第5話 牙
窓を叩く暴風雨の音が、夜の静寂を破り続けていた。
目を覚ました水無瀬千夜は、しばらくその音が夢か現実かも判別できず、ただじっと天井を見つめていた。頬を伝う湿気と、額に張りつく髪の不快感でようやく現実に引き戻される。ゆっくりと体を起こし、手探りでスマートフォンを探す。指先がガラスの冷たい感触を捉え、画面を点けた。
「……三時……?」
表示された数字に思わず言葉を失う。夜明けにはまだ遠く、窓の外は真っ黒な闇に包まれていた。濡れた九月の風が窓の隙間から吹き込み、薄着の肌をなぞっていく。冷たくはない。ただ、どこか生ぬるく、不穏な気配を孕んでいた。
「……なに、優……こんな時間に……」
寝ぼけ眼を擦りながらゆっくりと振り向いたその先、視界の端に赤がちらついた。
ベッドの脇に立っていたのは、早坂優。夜中にも関わらず、制服に袖を通し、ピンク色のカーディガンを羽織っている。赤いカチューシャが黒髪の間から覗き、表情は硬い。スカートの下には黒タイツ。足元はいつもの無骨なブーツ。そして左手には、かすかに鈍く光るガントレット。
非日常の装備だった。まるで今すぐにでも戦場へ向かうかのような——いや、すでに彼女の中では、戦いは始まっていたのだろう。
「千夜。今すぐ着替えて」
その声には、いつもの優しさも、気怠げな揶揄もなかった。ただひたすらに、冷たく、鋭い。
「……?」
状況が飲み込めず、思わず間の抜けた声を漏らす。頭はまだ眠気に支配されていたが、それでもわかった。彼女の瞳の奥にあるものが、ただの冗談でも、軽口でもないことだけは。
「ここは直に、戦場になる」
その一言が、胸を貫いた。
再びスマホに視線を落とす。午前三時七分。数分も経っていないのに、世界の空気が別物になっていた。
胸の奥がざわつく。なにかが、決定的に変わってしまう気がした。
◇ ◇ ◇
【第5話 牙】
階段を駆け下りる制服姿の二人。その足音は、薄暗いコンクリートの壁に吸い込まれるようにして響き、虚ろに反響していた。空気が重い。汗ばむ肌にまとわりつく湿気は、夏の残滓というよりも、不吉な予兆のように思えた。
千夜は肩で息をしながら、懸命に前を走る優の背中を追いかけていた。非常灯の赤い明滅が、フラッシュのように廊下を照らしては消え、壁に伸びるふたりの影をぐらぐらと揺らしていく。その影さえ、何かに追われているようだった。
エレベーターは反応しなかった。ボタンは沈んでも無反応。ドアのロックを閉めることはできず、まるで沈黙を貫く機械のようだった。スマホを取り出してみても、表示されるのは「圏外」の無慈悲な文字列。
世界が、静かに変わっていく。
千夜の中で、何かが崩れていくような感覚があった。何かが、始まっている——そんな漠然とした確信だけが、背筋を冷たく這い回っていた。
「戦場になるって、どういうこと!?」
自分の声が、やけに大きく階段に響いた。震えながらも絞り出すように放った問いに、答えがほしかった。いや、きっと答えなど聞きたくなかったのかもしれない。ただ、それでも、口をついて出てしまった。
「そのままの意味よ」
前を走る優の声は、静かだった。だが、静かすぎた。何かを押し殺すような、冷えた声音。そこに滲む緊張と覚悟が、むしろ千夜の恐怖を深めていく。
「もう少し詳しく!」
階段の踊り場で優が立ち止まるかと思ったが、足は止まらない。そのまま駆け下りながら、短く返された言葉が胸に刺さる。
「ごめん千夜、今は本当に時間がないの。私を信じて」
本気だ。この幼馴染が、ここまで切迫した声を出すことなど、これまでなかった。ふざけた冗談も、気取った皮肉も、一切ない。そこにあるのは、覚悟だけ。
「そりゃ、信じるけど……!」
その一言を吐いた瞬間、足元の階段が終わり、一階の床が目の前に現れる。だが——
「……静かに。こっちへ。物音を立てないで」
優が唐突に立ち止まり、手で制する。その目には、もはや日常の色はなかった。冷たい金属のように研ぎ澄まされた視線。まるで、獲物を狙う猛獣のそれだ。
「……どうしたの……?」
優に促されるまま、千夜はロビーの隅、観葉植物の陰に身を沈める。張りついた喉が、うまく唾を飲み込ませてくれない。心臓の鼓動がやたらと耳に響いて、妙にうるさい。
次の瞬間——
世界が、割れた。
轟音。金属が破裂したような炸裂音。ガラスの砕け散る音。誰かの悲鳴。そして、何か重いものが床に叩きつけられるような、鈍い音。それに続いて、飛び散る赤いなにか。常駐兵と目が合う。しかしその瞳には、すでに光は
理解が追いつくよりも先に、脳が警鐘を鳴らす。
「クリア。ブラボー班は構造級の補足。チャーリー班は各フロアを下層から制圧。アルファ班はこの場で待機。全隊、展開!」
命令口調の男の声。その直後、重く揃った足音が、すぐ目の前を通り過ぎていく。整った軍靴のリズム。訓練され尽くした、それは明らかに“群”のそれだった。
声を出すことすら忘れ、千夜は物陰に息を潜める。優も同じく、気配を殺している。
だんだんと音が遠のく。それにつれ、まるで時間の流れが遅くなったかのように感じる。
轟音がリフレインする——映画とは違う、腹に届く音
叫び声が反響する——知らない人が
視界から色が抜け落ちる——しらない、ひと?
