第8話 死した獅子より生ける犬
【第8話 死した獅子より生ける犬】
「なに今の……獣の鳴き声?」
暴風に煽られながら、リンは濡れた金髪を払い、夜空を睨みつけた。
風雨が視界を歪めるなか、不気味な遠吠えが耳に残る。
「いたぞ! こっちだ!」
敵兵の怒声。次の瞬間には、銃口がこちらを向いている。
リンは舌打ちを漏らす。
「ちっ、ほんと、しつこい!」
再び駆け出す。濡れたアスファルトを蹴り、闇のなかを疾走する。
リンは逃げていた。
千夜たちと分かれたあと、敵影を見つけ、今度こそと慎重に接近し、襲撃を試みた。
だが倒せたのは数名が限界。すぐさま包囲され、撤退を余儀なくされた。
敵の数は、まるで底を知らないかのように増えていく。
だが機動力に関しては、まだリンに軍配があった。
走れば距離は取れる。振り切れる。
——そのはずだった。
なのに、どれだけ離れても、すぐに見つかる。
視線を感じる。気配を感じる。
リンは、まだ気づいていなかった。
すでに“マーカー”を仕掛けられていることに。
「逃げるなんて弱い奴のやること、とか言っておいて、このザマか……」
自嘲するように、ひとりごちる。
体力には余裕がある。だが、精神の緊張が続いていた。
一息つける場所を、そろそろ求めていた。
——向かうは、島の中央部。
そこにあるのは、学園の司令本部。
本来なら駐在兵たちの拠点であり、防衛の中枢となる場所。
そこまで行けば、敵の意識を少しは散らせるかもしれない。
そう考え、リンは森を抜け、開けた中枢部へと足を踏み入れた。
「なによ、あれは——」
視界に飛び込んできた光景に、言葉を失う。
——司令本部は、地獄と化していた。
建物の外壁は爪痕で抉られ、黒煙が舞う。
周囲では、散発的に銃撃戦が続いていた。
学園側と敵側、戦力は見たところ拮抗している。
——だが、そいつが現れた瞬間、すべてが変わった。
異様なまでに巨大な、半狼半人の怪物。
獣の姿をしながら、明確な意志を持った殺戮者。
その狼男は、信じられないほどの速度で戦場を駆ける。
振るわれた爪に斬り裂かれ、兵士が吹き飛ぶ。
反撃の余地すら与えず、学園側の兵たちは、一人、また一人と無惨に蹂躙されていった。
咆哮。血飛沫。逃げ惑う声。
そして——狼男は、司令本部の扉をこじ開け、ゆっくりと中へと姿を消した。
「……あんなんが居たんじゃ、休むも何もないわね……」
肩で息をしながら、リンは視線を逸らす。
あれを正面から相手にするには、あまりにも分が悪い。
目標を見失い、目的地も定まらぬまま、リンは再び夜の雨へと駆け出した。
ただ、追われることに慣れた脚で。
ただ、止まるわけにはいかないという意地で。
◇
寮から連れ出された生徒たちは、雨に濡れたアスファルトを踏みしめながら、静かに体育館へと集められていた。
数はおよそ百名。年齢は高校生以上に限られており、まだ幼い中学生以下の生徒は、寮に取り残されたままだという。
広い体育館のフロアに、無数の影が膝を抱えていた。冷たい床に座らされ、頭上の照明は落とされている。周囲を囲むのは、銃を携えた数名の武装兵。
誰もが怯え、口を閉ざしていた。
「紅葉先輩……」
小さく、ロングの少女がつぶやく。委員長だった。
その隣で、紅葉が静かに微笑んだ。
「きっと大丈夫。島には駐在兵もいるんだよ。すぐ助けに来てくれるって」
希望を込めた声だったが、それはあまりにも無防備だった。
「そこ、静かにしろ」
短く鋭い声が飛ぶ。ひとりの武装兵が、即座に睨みつけてきた。
二人は、肩をすくめるように口をつぐんだ。
沈黙が満ちる中、ゆっくりとひとりの男子生徒が立ち上がった。両手を上げ、敵意のない姿勢を見せる。
生徒会長だった。
「……少し、よろしいだろうか」
声は落ち着いていた。怯えよりも、責任感が勝っていた。
「なんだ」
武装兵が警戒するように銃を構える。
「私は生徒会長。この学園の代表者だ。そちらの代表と話をさせていただけないだろうか」
堂々とした物言い。だが、返ってきたのは無慈悲な声だった。
「……静かにしろ」
それでも、生徒会長は言葉を継ぐ。
「我々はなんのために——」
「黙れ」
次の瞬間、銃口が突きつけられた。
場が凍りつく。誰もが息を呑んだ。
生徒会長は、それでも目をそらさなかった。
「……」
武装兵はしばし睨みつけたあと、不気味に笑みを浮かべた。
「……貴様らは、役者であり、観客だ」
