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第15話 手の鳴る方へ

「たいした速度だな……!」


 舌打ち混じりの低い声が、塩と雨で重くなった空気を裂いた。黒い雲は海面すれすれまで垂れ込め、砕けた白波が岸壁を這い上がっては引きちぎられる。

 四肢で路面を掻く音が、風音の合間にくっきりと浮く。濡れたアスファルトを鉄爪が擦り、火花が短く点った。地面を這うのは低く湿った獣の吐息。夜行被繍は、獲物との間にある空気さえ噛み砕く勢いで疾走していた。


 目の前に揺れるのは、小柄な背の影。人ひとり分の幅しかない欄干を、リンは足場として斜めに駆け、投石のように身を弾ませては、別の壁面に吸い付く。直線を避け、角度で勝負する逃走だ。建物の外壁の凹凸、風に耐えてしなるガードレール、雨に濡れた電柱――触れた瞬間に力任せに蹴り飛ばし、縦横無尽に三次元へ散る。

 その合間に、彼女は時折振り返る。肩のバネだけで砲丸を放ち、追いつけば整地ローラーを遠心力で唸らせて迎撃する。雨粒を切り裂く重い金属音が、周囲に鈍く響く。


 速度は互角。疲労に沈むはずの彼女の脚は、まだ折れない。事前情報を遥かに超える粘りと、島の隅々を知り尽くした者だけが描ける走路。狼の嗅覚と眼は、あと一歩で追いつくと告げ、同時にあと一歩が遠いと嘲る。掴めそうで掴めない、人を苛むためだけに設計されたような間合いが続く。


「やつらが苦戦するはずだ」


 瞬間、咆哮が雷鳴の皮を被って吐き出される。肺の奥で形成された圧は、声帯を焼く熱と混ざって外に溢れ、空気を叩いて波となる。普通の人間なら、その音を浴びただけで膝の腱が縮み、視野の中心が黒く沈む。恐怖は伝染する。脳が理屈を理解するより先に、筋肉が退却を選ぶ。


「すでに聴こえていないか」


 それでもリンは微塵も揺るがない。肩幅の狭い影は、ただ港へ向けて一心不乱に線を引く。音は遠く、息は荒い。だが、その荒さが彼女の動きを鈍らせない。呼気は熱いが、足取りは冷たい。機械のように、必要な力だけを最短の部位に配り続ける。


 なぜ港なのか。答えは霧の中だ。彼女の頭の奥ではことばがほどけ、意味が砂のように零れていく。そこに残っているのは、ほんの数分前に島の骨に響いた爆発音だけ。夜に似た闇の中で示された唯一の方角――それに本能が反応した。

 島を文字どおり駆け尽くした。安全地帯は見つからなかった。海へ逃げることは考えた。だがこの暴風雨では、波そのものが壁だ。呼吸は限界に近い。筋肉はまだ動く。では走る。走る理由は、それで十分だった。


 体を預けたアスファルトがその荷重に耐えきれずに大きく歪む。彼女の足跡が、またひとつ島に刻まれていく。靴はとうに壊れ、どこかへ行ってしまった。


 必死。恐怖。

 彼女にほとんど存在しなかった感覚が、初めて輪郭を伴って胸腔に出現する。足を止めれば死。足を滑らせても死。一手誤れば死。行く先に何もなければ死。背後で死が歯を鳴らし、温い唾液がうなじに落ちる気配がする。

 視界は赤黒く縁取られ、雨粒が白い線に変わる。鼓動は大太鼓だ。それでも走る。走る以外の選択肢は、存在しなかった。



 港は、地獄の蓋が丁寧に開けられ、音と光と鉄片が惜しみなく撒かれた場所になっていた。

 防衛区画の砲台と艦の機銃が互いの眉間を狙い、火花を散らす。天を切り裂く連続音は、雨粒を一瞬だけ空中で止め、火薬の匂いを脂っぽい煙に変える。鉛の線は兵士だけでなく地面をも穿ち、仕掛けられていたクレイモアが時おり我慢の限界を超えて爆ぜ、土砂と鉄をまとめて上空へ放り上げた。


 港へ口を開けていたタラップは早々に粉砕された。辛くも数個隊が上陸に成功したが、射線は縦横から降り注ぎ、物陰は壁ではなく罠になった。動けば線が通る。動かなくても線が通る。兵の表情は、泥と汗と焦燥で、どれがどれだかわからなくなるほど均一に歪んでいる。

 そこへ、風下からの回り込みで上陸した強襲部隊が参戦した。弾幕の隙間を縫い、確実な反撃を狙う。だが火力差は数式の結果のように明瞭で、押し戻される度に石が波に舐められるみたいに体力と士気が削られていった。


 諦めるには、潮の味がまだ辛すぎた。海からは新たな兵が次々と上がる。身を盾にし、砲台を一つひとつ無理やり沈黙させる。艦の主砲がゼロ距離で重低音を落とすと、防衛側の兵の目が目に見えて縮む。壁は、音を伴って現実の厚みに還元されていく。