風の音が聞こえる——風。風。雨。そうだ今日は雨。傘を、ちゃんと持って……
そうだ、学校に行かないと。学校は大事。学校に行けば、
傘、傘。傘はどこ? 傘をささないと、あの赤い雨を
赤。赤?
散った赤。床に落ちた赤。
丸い。
"青い"。
浮かぶ
ふたつ
泣き叫ぶ女の子。
泣き叫ぶ、僕。
——— 「×××××」 ———
さっきまで人だったその赤は、暗闇のなか、色のないこの世界で、とても鮮やかで
「落ち着いて千夜。大丈夫。私があなたを守るから」
優の声は、夜の静けさに溶け込むように柔らかく響いた。彼女はそっと両手で千夜の頬を包む。その手のひらのうち、片方だけが確かに温かかった。もう片方は、氷のように冷たい。
「優、あの人……」
「私を見て。私は誰?」
揺れる視界の中で、千夜は焦点を合わせる。そこにあるのは、幼い頃から変わらない彼女の瞳。
「……優」
「よし。絶対に大丈夫だからね。とりあえずここを出るわよ」
その言葉に、千夜は頷こうとした。けれど、口から漏れたのは別の言葉だった。
「……待って」
「なに?」
「みんなが、他のみんなが」
場の空気が止まる。優の瞳がほんの僅かに揺れた。その問いは、彼女にも突き刺さる鋭利な刃だった。
「……大丈夫。みんなは、人質にされるだけよ」
「なんでそんな……」
「私よ?」
それは説明など不要な確信だった。優がそう言うのなら、きっとそうなのだろう——千夜はそう思おうとした。
(———本当に?)
信じたい気持ちと、疑念の狭間で、千夜の内側がきしむ。
「……わかった」
その声は弱々しいながらも、確かに何かを受け止めた意志を帯びていた。千夜の瞳に、か細い光が宿る。
(———本当、に?)
「けど、加賀、だけでも……」
沈黙の後、優は短く息を呑み、小さく頷いた。
「………わかった。少し待ってて。絶対にここから動かないで」
そう言い残し、優の姿は闇に溶けるように音もなく消えた。
その場に残された千夜は、ゆっくりとその場に膝をついた。無意識のうちに両腕を体に回し、自らを抱きしめるようにして座り込む。空気は冷たく、心はさらに冷え切っていた。
大丈夫。そう言い聞かせても、震える身体は止まらない。大丈夫。浅く早い呼吸を整えようとするたびに、胸の奥が痛んだ。
ただ一人、暗闇の中で。千夜は、祈るように目を閉じる。
(———なにを?)
