表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
100%の集中モード  作者: WE/9
変数の出現

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

20/59

20.光芒が照らし出す真相

大磯浜の朝は、重く立ち込めた海霧に覆われ、窓の外の波音は地鳴りのように低く響いていた。


葉山の実家、二階の客間では、CCが厚手の布団の中で丸まっていた。 これは珍しい光景だ。いつもなら清晨六時にはきっかりと目を開け、その日のデータ処理のスケジュールを立て始める彼女が、今は深く夢の中に沈んでいる。枕の上に散らばった長い髪、普段は鋭い眉根も眠りの中で解けているが、そこにはまだ一抹の疲労が滲んでいた。


「トントン」 軽いノックの音が響き、木製のドアがわずかに開いて、咲良がひょっこりと顔を覗かせた。 「CC? 起きてる? みんな下で朝ごはん待ってるよ……」


CCの睫毛が震え、ゆっくりと目が開いた。最初の三秒間、その瞳には迷子のような戸惑いがあった。彼女にとっては極めて稀な現象だ。昨夜、乱暴にコートを捲り上げられた時の寒さ、あの忌まわしい手、そして最後、羊毛の香りがする温かな抱擁……断片的な記憶が脳内で再構築されていく。


「……今、何時?」CCの声は寝起き特有の掠れた響きを帯びていた。 「もうすぐ九時だよ。本当にぐっすりだったね!」咲良が部屋に入ってき、その口調には心配が溢れていた。「昨夜は……大丈夫だった? 悠人が連れて帰ってきた時、あんたの顔、紙みたいに真っ白だったんだから。」


CCはしばし沈黙した。彼女は枕元に置かれた黒いキャップを見つめた。つばには昨夜の路地裏の埃がまだ付着している。 「私はただ……」CCは伏せ目がちになり、咲良の気遣わしい視線を避けた。「大磯浜の路地で道に迷って、予定より帰宅が大幅に遅れた。そのせいで体力を消耗しすぎただけよ。」


それは拙い嘘だった。咲良は瞬きをしたが、純粋な彼女がそれを信じたかは分からない。ただ、布団をきつく握りしめているCCの手を見て、それ以上は聞かないことを選んだ。 「ま、いいや。元気なら。早く降りてきなよ、おばあちゃんが残してくれたあんまん、小野寺が全部食べちゃう前に!」


CCが狭い木階段を降りて居間へ向かうと、味噌汁の香りが漂ってきた。 悠人がテーブルの傍で飯を盛っていた。今日はグレーのパーカーに着替えており、その姿はいつものように穏やかだったが、CCを見た瞬間、彼の瞳に深い罪悪感といたわりがよぎった。


「おはよう。」悠人の声は、何かを壊さないようにと願うほど優しかった。 「……よく眠れたか?」 「……ええ。」


CCは彼の向かいに座り、無意識に服の襟元を正した。 居間の空気はどこか重く、テーブルの上にはあの錆びたクッキー缶、銅のハンドル、そして手書きの地図が置かれていた。温かい朝食があっても、皆の視線は自ずとそれらの遺物へと向いてしまう。


「さっきナビで、あの赤丸の位置を確認してみたんだ。」 小野寺が饅頭を頬張りながら、スマホの地図を指差した。 「でもあの旧灯台、五年前から地盤沈下で閉鎖されてて、道も草に埋もれてる。ましてやこの『光の屈折角』なんて数字、このハンドルとどう関係があるのかさっぱりだよ。」


悠人は茶碗を置き、精巧な彫刻の施されたハンドルを見つめた。その語りには一抹の諦念が混じっている。 「親父の残したものは、いつも訳が分からない。この『奇蹟』とやらが開けなければ、僕たちは本当に遺憾を抱えたまま東京へ帰ることになるかもしれないな。」


