の間に自分の指を滑り込ませ、しっかりと恋人繋ぎをした。 CCの体は微かに震えたが、拒絶はしなかった。いつも冷たいタブレットを握っている彼女の手は、悠人の掌の中で驚くほど華奢で、柔らかかった。


「……悠人」 CCはうつむき、長い髪が横顔を隠していたが、その声には隠しきれない甘さが滲んでいた。 「林間学校の時、同時に一冊のノートに手を伸ばしたわね。……あれが、初めて手に触れた時だったかしら」


二人はCCの家の近くの路地までたどり着いた。静かな場所で、互いの呼吸音だけが聞こえる。悠人は夜桜が咲く木の下で足を止め、CCと向き合った。 街灯の余韻の中、CCはゆっくりと顔を上げた。キャップが少し押し上げられ、水のように澄んだ瞳が悠人を映している。


悠人の手が彼女の肩に触れた。二人の距離は一メートルから十センチ、そして数ミリへと縮まっていく。CCの震える睫毛と、彼女から漂う微かなケーキの甘い香り。 世界が二人のために止まったかのような、完璧な雰囲気だった。悠人はゆっくりと顔を伏せ、唇が触れ合う最後の一線を越えようとした、その時――。


「ニャーーーゴ!!!」


凄まじく鋭い猫の鳴き声が、すぐ横のゴミ箱の裏から響き渡った。続いて追いかけっこをしていた二匹の野良猫が、閃光のように二人の足元を駆け抜け、空き缶を派手に蹴飛ばして去っていった。


「……っ!」 あまりの「変数」の乱入に、二人は飛び退いた。悠人は左足をもつれさせて転びそうになり、CCは脱げかけたキャップを慌てて押さえ、狼狽しながら被り直した。


甘い雰囲気は、猫たちによって完膚なきまでに破壊された。悠人は呆然として立ち尽くし、遠ざかる猫の影を見送った。「これも……計算の内か?」


CCは数秒間固まっていたが、悠人のあまりに情けない落胆ぶりを見て、思わず清らかな笑い声を上げた。それはいつもの冷淡な鼻笑いではなく、心からの、少女らしい無邪気な笑いだった。


「葉山悠人。どうやらあなたの『直感』も、まだまだ修行が足りないようね」 彼女は一歩歩み寄ると、悠人の胸を軽く叩いた。そして彼が反応する前に、背伸びをして、飛ぶような速さで彼の頬にキスをした。


「これは補償よ」 彼女はいたずらっぽくウィンクすると、家の方へと向き直り、手を振りながら告げた。「また明日ね、悠人君」


悠人は頬に残る微かな熱と感触を確かめながら、門の向こうへ消えていくCCの背中を見送り、夜の街角で一人、だらしなくニヤけてしまった。 唇へのキスは叶わなかったが、今日の糖度は、確かに徹底的に過剰だった。

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