◇
薄暗い船室の一角。コンクリートの箱のような空間に、モニターの光が仄かに揺れている。ここは、旧海軍施設を改装した特殊作戦母艦。その司令室に、重苦しい空気が漂っていた。
スクリーンに映し出されたのは、一人の少女の姿。その名は——
「敵性特記戦力、コードネーム、小さな戦闘狂。本名、リーネ・シュタイン・アイゼンフェルト。ドイツ出身」
無機質な声で報告を続けるのは情報参謀のひとりだ。
「対象は超高密度かつ高弾性の筋肉構造を有し、常人を遥かに超える身体能力を発揮します。身長は140cm未満と小柄ながら、体重は100kgを超えるものと推定。本学園において唯一“構造級”に分類され、現地の最高戦力と目されております」
「ふむ。構造級がこの娘一人だけ。他はすべて端末級……」
その言葉に反応したのは、背後に立つ男。年齢不詳、小柄で軍服姿の中年紳士が唇を吊り上げて嗤った。
「クク…クハハ! なるほど、実に結構。これは楽な仕事になりそうですな、司令殿?」
肩を揺らして笑うその男、名をDr.ゴッドハック=マクスウェル=ダーク=シグナル=Ⅲ世という。黒光りするオールバックに銀縁のモノクル、仕立ての良い軍服を纏い、見るからに芝居がかった風貌だ。
「……貴殿は、敵戦力の把握すら済ませていないのか?」
冷ややかに視線を送ったのは、司令官と思しき男。長身痩躯の軍人で、鋭く光る眼光と口数の少なさが、その威圧感を際立たせている。
「これは手厳しい。が、無理もない。わたくしはこう見えて多忙な身。ゆえに把握しているのはただひとつ、ここに我が敵はいないという事実だけですな」
ふん、と鼻を鳴らし、ゴッドハックは人差し指を立てて続けた。
「まぁこのDr.ゴッドハック=マクスウェル=ダーク=シグナル=Ⅲ世に敵う者など、確認するまでもなく世界に片手で数えるほどもおりませんがね。クハハッ!」
無駄に長い名前を滑らかに発音しながら、得意げに胸を張る。
「……結構。貴殿の働きに期待しよう。
敵性特記戦力の補足状況は?」
男の視線が別のオペレーターに向けられる。
「先ほど、ミーアキャットより入電。敵性個体らしき少女を屋外にて確認。交戦に移行とのことです」
「見失うなと伝えろ」
「了解」
短く応じたオペレーターが再び端末に向き直る。
「ゴッドハック殿」
「ふふ、ぬかりなく。我が“神の手”はこの間にも学園を侵食しております。全システム掌握まで、あと数分といったところかと」
そう言って彼は自らの指を振るわせ、操作卓を指差す。
「そしてどうかお忘れなきよう。わたくしの名はDr.ゴッドハック=マクスウェル=ダーク=シグナル=Ⅲ世。祖父から受け継ぎし由緒正しき名であります」
その場に似つかわしくないほど堂々と、ゴッドハックは胸を張った。名乗るだけで一種の演説のような威圧感がある。この男にとって、名こそが血脈であり、誇りであり、武器だった。
その誇り高き名乗りに応じることなく、男は静かに立ち上がる。
「善処しよう。……サーペント。出撃準備を」
低く、抑揚のない声。しかし、その響きには命令以上の決意があった。
「は」
短く答えたのは、傍らに立つ長身の男。筋骨隆々とした肉体に黒の戦闘服を纏い、冷徹な眼差しをたたえたその姿は、まさしく“戦場の蛇”を思わせた。彼のコードネームは“サーペント”。その名が示す通り、静かに、確実に獲物を仕留める冷血の傭兵だった。
二人の足音が室内を打ち、やがて扉の向こうへと消えていく。
静寂が戻る。
「……けっ。何が“善処しよう”だ。粋がりおって……」
モニターに映る指揮官の背中に向かって、ゴッドハックは吐き捨てた。怒気よりも呆れのこもった声だった。
「この我輩の名を省略するとは無礼千万。名無しの嫉妬か? まぁよかろう、許そう。我輩ほど寛容な存在もそうはおらんからな」
ふん、と鼻を鳴らしながら笑うと、彼は長い指で手元の端末を撫でた。そこに映るのは、学園各地のセキュリティカメラ映像——廊下、教室、研究棟、果ては地下の保管庫まで。
「さてでは、そのお手並み、じっくりと拝見させていただくとしよう」
指が踊るように動き、仮想の鍵が次々と外れていく。映像が切り替わり、アラートが無効化され、情報の流れが彼の手中へと収束していく。まるで神経網そのものが、彼の延長として機能しはじめるかのようだった。
彼は情報と電脳の海に生きる怪物。物理的な武力を一切持たずして都市を無力化するこの男は、異能すらも凌駕する、真の意味での軍神である。
「クハ、クハハ! クハハハハハ!」
静寂を打ち破る高笑い。その声はまるで、電磁の稲妻が空を裂く予兆。
その背後、広がる窓の外。空の果て、海の彼方では、雷鳴が低く唸っていた。