「役者……?」「観客……?」
小さなざわめきが広がる。
「そうだ。直にはじまるショーのな。……世界が変わる瞬間を特等席で鑑賞できるんだ。感謝してほしいくらいだ。始まるまでおとなしく待っていろ」
そう吐き捨てて、武装兵は生徒会長を一睨み。
生徒会長はそれ以上の抵抗を見せず、静かに腰を下ろした。
「なんなのよ……一体……」
委員長の震える声だけが、静寂の中に滲んでいく。
◇
島の南西沖——波濤の上を滑るように進む特殊艦。その司令室の空気が、一瞬にして張り詰めた。
「ノーブル中佐! 学園より、その、通信が!」
通信班員が声を上げる。モニターの明かりに照らされた顔が緊張に染まっていた。
「通信……? こちらから何度かけても無反応だったのに? 駐在兵からか?」
ノーブルと呼ばれた女性が、椅子から背を離さず問い返す。漆黒に紫を滲ませたショートボブが揺れ、冷ややかな眼差しが端末に向けられた。
「いえ、それが……モールス信号で、SOSと」
「……はぁ?」
思わず口元を歪める。美しいが威厳を帯びたその姿に、通信班員は思わず背筋を正す。
「貴様! ふざけているのか!」
すかさず、副官が怒鳴りつけた。軍服の皺ひとつ許さぬ姿勢と声量。だが、彼女の部下であることには違いない。
「い、いえ、決してそういうわけでは……!」
顔を青ざめさせながら必死に否定する通信班員に、彼女が再び口を開く。
「場所を特定し、ドローンを回せ」
「イエス、ベローナ!」
「ベローナはよせ……」
ぼやくように呟いた彼女の目が、即座にスクリーンへと向かう。
表示された映像に、司令室がざわついた。
波打つ岸壁の上。港に立つのは三人の若者——水無瀬千夜、加賀輝晃、そしてカメラ目線で満面の笑みを浮かべながら手を振る、早坂優。
「何者だ…? 生徒のようだが」
副官が目を細める。
「……解析結果出ました。全員、学園が擁するベルサイドです」
「ほう」
彼女の声に、わずかな興味の色が混じった。
「なんだと? どうやって港に辿り着いた? そもそもなぜ我々に気が付いたのだ」
「いえ、それは……」
口ごもる通信班員。
「本人に聞けばわかることさ、キミ。小型艇を出せ。彼らを迎え入れる」
副官が、眉をひそめたまま言葉を投げる。
「…司令! 敵方の罠かも知れませんぞ! 作戦に支障をきたす可能性があります!」
「なに。ちょうど中の情報が欲しかったところだ。ドローンだけでは限界がある」
語気は淡々としていたが、その背筋には一分の緩みもなかった。
「し、しかし、もし暴れでもしたら……!」
「その時は私が責任を持って止めるさ」
鋼の意志が宿る声。その重みに、副官は舌打ちを噛み殺す。
「……チッ」
不承不承に視線を逸らす副官の背中を見ながら、彼女はひとつ息をついた。
あの笑顔で手を振る少女——早坂優。何者だ、キミたちは。
◇
港で待機すること十数分。波に揺れる足元の桟橋、その先に、やがて低くうなるエンジン音が近づいてきた。
海の向こうから、小型艇が一隻。白波を蹴立てながら、三人のいる岸へと真っすぐに向かってくる。
「おぉ……本当に来やがった」
思わず漏れた加賀の感嘆に、誰も返事をしなかった。
すべてのきっかけは、さっきの優の一言。
『日本軍が近くにいる。呼ぶわ』
そう言って彼女は、どこか海の向こうを見つめると、笑顔で手を振った。まるで、すべてが予定調和であるかのように。そして今、まるで答えるように、軍の船が姿を現した。
船から拡声器を通じた声が響く。
「確認だ! 学園高等部所属、二年、加賀輝晃、早坂優、水無瀬千夜で間違いないな?」
「ないわ」
「君たち以外はいないか?」
「いません」
「そうか。では本艦に案内する。乗れ」
三人は無言で頷き、小型艇へと足を運んだ。
船の甲板に立ち、海風を受けながら、加賀と千夜は互いの顔を一瞬だけ見合う。生き延びた安堵と、取り残してきた仲間への罪悪感。その両方が、胸の奥で重たく燻っていた。
優だけは、ただ目を閉じていた。表情の読めない横顔に、疲労の色が滲んでいる。
船が波を切る低い振動のなか、甲板の静寂を破るように、加賀がぼそりとつぶやいた。
「つーか、なんだったんだよ、さっきのあのバカでかい声は……」
気怠げな声音とは裏腹に、その瞳の奥にはまだ残滓のような恐怖が張り付いている。空から響いたあの咆哮は、人の声とは思えなかった。獣の遠吠え。否、あれは——。
「加賀、海に落ちかけてたもんね」
