第2話 交差点
第三次異能大戦
それは、二十一年前に勃発した。
“ベルサイド”と呼ばれる異能者たちと、近代兵器が並び立つ戦争——三度目の異能大戦。
第二次の混沌を踏まえた上で、各国は異能の兵器利用に拍車をかけ、より“濃縮”されたベルサイドの戦力が戦場を支配した。
軍の指揮も、政体の形も、戦場の倫理さえ、すべてが崩れた。
戦局は、もはや人類の意志を離れ、狂気の均衡に委ねられていた。
だが、五年にわたる死闘の果て、大戦は収束を迎える。
疲弊と焼失の果てに——世界は、変わった。
戦火に焼かれたベルサイドたちは、その数を大きく減らした。その事態の深刻さを鑑みた各国は新たな協定を結ぶに至る。
そして始まったのは、“保護”の名を借りた、徹底した管理体制だった。
“彼ら”を囲い込み、“世界”を守るという建前のもとに。
◇ ◇ ◇
【第2話 交差点】
時はわずかに遡る。
場所は、人工島の寮舎、その五階。
窓からは、かつて学園の象徴とされた時計塔がよく見えた。
部屋に立つのは、黒髪の少女、早坂優。
その瞳には、わずかな焦りと諦念が混ざったような光が宿っている。
「……あー、これは……バレたかな」
ぽつりと漏らした声は、誰に届くわけでもなく空気に消える。
足元には、彼女が愛用する厚底ブーツ。その異様なフォルムが、ただのファッションではないことを物語っていた。
優はガラス越しに夕焼けを眺めながら、静かに思考を巡らせていた。
「いや、まだ……あ、ダメだわこれ」
その瞬間だった。
轟音が空気を裂き、地響きが寮全体を揺るがす。悲鳴のような音と共に、時計塔が崩れ落ちていく様子が、まるでスローモーションのように映った。
優の表情が、わずかに強張る。
彼女の眼差しの先には、瓦礫が降りかからんとする中、まだ誰かが取り残されている——それが、千夜であると確信した。
「いくらなんでも実力行使が過ぎない? 周囲の安全とか気にしないの?」
言葉を吐き捨てると同時に、優の中でスイッチが入った。
ためらいの一切を切り捨て、彼女はスカートの裾を押さえながら足を振り上げる。
カシャン。
硬質な音と共に、ブーツの踵から小さな鉄板が飛び出す。
それは、優特製の放電用接地板——絶え間なく溜まる電気を制御するために施された、戦闘用ギミックであった。
その瞬間、空気がバチリと弾ける。
部屋の中に立ち込める静電気の匂い。肌を刺すような感覚が一瞬、彼女の全身を駆け巡る。
優は腰のポーチに手を伸ばし、十数枚のコインを無造作に掴むと、ひと息に放った。
空中に放られたそれらの金属片が、ふわりと浮かぶ。
帯電。
そして、斥力と引力。
磁力を緻密に操作し、コインたちはまるで彼女を守る衛星のように、優の周囲を軌道上で回転し始めた。
その光景は、一瞬にして異能者の“戦闘モード”を象徴するものへと変貌する。
迷いは、ない。
優は窓枠に足をかけると、そのまま身を乗り出した。
地上までの高さ、およそ十五メートル。
常人ならば絶対に飛び降りることのない高さ。
だが、彼女は踏み切った。
風が、彼女の身体を撫でるように駆け抜けていく。
制服の裾が大きくなびき、足元が急速に迫る。
その瞬間。
衛星軌道を離れたコインが一枚、音を立てて飛翔し、地上のマンホールに命中した。
パンッという乾いた音と共に、そこに強力な磁場が発生する。
優の足は、あえてそこを踏まなかった。
あえて——踏まず、近接し、跳ね返る磁力を利用する。
電磁反発による跳躍。
反動と反発が絶妙に釣り合い、優の身体は斜め上方へと弾かれる。
浮遊、そして加速。
さらに別のコインを放ち、次の“ステップ”となる鉄板を帯電させる。
地上から見れば、それはまるで空中を駆けているようにしか見えなかった。
彼女の周囲に青白い火花が散る。
空に描かれる稲妻の軌跡。その中心に、黒髪の少女がいた。
彼女の名は早坂優。
静電気を纏い、宙を駆ける魔法使い。
