26.奇跡観測部
「ゴホッ、ゴホゴホッ!悠人、左側の閉まりきった窓を押し開けて。この埃の濃度、脳が休止モードに入りそうだわ」
悠人は目の前で雪のように舞う塵を払い除け、錆びついた円弧状のガラス窓を力任せに押し出した。「ギギィッ」という耳を突き刺すような金属音とともに、数十年も閉ざされていた空気がようやく動き出す。放課後のグラウンドの草の匂いと海風を孕んだ涼風が、この「禁忌の旧実験室」へと流れ込んできた。
ここは旧校舎の五階の最上階。校内マップからも忘れ去られようとしている死角だ。
「現在の空気サンプリングによれば、PM2.5は依然として基準値超え。けれど、少なくともここで呼吸器の考古学調査をする必要はなくなったわね」
CCは特製の防塵マスクを外し、相変わらず冷静で端正な顔立ちを露わにした。手にしたタブレットで、元の部室の三倍はあるこの空間の記録と空間計算を行っている。
「御堂の奴は俺たちを流刑にしたつもりだろうが……ここは眺めだけは最高だな」
小野寺は、精密な撮影機材と漫画で溢れた台車を押し、床の折れた木板を大股で跨いだ。彼は南側の壁一面に広がる円弧状の窓辺に立ち、片目を細めて遠くを見据えた。
「あそこにタイムラプスを仕掛けりゃ、魂が吸い込まれるような映像が撮れるぜ」
「魂なんて撮ってどうすんのよ、小野寺! この埃の方が私の魂を吸い取りそうよ!」
咲良が叫びながら、大袈裟なピンクのハタキを振り回した。まるで除霊のダンスでも踊っているかのようだ。
「悠人! 早くこっちに来てこの古い新聞の束を運んで。ここは私の『ティータイム領域』に指定したんだから!」
「咲良、ここは天文観測の基地なんだよ……」
悠人は苦笑いしながら、レンガのように重い古新聞の山を抱え上げた。
「違うわ」
CCが振り返り、中央にある巨大なチーク材の実験机を指先でなぞった。どっしりと重厚なその机には、細かな数式や意味不明な記号が刻まれており、どこか古の祭壇のような趣がある。
「たった今から、ここは天文部じゃないわ。天文部はバスケ部に解體された。ここは、私たちの新しい部活のための場所よ!」
悠人は古新聞を抱えたまま、その場に固まった。夕陽を浴びて少し茶色がかって見えるCCの長い髪を見つめていると、旧部室を失った喪失感の代わりに、奇妙な鼓動が胸に響いた。
廃墟となり、忘れ去られ、禁忌とさえ噂されたこの実験室で、四人は不器用ながらも、間違いなく自分たちの居場所を築こうとしていた。
「ねえ、見て!」
咲良が突然声を上げた。壁際の隠し棚から、錆びだらけだが奇妙な造形をしたレトロなコーヒーミルを引きずり出してきた。
「これも研究機材かな?」
「いいえ……以前の研究員が残したものかしらね。もし使えるのなら……」
CCは淡々と言い、指令を下した。
「咲良、それを洗浄して。私たちの新しい部活には、確かに飲料の供給源が必要だわ」
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しばらくして、四人はそれぞれの領地を整え終えた。CCは一人で少し苦労しながら、実験机を教室の中央へと移動させた。
「よし! これでこの円卓もなんとか座れるようになったわね。今日の核心的な議案に入るわ」
咲良が自動販売機で買ってきた四本の冷たい飲み物を、テーブルの中央に並べた。周囲にはまだ入り切らない段ボールが積まれているが、磨き上げられたチーク材の長卓を囲むと、神秘的な儀式のような感覚が芽生えてくる。
主座に座ったCCが咳払いし、タブレットの画面を点灯させた。