千夜がふっと息を抜くように言った。わざとらしくない、ほんの少しの冗談。それでも、その裏には緊張をほぐしたいという意図が見えた。
「うるせぇ。お前もビビってたろうが」
肩をすくめながら返す加賀。いつもの調子だが、その口元はどこかぎこちない。
「優もわからない? あの狼みたいな声」
千夜は横目で優を見やる。彼女は今も静かに座っていたが、その瞼はゆっくりと閉じられていた。
「わからない……。ただ、あれと同時に何人も空から降りてきた。本格的な侵攻が始まったとみて間違いないでしょうね」
閉じた目の奥に、どれほどの情報が巡っているのか。声は静かだったが、その内容は重かった。彼女にしか見えなかった“戦場”の像が、言葉の端々に滲んでいる。
「そっか……」
千夜の返事は、どこか遠くを見つめるようだった。自分たちが巻き込まれたものの正体。それを理解しようとすればするほど、底知れぬ恐怖が染み込んでくる。
「優にもわからないことがあるんだな」
加賀がそう言ったのは、からかいでも意地悪でもない。ただ、彼女が完璧ではないという事実に、わずかに人間味を感じたのかもしれない。
「ごめん。さすがにちょっと疲れたわ……」
優が目を閉じる。瞳には倦怠が宿り、そのまなざしはどこか弱々しかった。
「お疲れ、優。おかげで助かったよ」
千夜の声に、優はふっと微笑む。
「ふふ……感謝しなさい」
強がりの仮面ではない。ほんの一瞬、少女としての柔らかな部分が、そこに顔を覗かせた。
そのときだった。
甲板の前方、操縦席から無機質な声が響く。
「お疲れのところ申し訳ないが、キミたちにいくつか聞きたいことがある」
三人は、背中に冷たい現実を感じながら振り返った。安堵も束の間、また新たな局面が始まろうとしている。
加賀は肩を竦め、千夜は微かに身をこわばらせ、優は疲れた目でまっすぐに声の主を見た。
「学園でなにが起きたのか。キミたちが知ることを教えて欲しい」
穏やかに投げかけられたその問い。それはつまり、彼らが“証人”として生還したという意味であり、戦場の中心にいたという証明でもあった。
逃れられない。語らなければならない。救助の先にあるのは、ただの安息ではなく、記憶の掘り返しだった。
◇
第三特区防衛軍・特殊制圧部隊司令室。
荒れ狂う海上では、無数のモニターが戦況を映し、通信ノイズが天井スピーカーから絶え間なく漏れていた。
「……報告は以上となります」
若い船務士が姿勢を正し、淡々と語尾を締めた。
内容は、先ほど保護した三名の異能者——水無瀬千夜、早坂優、加賀輝晃から得た情報の要約である。
「構造級と別行動……? バカな。なぜそんな戦力分離を……自殺行為だ」
副官が憤怒を露わにした。
構造級戦力——大型構造物の破壊が可能な異能者のことを、軍部ではそう呼称する。
それを単騎で後方に残し、三名のみで脱出したという報告内容に、参謀たちの間に動揺が走るのも無理はない。
「……だが、結果として彼らは無事ここへ到達した」
その空気を断ち切ったのは、中央司令卓に立つ黒紫の軍服姿。
特殊制圧部隊司令、ノーブル中佐であった。
「最善とは言えぬかもしれないが、生還という一点において彼らの判断は誤りとは断定できまい」
冷徹に、しかし一切の揺らぎを許さぬ語調で、司令官は言い切る。
戦場における最上の価値は「死した獅子より生ける犬」——その信念が、ノーブル中佐の戦略原理に根差している。
「……それは、確かにそうですが」
副官の声が濁る。合理性の影にある“感情”が、まだ理解を拒んでいた。
「三名は今どこに?」
「衛生班の判断で、シャワーブロックにて処置中です」
「ふむ。では、処置完了次第、こちらに——いや、私が出向こう。直接話をしたい」
「し、司令!? この場を離れられるのですか!?」
副官の意見に同調した周囲の幕僚たちも、目を見張る。指揮官自ら赴くなど、平時なら許されぬ決断である。
「落ち着きたまえよ、キミ」
彼女は緩やかに振り返る。だがその視線は、戦車の砲塔のように重く、正確に副官を射抜いていた。
「今は情報戦フェーズだ。戦闘指揮は最優先ではない。キミがここにいれば充分だろう。違うか?」
「……くっ。了解しました」
副官が敬礼と共に姿勢を正す。
その横顔にはまだ迷いが残るが、命令に異を唱えるほどの愚か者ではない。
「なにか発生したら、即時連絡を」
「はっ!」
彼女が踵を返すと、軍靴が金属床に鋭く打音を響かせた。