夕焼けの空に、その姿は一瞬の彗星のように煌めいて——そして、消えた。
千夜のもとへと、真っ直ぐに。
◇
「紅葉さんっ!」
加賀の声が、ざわめく中庭に響いた。
走り寄る彼の顔には、普段の飄々とした表情は微塵もない。浮かんでいるのは、明らかな焦り。
決して“助けねば”という英雄然とした正義感ではない。
ただ——目の前で誰かが傷ついている、その事実に、反射的に身体が動いた。
「紅葉さん! 大丈夫ですか!? 立てますか!?」
地面に尻もちをついた少女、紅葉は、眉をしかめながら足首を押さえていた。
「あ、足が……」
震える声。転倒の際に捻ったのか、彼女の指先は腫れた足首をぎこちなく支えていた。
周囲には同じテニスウェアを着た生徒たちが何人もいるはずなのに、誰も彼女に目を向けない。
ざわつく群衆の中で、紅葉だけが取り残されていた。
加賀は膝をつき、彼女の視線と高さを合わせるようにして手を差し出す。
「俺が肩を貸します! 頑張って歩いて!」
声に迷いはなかった。手はわずかに震えていたが、それでもしっかりと彼女を支えようとする意志がこもっていた。
「……あ、ありがとう——」
紅葉が小さく頷きかけた、そのとき。
「加賀! 時計塔が! 急いで!」
千夜の叫びが、風の中で爆ぜた。
次の瞬間——夕日に黒く浮かぶ時計塔の巨影が、音もなく千夜たち三人の頭上に迫っていた。
地鳴り。叫び。空気が歪む。
瓦礫の音は、まだ耳に届かない。
だが、本能だけは理解していた。
——果たして逃げ切れるのか。
眼前に迫る“終わり”の気配に、僕は立ち尽くした。
◇
「間に合ってよ……!」
叫ぶように吐き出した言葉は、すでに風にかき消されていた。
優は走っていた。
ただひたすらに、風を裂いて、音をちぎって。
通り過ぎる街の構造物——マンホール、ガードレール、ポール、標識、電柱、鉄筋——そのすべてが、彼女の“道”を形づくる。
磁力を操り、電気を纏い、金属の街と対話しながら、彼女は中庭へ向けて疾駆する。
視線は前だけを捉え、心の中はひとつの想いで埋め尽くされていた。
(千夜……!)
そして視界に飛び込んできたのは、傾いた時計塔を背景に立ち尽くす三人の人影だった。
「想像以上の大ピンチね……!」
すでに塔は臨界を超え、もはや崩れるのを待つだけの状態だった。瓦礫の雨が始まるのは、ほんの数秒後かもしれない。
時間がない。
優は歯を食いしばり、最後の加速をかけた。
助走。跳躍。
鉄線で囲まれたコートのフェンスに向かって、指先からコインをひとつ放る。
放たれたそれは、空中で帯電し、弾けるように紫電を纏う。
パチン、と乾いた音が鳴ると同時に、
優の足が、フェンスの頂上に触れた。
そして次の瞬間——彼女の姿は、掻き消えた。
空中には、青白い火花の名残と、跳ね飛んだ金属片だけが残されていた。
フェンスのてっぺんが、ぐしゃりと歪んでいる。
少女は、疾風のように現れ、雷鳴のように消えた。
すべては、間に合わせるために。
たったひとりの、あの少年のために。
◇
網が、落下する瓦礫をわずかに受け止める。
だが、それはほんの一瞬の足止めにしかならなかった。
この高さ、この重量、この速度——救える命ではない。
「僕も手伝う!」
叫んだのは、千夜だった。
「バカ野郎、千夜は、先に……!」
加賀が怒鳴る。
「そんなワケにいくか、バカ!」
「はぁ!? 誰がバカだって!?」
「バカ加賀のことだ、大バカ加賀!」
「よく噛まずに言えたな!?」
互いに叫び合いながらも、脚は止まらない。
冗談のようなやりとりを交わしながら、それでも本気で逃げようとしていた。
加賀の顔には、笑いすら浮かんでいた。
こんな状況なのに、どこか楽しげに。死地に踏み込んでなお、笑えるその強さに、千夜の胸が少しだけ軽くなる。
——そして、思わず彼も、笑いかけた。
その瞬間。
視界の隅に、紫の閃光が走った。
電撃。
反射的に思い浮かぶ名前がある。
(優が来てる!)