 ブラックハウンド――歴戦の猛者を集めた一個隊も、混乱の中では一個隊でしかなかった。装備は優れている。だが、弾の数は心の数に負ける。数の暴力は、最後には筋肉より神経を折る。


 戦線は押し上がる。押しては潰れ、潰れては滲み出す。

 千夜と加賀が縄梯子を伝って港に降りたとき、砲台群はもう煙しか吐かない老躯になっていた。遠くで破裂音が続き、近くで怒号と歓声が絡み合う。戦況は、確かにこちらへ傾きを増している――そう思った瞬間、空気の膜が内側から破れるように、咆哮が湾を満たした。


「こ、この咆哮は……!」


 千夜の喉が勝手に震え、声が漏れる。胸の真ん中に見えない拳が差し込まれ、心臓を一度握り潰してから解放するような衝撃。視界の端が細くなる。足裏の感覚が少し遠のく。


「近ぇぞ!」


 加賀の顔から血の気が引き、歯を食いしばった音がかき消される。一瞬、脚の反応が遅れた。


 獣の声は、兵も学生も区別しない。港にいた者たちの動きが一様に鈍る。わずかな隙は、戦場では「永遠」に相当する。防衛棟の影から銃口がわずかに前へ伸び、その永遠を利用して火が吐かれる。前線の数名が、まるで糸の切れた人形のように膝から崩れた。

 咆哮。銃撃。倒れる音。血の匂い。

 その四つが、ひとつの和音になって耳にこびりつく。


 ノーブル中佐の叱咤が通信機から炸裂する。言葉は短い。だが、言葉より先に声の質が兵の背を立て直す。呼吸を合わせる音が増え、バラバラだった射線が再び同じ方向へ集まっていく。

 そのとき、島の中央方面から、影がひとつ飛び出した。


 影は、こちらを見て一瞬だけ足を緩める。ためらいは短く、その直後、決意は加速となって表れ、一直線に港へ。握られているのは、血の雨に濡れて鈍く光る整地ローラー。

 近づくほどに、その剣幕の異常さは増す。兵は理屈よりも先に反射で銃口を向けた。


「リンさん!?」


 千夜の声は震えていた。ボロボロに剥がれた衣服、血と泥で模様のようになった四肢、目の奥で燃える火。最初は誰だかわからなかった。だが、動きの端々に見覚えがある。千夜は確信を声に変えた。加賀が息を呑み、肩の力を一瞬抜く。


「やめろ! 友達だ!」

『撃つな! アイゼンフェルトだ!』


 加賀の叫びとノーブルの命が重なり、兵の人差し指がわずかに硬直する。だがリンの脚は止まらない。顔は怒りではなく、もっと荒い何かに歪んでいる。焦り。恐怖。守るための攻撃性。混ざり合った感情が、生々しくうごめく。


 千夜は背負っていた荷物を、ほとんど投げ捨てるように外した。身体は勝手に前へ出る。香具山の制止の声が背中に突き刺さったが、意味を結ぶ前に風へ流れた。

 海風は冷たい。汗は熱い。二つが皮膚で喧嘩をし、どちらが勝っても構わないと脚だけが答えを出す。


 ほんの数瞬遅れて、もうひとつの影が現れる。リンの走路の背後、暴風に裂けないほど密度のある闇から、異様なシルエットを纏う大柄の男が、音のない刃のようににじみ出た。


『映像解析完了! 敵性ベルサイド、夜行被繍ナイトウォーカーと断定!』


 無線の声が港を震わせる。現場の空気が壊れる音がした。誰かが悲鳴を上げ、誰かが座り込み、誰かが冷静に距離を取ろうとして足元の血で滑った。隊列は秩序の形だけを残し、実質は波のように乱れ始める。


 リンが跳ぶ。膝のバネで空を掴み、ローラーを頭上で大きく振りかぶる。狙いは、夜行被繍に銃口を向けていた兵のひとり。彼はまだ、別の死角からやってくる死に気付いていない。


 ノーブルの短い指示。艦の機銃が、雨粒より密な鉛の雨を狼男へ注ぐ。巨体はかわす。前進は一瞬止まる。弾道の余波が地面を舐め、仕掛けてあったクレイモアが限界を超える。爆風が砂と鉄をまとめて空へ持ち上げ、降り注ぐものの種類が一瞬わからなくなる。


 ブラックハウンドは構えを崩さない。銃撃は続く。だが乱視のような混沌は、確実に戦場全体の解像度を落としていく。


「リンさん、違う! この人たちは味方だ!」


 千夜は最前線へ飛び込んだ。肺は燃える。だが、声は出る。リンが振り下ろす軌道の前に、自分の身体を楯のように差し入れる。両手を前へ突き出した瞬間、指先の向こうに空気の密度が変わる感覚。

