第19話 サイニング・セレモニー
救護室の扉が激しく開いた。
息を荒げながら飛び込んできた千夜の声が、静まり返った室内を切り裂く。
「優! 大丈夫!?」
白い蛍光灯の下、金属の匂いが混じった空気。
簡素な医療器具の並ぶテーブルの横、椅子に座っていた優は顔を上げた。
その表情に驚きと安堵が同時に浮かぶ。
「とりあえず大丈夫みたい。千夜も怪我はない?」
その穏やかな声に、張り詰めていた胸が少し緩む。
千夜は額の汗を拭い、肩を落とした。
「僕も平気。リンさんは……」
その名を呼んで視線を動かす。
そこにいたのは、ベッドに半身を起こしてカロリーバーを頬張る少女――リンだった。
病衣の襟元から白い包帯が覗き、金の髪はいつものツインテールではなく、肩に落ちている。
「リンさん、よかった」
子供のような笑顔が千夜の顔に広がる。
その純粋な喜びに、リンはわずかに視線を逸らした。
「うるさい……」
頬を膨らませ、口いっぱいにカロリーバーを詰め込んだまま。
照れ隠しなのか、耳までほんのり赤く染まっていた。
そんな彼女を見て首を傾げつつも、千夜は優に向き直る。
「さっきの衝撃はなんだったんだろう」
艦内に響いていた警報は、いつの間にか止んでいた。
かわりに聞こえるのは、遠くで軋む金属音と、かすかな波の揺れ。
優は沈んだ目で端末を見つめ、短く答える。
「やばいのが出てきたわ。やっぱりあのときに逃げておけば……」
後半の言葉は、ほとんど息に混じって消えた。
それでも彼女の指は止まらない。拾い上げた艦橋の音声ログを操作し、映像を再生する。
ノイズ混じりの画面。閃光。
優は小さく息を呑み、二人に向き直った。
「都市国家級が現れたの。さっきの衝撃は、その一撃よ。あれで艦は航行不能になったわ」
言葉の重みが空気を変える。
リンの手が止まり、千夜の表情が凍りつく。
「それと……その近くに、加賀くんがいた」
「加賀が……? 加賀は無事なの!?」
千夜の声が裏返る。
握りしめた拳が震え、血の気が引いていく。
「わからないわ」
優の返答は冷静だった。けれど、その瞳の奥には焦りが滲んでいた。
「助けに行かないと!」
千夜が叫ぶ。
その目に宿るのは恐怖ではなく、ただひとりの友を思う決意。
だが優の声が、その熱を一瞬で断ち切った。
「無理よ。地雷原の中を突っ切るつもり?」
彼女の言葉には、知る者の冷徹さがあった。
けれど千夜は怯まない。
「優ならわかるんじゃないの!?」
縋るような声。
だが優は首を横に振った。
「単純な機械式だと見落とす可能性がある。そもそも都市国家級が現れた戦場に、素人ふたりが行ったところでどうにもならない。加賀くんを背負って敵に出会ったらどうするの?」
「………っ」
言葉を失う千夜。
拳を握り、唇を噛む。その瞳には、それでも動こうとする意志が残っていた。
そんな彼を、リンがじっと見つめていた。
やがて、静かに口を開く。
「………手伝ってもいいわよ」
優が振り向く。その瞳が一瞬にして鋭くなる。
「リン?」
リンは頬杖をついたまま、淡々と続けた。
「水無瀬には借りがふたつもある。あの狼男や都市国家級に出会わなければ、大丈夫よ。気をつけるわ」
その声は穏やかだった。だが、芯の部分には決意があった。
「リンさん、怪我は大丈夫なの?」
「ほとんどかすり傷よ。大した出血もない。行けるわ」
千夜の顔に期待の色が浮かぶ。
優は頭を抱え、深く息を吐く。
「……だとしても、軍側に確認が必要だわ。行きましょうか」
言葉と同時に、優は立ち上がった。