食卓に短い沈黙が流れた。 CCは黙って汁を啜りながら、地図の赤い印を見つめていた。昨夜の危機で彼女のロジックには亀裂が生じたかもしれない。けれど、悠人の落胆した横顔を見ていると、心の中の得体の知れない動力がその破片を静かに修復し始めているのを感じた。


彼女はこの奇蹟を見つけ出さなければならない。悠人の父親のためだけでなく、この世界には非理性的で醜悪な悪意だけでなく、精緻に守られるべき温もりが存在することを証明するために。


居間の味噌汁の湯気が薄れていく中、CCの一言がその沈んだ空気を一変させた。 「待って。」 CCは突然、蓮華を置いた。陶器がテーブルに触れる硬質な音が皆を我に返らせた。彼女の顔色はまだ少し蒼白だったが、黒髪の隙間からのぞく双眸は、すでに精密機器のような鋭さを取り戻していた。


「小野寺、灯台への道は閉鎖されていると言ったわね?」 「ああ、草が背丈より高いし、路肩も半分崩れてる。どうしたんだ?」 「私たちは、ずっと『目的地』という盲点に陥っていたわ。」


CCは立ち上がり、指先で黄ばんだ地図をなぞると、赤丸と葉山家の実家を結ぶ直線の上で止めた。 「この数字は地理座標じゃない。光学的なパス(経路)よ。大磯浜において、建物の障害を越えるほど十分な強度の光線と高さを得られる場所は、灯台のレンズユニット以外に存在しないわ。」


悠人は息を呑んだ。地図上で実家と海を繋ぐ仮想の直線を見つめ、鼓動が一つ跳ねた。 「赤丸が灯台なのは、そこが『発射源』だからよ。」 CCは顔を上げ、視線を居間の隅へと固定した。そこには繊細なレースの布が被せられた、重厚で時代遅れの大きなブラウン管テレビがあった。


「悠人、あのテレビが動いているのを、子供の頃に見たことはある?」 悠人は子供時代の記憶にある、その古びた鉄屑を見つめて首を振った。 「親父がリサイクルショップで拾ってきたんだ。『魔法の機械だ』なんて言ってたけど、僕の記憶じゃ砂嵐すら映ったことはない。ただの花瓶置きだよ。」


「あれは、テレビじゃないわ。」 CCは歩み寄り、レースの布を剥ぎ取った。厚いガラススクリーンの下、排熱孔の傍らに隠された円形のソケットを指先でなぞった。それは、あの銅のハンドルと完全に一致する形状だった。


「これは改造されたシアター級の映写機よ。背面には必ず外部集光鏡があるはず。」 CCは振り返り、窓の外の灯台へと向かう狭い視界の先を見据えた。 「『光の屈折角』の計算によれば、午後二時四十五分。太陽が水平線上の特定の高度に達した時、誰かが灯台の頂上でそのハンドルを使い、主レンズを回転させれば……」


「光の束が海霧を突き抜け、この居間に射し込んで、映写機の冷光源を起動させる……!」小野寺が興奮のあまり茶碗をひっくり返しそうになった。「なんてこった、十年越しの光学式タイマー装置かよ!」


悠人は静かな古い機械を見つめ、鼻の奥がツンとした。父親は彼に、険しい道を越えて真実を探しに行けと言ったのではなかった。父親はこの「光」を、十年の孤独を越えて、彼が雨宿りをするこの家へと直接届けようとしていたのだ。


「二時四十五分まで、あと四時間足らずよ。」CCは悠人を見つめた。その瞳には拒絶を許さない意志が宿っていた。「灯台の道は険しいわ。あなたと小野寺は今すぐ出発して、向こうでレンズを操作してちょうだい。私と咲良はここで受信とピント合わせを担うわ。」


「でも、君の体が……」悠人は、まだ微かに震えているCCの指先を見て、心配そうに言った。 「大丈夫よ。」CCは視線を逸らしたが、次の瞬間、悠人の服の裾をそっと掴んだ。声は極めて低かった。 「これが、私にできる唯一の演算なの。悠人、行って。あなただけの奇蹟を、取り戻してきなさい。」