「生徒会からの最終通告によれば、『天文学部』は名目上バスケ部に併合されたわ。私たちがこの実験室の使用権を法的に維持するには、今日の午後五時までに、課外活動局へ全く新しい『部活動設立申請書』を提出しなければならないの」
CCの声は物理法則を読み上げるように平淡だ。
「問題は――私たちには現在、部名も、明確な活動理念もないということよ」
「活動理念? そんなの適当に『星を観測し、情操を育む』とか書いときゃいいんじゃない?」
小野寺は回転椅子に踏んぞり返り、フィギュアをいじりながら言った。
「御堂零司が審査するのよ」
CCの短い一言が、室温を一瞬で氷点下まで下げた。
「凡庸で、論理に欠け、貢献を数値化できない理念は、すべて『校内リソースの無駄』として0.5秒でシュレッダー行きね」
「あいつ……やっぱり、すんなりとはいかせてくれないか」
悠人は手にした缶を握りしめ、眉をひそめた。
「なら、あいつが『反論できない』名称を考えなきゃいけないんだな」
「はいっ、私から!」咲良が勢いよく立ち上がり、空中に大きな円を描いた。「『ピンクのティータイムと星空のミラクル乙女部』! 理念は、高糖分の摂取によって脳の星空美学感知能力を高めること。ほら、数値もあるし、目標(星空)もあるし、美学(私)もあるわ!」
「却下。貢献が数値化できないどころか、校内の体脂肪率の平均値を上げるだけだわ」CCは容赦なく削除ボタンを押した。
「ちぇっ……じゃあ、小野寺君は?」咲良が頬を膨らませて座り直す。
小野寺は背筋を伸ばし、珍しく真剣な表情を作った。
「御堂の野郎が正確さを好むなら、『光学観測及び動態キャプチャ研究会』はどうだ? 理念は、高度な撮影技術と光学計算を用いて、校内のあらゆる『視覚的価値』を持つ瞬間を記録すること。名目上は物理実験だが、実際は何でも好きなものを撮れる」
CCは眉をひそめ、苦笑交じりに言った。
「変質的な盗撮部活動の婉曲表現に聞こえるわね。技術性はあるけれど、学校に対する『実質的な貢献感』に欠けるわ。同様に却下よ」
最後に全員の視線が悠人に注がれた。悠人は窓の外を眺めた。この高さからは、グラウンドで走る生徒たちや、遠くで輝く街の灯りが見える。CCのデータ上ではそれらは冷たい座標に過ぎないかもしれないが、彼には無数の「奇蹟」が交差する瞬間に見えた。
「CC、君は前に言ったよね。ここに来たのは『ありえないデータ』を観測したからだって」
悠人がゆっくりと口を開いた。その声には不思議な説得力があった。
「論理の天才、狂ったカメラマン、直感型の少女、そして十七位の凡人の僕……。そんな僕たちが、この禁忌の場所に集まっていること自体、最大のアドシニ(不合理)じゃないかな?」
悠人はペンを取り、裏紙に五つの文字を書いた。
「『奇跡観測部』にしよう。理念は、論理によって不合理を解明し、データの荒野の中に『奇蹟』が存在する証拠を探すこと。御堂零司が100%の確定性を求めるなら、僕たちの貢献は、学校における残りの『0.01%の可能性』を観測することだ」
室内が静まり返った。咲良は呆然と悠人を見つめ、小野寺はフィギュアを動かす手を止めた。
CCはその紙の文字をじっと見つめ、タブレットの上で指を浮かせたまま静止した。
「奇跡……観測……」
CCが低く呟き、やがて口角が極めて微かに、けれど確かに上がった。「『奇蹟』を『極低確率事象の集合体』と定義するわけね。科学的な反証は困難だけれど、哲学と校内政治の観点からは、御堂が容易に排除できない『独自性』を備えているわ」
「よし! それに決まりね!」咲良が歓喜の声を上げた。
しかし、CCが登録システムに名前を入力しようとしたその時、実験室の重厚なオーク材の扉が、外から激しく叩かれた。