 漆黒の円盤が、雨を吸い込むように開く。ローラーがぶつかる。鈍い衝撃音。金属が押し潰される悲鳴。ローラーは大きくひしゃげ、道具からただの鉄くずに変わった。

 衝突の瞬間、空中にいる少女と目が合う。


「み……なせ……?」


 リンの目に、ようやく光が戻る。名前の欠片が、唇からこぼれる。血に濡れた睫毛がふるえ、頬がやっと人の体温を思い出す。


「そう! 僕だよリンさん! 落ち着いて!」


 千夜の声は必死で、だが真っ直ぐだ。言葉は、風にばらけながらも、確かにリンの耳に届く。

 彼女は着地の瞬間、限界を迎えた身体が悲鳴を上げ、膝が地面へ崩れた。前のめりに倒れる身体。千夜は受け止めようと腕を広げる。だが、全身の重さが一度に乗りかかり、支えきれない。二人は抱き合うように地へ倒れ、湿ったコンクリートの匂いと鉄の味が、同時に鼻と口を満たした。


 耳元でリンの息が蠢く。荒い。けれど、確かに生きている。千夜は、一瞬だけ目を閉じた。



「……ほう、これはこれは」


 研究開発棟の地下。秘匿されたエレベーターは、内蔵された油の匂いひとつ漏らさず下降を続け、やがて目に見えない床にそっと触れるように停止した。扉が開いた先には、異様に長く、うねった廊下。光は白く、温度は無機質で、音は吸い取られている。

 防火扉が幾重にも口を開け、舌を出す間もなくまた閉じていく。カードが読み取られるたび短い電子音が鳴り、空気の成分が一度リセットされるように匂いの層が変わる。

 最後の扉を越えたところで、ゴッドハックは足を止め、思わず喉の奥で笑いを漏らした。


「“祝福を奪われた魔の者たちに、ささやかな知恵と生きる術を”……か」


 学園の創立者が掲げた理念の言葉は、資料の上で目にしている。けれど、言葉がここまで物質に近づく瞬間を、人はあまり経験しない。


 地下に広がる光景は、「地下」という単語を殺す。

 緑に覆われた低地。灰色の岩肌を覗かせる丘陵。遠方の山脈は氷河を抱き、その白はただの色ではなく、触れれば音を返してきそうな密度を持つ。雪解け水は小川となって岩の間を縫い、せせらぎに変わる。水音は湿地へ溶け、土の匂いは草に吸い込まれる。静寂は、ただの「無音」ではない。空間全体が巨大な肺のように、吸って、吐いて、また吸う。


「映像か」


 ゴッドハックは、遠景とこちら側を隔てる「見えない壁」へ手を伸ばした。透明な表面は冷たく、わずかにざらつきがあり、指先に映像の縞が走る。周囲の壁面すべてが巨大なモニターで、空と山を騙り、太陽の角度まで演出しているのがわかる。

 だが足元は嘘をつかない。土は湿り、靴底が沈むたびに微かに鳴る。草花は人工物には作れない勝手さで生い茂り、花粉の気配が鼻孔の奥をくすぐる。


「寒いな」


「直径およそ五百メートル、高さ十五メートル。この空間全体が空調管理されているようです」


 同行している兵が、訓練で染みついた調子で補足する。数字が空間を枠取る。だが、枠はすぐに自然の擬態に溶ける。

 温度管理だけではない。風がある。人工の風だ。だが、人工であることを忘れさせる程度には、ここで生まれた葉擦れの音と混ざっている。鼻先をかすめるのは、水と土の匂い。獣の臭いはしない。鳥の気配もない。生命の循環から、生き物だけが丁寧に抜き取られている。


 天井を仰ぐ。中央に、直径十メートルほどの縦穴。黒く、深い。吸い込まれそうな陰。その口縁に施された耐熱と断熱の層が、ここがただの風景ではない証を与える。


「やはりここのインフラは独立していたか。あの穴の先には、この島全体の電力を賄う大型ジェネレーター。そして……彼らが」


 ゴッドハックの視線が動く。左右の対蹠点――幾何学的精度で配置された二つの小屋。廊下の終点に置かれた付箋のように、小さく、だが目的を示す形で佇む。


 それぞれの扉の前で、男女がひとりずつ跪かされている。銃口がうなじに触れ、動けば音になる距離。抵抗する様子はない。

 歳は二十歳そこそこといったところか。男は燃えるような赤髪、女は紫がかった長髪。清潔そうな白い服に身を包み、線が細く、皮膚は健康な色からわずかに外れている。寒さに震えているのではない。体温そのものが別の規格で走っている――そんな印象。目は、焦点の合わせ方がどこか違う。そして奇怪な、機械式の大きなマスクで口元を覆っている。


 彼らを囲む兵の指は、緊張で固まっている。それは決して、ここが危険だからではない。


「彼らが――大戦の遺物」


 言葉に、空気がわずかに硬くなる。遺物――過去の残滓であり、未来を変える鍵でもある。ゴッドハックは足元の草を一本摘み上げ、茎のしなやかさを確かめてから静かに指を離した。草は倒れず、まるで誰かに見られているかのようにまっすぐ立ち直った。

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