悠人は彼女を見つめ、冷徹な論理の下に隠されたその温かさを感じ、力強く頷いた。 「分かった。小野寺、行こう。」


午後二時四十四分。 灰色だった窓の外に、突如として一条の強光が走った。遠くの灯台から、空間を越えて響くような鈍い機械の噛み合わせ音が聞こえ、光の束は瞬時に眩しく収束した。それは正確に、テレビ背面の集光鏡を直撃した。


「カチッ。」 古い機械の中からゼンマイが回る音がした。テレビ前面のガラススクリーンが明るく灯り、内部の複雑な反射鏡を通った光が、向かいの白い壁に映像を投影し始めた。


フィルムが回る「カタカタ」という音が響く。最初はカラーのフラッシュや焦げたフィルムの端が見えたが、やがて映像は安定した。画面には、レイカーズの24番のユニフォームを着た小さな男の子が、陽光溢れる庭で不器用にドリブルをしている姿が映し出された。 「悠人だ……」咲良が驚きの声を上げ、反射的に立ち上がろうとした。


しかし、CCはその肩を優しく抑えた。彼女の手には、黄色く変色し、ボタンが二つしかない簡易的なリモコンが握られていた。テレビの裏で見つけた制御ユニットだ。 「待って。」CCは静かに言い、指先を「一時停止ボタン」の上で止めた。


壁の映像は流れていく。あの夏の古木の下には、見たこともないほど鮮やかな、瑠璃色のアサガオが咲き誇っていた。画面の外で、男の低く誇らしげな笑い声が聞こえる。「悠人、見てごらん、パパが何を撮ったか……」


父親が顔を向け、何かを語りかけようとしたその瞬間、CCは断固としてリモコンを押した。 画面が瞬時に凍りつく。 映像は、父親が顔を上げ、笑顔を見せようとしたその一瞬で止まった。静止画であっても、十年の時を越えた父の愛が、その淡い光を通じて薄暗い居間を満たしているかのようだった。


「CC? どうして止めるの?」咲良が不思議そうに聞いた。 「この贈り物を、一番最初に私たちが見るべきではないわ。」 CCは伏せ目がちになり、リモコンを畳の上にそっと置いた。暗闇の中で、彼女の表情は驚くほど柔らかかった。 「これは彼の、十年待った対話よ。私たちはシステムが正常に稼働することを確認すれば、それで十分。」


咲良は呆然としたが、すぐに理解して微笑んだ。「……そうだね。これは悠人の時間だもんね。」


CCは立ち上がり、居間の襖をそっと隙間を残して閉めた。彼女は縁側に歩き、柱に背を預けて坂の先を見つめた。海風が彼女の長い髪を乱したが、その眼差しはかつてないほど穏やかだった。


十分後、坂の下から急ぎ足の足音が聞こえてきた。 悠人と小野寺が、肩を揺らしながら門に飛び込んできた。悠人の服は風に乱れ、頬は全力疾走のせいで紅潮している。彼は家に入るなり、居間の中を必死に探した。 「成功したのか……?」震える声で彼が尋ねた。


CCは何も言わず、ただリモコンを彼の手に手渡し、閉まった襖を指差した。 「彼が、中で待っているわ。」 CCの声はとても静かで、データではシミュレートできない優しさを湛えていた。 「行きましょう、悠人。今度は、背を向けたりしないで。」


悠人はリモコンを握りしめ、CCを見つめた。その瞬間、彼の瞳に涙が溢れた。彼は深く頷き、意を決して思い出へと続く襖を押し開けた。


居間には、時空を越えた一条の光がまだ灯っていた。静止した映像がその主を待っている。 CCは門の外で、屋内から漏れ聞こえる押し殺した啜り泣きを聞きながら、思った。 ――「誤差」もまた、この世界で最も美しい風景なのだと。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