振り返る。
眼前に迫るのは、崩れゆく時計塔の影。
あまりにも大きく、あまりにも速く、もはや避けられぬ死の象徴だった。
——わかってしまった。
(……あ、これで終わりか)
心臓が一度、強く鳴る。
その鼓動とともに、世界がゆっくりと流れ始めた。
時間が、伸びる。音が遠のく。
千夜の思考だけが、妙に鮮明に動いていた。
(まだ、なにもしてないのに……)
(異能にも、目覚めてないのに)
(加賀だって、やっと紅葉さんと話せたばかりで……)
(……優も、巻き込まれてしまう、僕のために——)
それだけは、だめだ。
絶対にだめだと思った。
次の瞬間、千夜の身体が勝手に動いた。
両手を頭上に突き出す。
祈るように、拒むように。もしくは全てを抱きかかえるかのごとく。
壊れゆく世界に向けて、あまりにも無力なその手が、たしかに抗おうとしていた。
眩しい光も、爆音もなかった。
だが——
指先に、何かが“浮かんだ”感覚があった。
それは、漆黒の円盤。
直径三十センチほどの、薄く、光も反射しない闇そのものの板。
そこに映るのは、歪んだ鏡のような像。
よく見れば、それは千夜自身の顔だった。
目が合う。その視線に、ぞくりと背筋が震えた。
瓦礫から身を守るには、あまりに頼りない盾。
だが。
その小さな円盤に、時計塔の瓦礫が触れた瞬間——
ガクン、と崩れた。
いや、“折れた”のだ。
優の視界に、それは紙を畳んだように映った。
衝撃が逸れ、瓦礫の軌道が逸れる。
ほんの、わずかに。
——それだけで、すべてが変わった。
(——いける!)
優の瞳に光が宿る。
「——あ、あ、あ、あ!!」
叫びながら、空を駆けた。
電磁加速。最大出力。
空気を裂きながら、一陣の矢となって突っ込む。
その勢いのまま、加賀の背中に——渾身の飛び蹴りを叩き込む。
「うごォ!?」
呻き声とともに、彼の身体が弾け飛ぶ。
その間隙を突いて、優は千夜と紅葉を両脇に抱え込むようにして掴み——
全身の慣性を殺さず、帯電したネットポストを全力で蹴り、そのまま突進した。
そして、
「ふぐぁーー!!」
先に“着地”していた加賀に、三人まとめて激突する。
大きな衝撃音が響き、四人の身体がもつれるようにコートの外へと吹き飛ばされた。
砂煙が舞い上がる。
耳鳴りが響く。
奇妙な静寂が、数秒間だけ世界を支配する。
そして数瞬後。
瓦礫が地面に激突し、爆音とともに崩れ落ちた。
その音にかき消されそうになりながらも、砂煙の向こうで、誰かが咳き込む声が、確かに聞こえた。
生きている。
確かに、まだ、ここに。
◇
夕陽が沈みかける頃、地下の一室に金色の光が差し込んでいた。
窓もないはずの空間に、それはどこか不自然な色だった。空気は、ほんのわずかに揺れている。
「……やってくれたな、アイゼンフェルト」
低く、抑えた声が室内に響いた。
言葉の主は、制服の袖をまくったままの青年。怒気を孕んだその目は、ただ真正面の少女を射抜いていた。
リーネ・シュタイン・アイゼンフェルト。
学園内でも孤高で通るその少女は、普段と変わらぬ無表情を浮かべている。だが、わずかに上がった口角だけが、彼女の感情の存在を証明していた。
「ふん。壊せと言ったのはあなたでしょう?」
淡々とした口調。しかし、そこに滲むのは挑発か、皮肉か、それともただの事実陳列か。
彼女の足元には、破砕された装置の残骸。
壁際には、焦げたケーブルと吹き飛んだパネルが散乱していた。それどころか、天井すらない。夕陽が眩しい。
——壊しすぎだ。
誰もがそう思うほどに、徹底的な破壊だった。
ただの事故では済まされない。
だが、今この場にいるのはたったふたり。外の喧騒も、学園の規律も、遠い。
ここには、いつもと少しだけ違う空気が流れていた。
硬質な沈黙が降りる。
視線と視線が交差し、言葉以上のやり取りが続く。
やがて、青年はふっと肩の力を抜いた。
彼女はただ壊したのではない。命じられたから、壊したのだ。
そこにあるのは正しさではない。ただ、従順な破壊という名の行動原理だけ。
だからこそ——怒りよりも、虚しさが胸に残った。
「……もう少し加減というものをだな……」
そう言いながら、彼は顔を背ける。
その隙に、リーネはほんの少しだけ、口元をゆがめて笑った。