制服の裾がひらりと揺れる。気付けば制服を着ているのは優だけになっていた。
彼女は千夜の腕を軽く引き、扉へと向かった。
「あぁ、一応怪我人だったわね。人を呼んでおくわ」
「別に人はいらないけど……ドリンクがもっとほしいわ」
ベッドの脇には、すでに空の包装紙が山のように積まれていた。
リンは新しいカロリーバーを開け、淡々と頬張る。
優は呆れたように眉を上げた。
「その細い体のどこにそれだけ入るの……了解よ」
「お大事にね、リンさん」
千夜が笑いながら言うと、リンは手をひらひらと振った。
廊下に出ると、冷たい空気が二人を包む。
遠くからはまだ艦の軋みが響いていた。
通りすがりの兵に軽く託けをし、優は歩調を速める。
その背を追いながら、千夜は問いかけを受ける。
「ところで千夜。あの女となにか話した?」
「あの女って?」
「中佐よ。あのいけすかない女」
「え、そう? いい人だと思うけど……」
優は鼻を鳴らした。
「あれは私との相性は最悪ね。あの狸女……で、なにか話した?」
優が気づいていないだけで、それは完全な同族嫌悪だった。
彼女は他人の分析には鋭いが、自分のことになると途端に鈍くなる。
「異能の止め方について聞かれたくらいかな」
「……ふぅん。それだけ?」
「うん、それくらい」
「ならいいか」
優は短く言って歩を速めた。
つかつかと歩く背中。その姿勢はどこか機械的で、それでも頼もしさがあった。
千夜はそんな彼女の背を見つめながら、胸の奥で何かが燻っているのを感じていた。
恐怖と焦燥、そして――加賀を助けたいという想い。
その三つが、言葉にならないまま混ざり合っていく。
艦橋の扉が近づく。
扉の向こうからは、怒号と機械音が入り混じった切迫した気配。
警報は止んでも、戦いはまだ終わっていない。
◇
扉が開いた瞬間、艦橋の空気が張りつめた糸のように震えた。
警報灯が赤く瞬き、計器の光が壁を照らす。通信機の向こうから響く声は低く、重かった。
「どういうことです、閣下?」
ノーブルの声は鋼のように冷えていたが、その奥底には怒りの火が潜んでいた。
その視線の先、通信端末に映る少将の顔は苦悩を滲ませている。
『何度聞いても答えは変わらないよ。“応援は出せない”』
その言葉は、静かに、しかし絶望的な重みをもって艦橋に落ちた。
ノーブルの拳がわずかに震える。彼女の呼吸は浅く、冷気を吸うたびに肺の奥で焦げつくようだった。
「馬鹿な……都市国家級の出現ですよ? 国家そのものの危機です……!」
普段は滅多に激情を見せないノーブルが、机を叩く。
艦橋中の視線が一斉に彼女に向けられた。
『落ち着きなさい、中佐。こちらからも熱線を確認した。危機的状況なのは理解しているよ』
「であれば――!」
言葉の途中で、通信の向こうのノイズが一瞬だけ強まり、音が途切れた。
艦橋の空調音だけが不気味に響く。
その後方、様子を見守っていた千夜が小声で呟く。
「どうしたんだろう?」
優が手元の端末に目を落としながら答える。
「改めて応援要請をしたみたいね。都市国家級が出て来て、状況が大きく変わったから」
「断られてるみたいだけど……」
「信じがたいけど、そうみたいね」
ふたりの会話が細く漂う中、通信機の向こうの少将が再び口を開いた。
『これはまだ機密なのだけどね。明朝、首相官邸に賊が侵入した』
艦橋にざわめきが走る。
その場にいた全員が息を飲み、誰かが椅子を引く音だけが響いた。
『それどころか、永田町近辺が敵に封鎖されている。敵方は首相を人質に、現在も立て籠っている』
「そんな馬鹿な……軍はなにをしている……!」