「大変だ! とんでもないことになった!」
健太の焦った声が扉を通り抜け、天井の埃がパラパラと落ちてくる。
勢いよく開いたドアの枠に掴まり、肩で息をする健太のユニフォームは汗でびっしょりだ。彼は掲示板から剥ぎ取ってきたばかりの公文書を、チーク材の机に叩きつけた。
「あの……御堂の野郎!」健太は息を整えながら言った。「生徒会長の権限で『部活動実績是正令』ってのを出しやがった! 新設部活や名称変更した部活は、一週間以内に『校内貢献の定量化報告書』を提出しなきゃならない。しかも……評価基準を作るのは生徒会と体育部だ」
「体育部?」悠人が驚いた。「それって、バスケ部に俺たちを審査させるってことか?」
「正確には、100%の効率主義に、0.01%の可能性を審査させるということよ」
CCは公文書を手に取り、条項を素早くスキャンした。眼鏡の奥で冷たい光が閃く。「校則のグレーゾーンを利用したわね。報告書が『実質的な貢献なし』と判定されれば、この空間は『リソースのアイドル状態』と見なされ、来週月曜日には正式に封鎖されるわ」
「ひどすぎるわ! やっと引っ越してきたのに、カーテンもまだ付けてないのに!」
咲良は怒ってハタキを振り回した。
小野寺は冷笑し、椅子に深くもたれかかった。
「御堂らしいぜ。生存空間を与えるフリをして、周囲に地雷を埋め込んでおく。……さあ、社長。あんたの論理的な脳みそに策はあるのか?」
CCは三秒間沈黙した。その三秒間、実験室には窓の外の風の音しか聞こえなかった。やがて、彼女の細い指先がタブレットの上で軽快に踊り、画面上のマトリックスが高速で回転を始めた。
「彼が貢献の定量化を望むなら、彼には決して処理しきれないほどの『巨大なデータ(ビッグデータ)』を突きつけてあげるわ」
CCは顔を上げ、すべてを統治する自信に満ちた瞳を取り戻していた。
「悠人。明日からあなたは、古い天文数列表を解く必要はないわ。あなたの任務は、校内で発生するすべての『不合理な争い』と『感情の爆発点』を観測することよ」
「校内の争い?」悠人は当惑した。
「御堂零司が誇るのは、データによって構築された『完璧な秩序』。けれど、人間が集まる場所には必ず感情による効率の損失が存在するわ」
CCは立ち上がり、巨大な古い黒板に「奇跡観測部」という五文字を力強く書き殴った。
「この一週間で、校内で次に混乱が起きる座標と時間を予測するの。そして事態が発生する前に解決策を提示する。これこそが私たちの貢献――『校内リスク及び奇蹟予報システム』よ。解決したすべての問題を報告書に記し、零司に私たちの貢献を克明に見せつけてやりましょう」
「なんだか……最高に格好いいわ!」咲良の目が輝いた。
悠人は黒板に書かれた力強い文字を見つめ、最後の一抹の不安も消え去るのを感じた。前途には御堂の仕掛けた障害が待ち受けているだろう。だが、この旧実験室で、四人(と半分の健太)の影が重なり合い、何者にも壊せない確かな重厚感を生み出していた。
「奇跡観測部、正式発足よ」
CCは全員に向き直った。口調は平淡なままだが、今回は彼女の方から、悠人へ一本の記録用ペンを差し出した。
「悠人。距離は一メートル。けれど私たちの観測精度は、今この瞬間から小数点第十位まで要求されるわ。……準備はいい?」
「ああ!」
悠人はペンを受け取り、この冬で最も晴れやかな笑顔を見せた。
残照が完全に消え、旧実験室の人感センサーライトが灯った。少年たちの影が、歴史の塵が積もった壁面に鮮やかに投影される。未来は不透明だが、彼らの観測計画は、ついにこの瞬間、幕を開けた。