怒声が響いた。橘だ。額の汗を拭う暇もなく、声が震えている。
それでも少将は淡々と続けた。
『その怒りも無理はない。こちらも立つ瀬がない。だが、どうあれ過去に類を見ない緊急事態だ。現在日本国政府は、その機能を完全に停止している』
艦橋の時間が止まったようだった。
機械音すらも遠のき、誰もがその言葉を飲み込めずにいた。
ノーブルの目が、鋭い焦点を取り戻す。
「テロリストからの声明は……?」
『そちらと同じだよ。“まだ”ない』
「“まだ”……?」
『彼らからの言葉はひとつ。“九時を待て。それまで我々に手を出すな。たとえ都市国家級が現れたとしても”』
その瞬間、誰かが息をのむ音がはっきりと聞こえた。
艦橋全体が、一斉に時計へと視線を移す。
現在時刻――八時五十一分。
残されたのは、わずか九分。
その数字の重さが、金属のように胸に沈んでいく。
『九分後に、彼らの意図がわかるだろう。……あぁ、それと』
少将の声が一段低くなる。
その声音に、ただならぬものを感じ取ったノーブルの眉がわずかに動く。
『ここまで来ては黙っている意味もないね。なので言おう。この状況は——世界各国で同時多発的に発生している』
「――なにを、言っているんですか」
ノーブルの声が震えた。
だが、通信の向こうから返る声は冷たく、現実的だった。
『わかっているだけで、アメリカ、フランス、イタリア。その他にも連絡が取れない国がいくつかある。詳細は不明だが、そのいずれもが、国家異能特別管理区域を襲われ、そのさなかに“都市国家級が出現”している』
艦橋に、凍るような沈黙が広がった。
あまりの規模に、誰も息をすることすらためらう。
千夜は無意識に喉を鳴らした。呼吸ができない。空気が重すぎる。
優は腕を組み、唇を噛む。
視線の先、モニターには世界地図が映し出され、複数の赤い警告灯が同時に点滅していた。
それぞれの赤点が意味するのは、戦場――そして崩壊。
『まったく、てんやわんやだよ。もうマスコミが嗅ぎつけて来てね、その対応とか……』
少将の声はどこか遠く、疲労と諦めが滲んでいた。
彼の背後でも怒号と足音が響いており、混乱の渦が画面越しに伝わってくる。
ノーブルは拳を握り締め、震える唇から言葉を絞り出す。
「少なくとも四カ国を同時に襲う、都市国家級を擁するテロ集団……? そんなものが、存在しうるのですか……?」
『そう。し得ない。都市国家級は厳格な管理の元に置かれる。そもそも、もうほとんど現存していないはずなんだ』
彼女の脳裏に、いくつもの情報が駆け巡る。
廃棄されたはずの兵器群。封印指定異能の記録。――そして、あの名。
「廃棄されたはずの赫宴の慟哭が出現した……ということは……」
声が震えた。自分の推測が正しければ、これは偶然などではない。
だが、少将は言葉を遮るように淡々と口を開いた。
『おっと。時間のようだ。なにはともあれ、まずは向こうの意見を聞くしかないね』
艦橋の時計の針が、わずかに音を立てて動く。
八時五十九分。
誰もが無言のまま、その瞬間を待った。
ノーブルの指先が、わずかに机を叩く。
鼓動がやけに大きく聞こえる。
通信の雑音が一瞬強まり、どこかで誰かの悲鳴のような音が混じった。
空気が冷たく、時間そのものが硬化していくような感覚。
外では風が荒れ狂い、波が船体を叩く。
だがその轟音すら、いまは遠い。
声はない。
ただ、秒針の進む音だけが世界を支配していた。
――西暦二〇××年九月八日。
この日は、世界のあり方が変わった日として、永く歴史に刻まれることになる。




