第1話 人類の敵
———そして時至り、彼らはこの世に現れたり。
火を灯す者あり、水を呼ぶ者あり、風を操る者あり。
彼らの業は地に満ち、民の暮らしを照らせり。
されど人の心、恐れを抱きて静まらず。
人々はその者らに名を与え、
曰く、「魔に近き者」なりと。
光と影を併せ持つ者ら、
その歩みは、祝福か、あるいは災厄か。
誰ぞ知るべき者あらん———
◇ ◇ ◇
【第1話 人類の敵】
蝉が鳴いている。その耳障りな鳴き声だけが、かろうじて僕を現実の側に引き留めていた。
夏休みが終わり、また教室に閉じ込められた九月の初旬。暑さの名残が残る午後、窓から入り込む風が生ぬるく頬を撫でていく。
今日の最後の授業は———小学生でも知っている、古代の詩の解説だった。
なぜ今さらこんな退屈なものを取り上げるのだろう。僕たちはもう高等部なのに。眠ってもいいという無言の許可だろうか?
抗いがたい睡魔が目の奥に沈殿していく。
必死に重くなっていく瞼を擦りながら、ふと視線を前へ向けた。
そこには、日の光を浴びて艶やかに輝く黒髪。そしてその中に、一本の鮮やかな赤———カチューシャ。それがゆっくりと船を漕いでいた。
彼女は早坂優。僕、水無瀬千夜の幼馴染であり、腐れ縁でもある。家が近所で、物心ついた頃からずっと隣にいた。そして僕たちがこの学園に移り住む原因となった、あの出来事も共有している……あまり思い出したくはない、記憶を。
視界の端で、優の頭が完全に机へと沈んだ。
撃沈。僕も意識を放棄すれば、すぐにでも後を追えるだろう。もうだめかもしれない。
蝉はまだ鳴いている。彼らが鳴くのは求愛のためだと、どこかで読んだ。
そう考えると、それは泣き声にも聞こえた。
けれど、狭い空間で彼らと遭遇した場合、泣きたいのはこちらだ。あいつらはじっと動かないくせに、パニックになると突如飛び立ってこっちに突撃してくる。プレデター的恐怖。まったく、誰がこんな生態を許可したのか。
けれど今朝、登校途中に蝉の幼虫を見つけた。地を這うその姿は一瞬カニに見えた。よく観察すると意外にも可愛らしい姿をしていたので、踏まれないよう近くの木に乗せてやった。
しかしあれは利敵行為だったかもしれない。
あの愛らしさに抗えない僕は、果たして本当に人類の味方といえるのだろうか———
「……カズヤ……千夜?」
優の声にハッと我に返る。気づけば授業は終わっていたらしい。周囲では生徒たちがぞろぞろと立ち上がり始めていた。
「…………なに?」
「授業、終わったわよ。もしかして寝てた?」
なにを失礼な。僕は意識を保っていたはずだ。そっちこそ見事に沈んでいただろう。
けれど、終業のチャイムを聞いた記憶は……。
「………人類の敵について考えてた」
言葉が咄嗟に口をついた。嘘ではない。蝉についての話だが。
「え? 私たちについて? 照れるわね」
優はいたずらっぽく微笑んだ。
反射的に、「あ、うん……」と曖昧に返してしまう。その頬には袖の痕が残る。
国家異能特別保護管理第三区域。通称『学園』。それは僕たちを守る壁であると同時に、檻でもある。
そして僕たちは、かの詩に伝わる魔に近き者、悪魔寄り《ベルサイド》……『人類の敵』である。
◇
放課後、僕は加賀輝晃という陽気な友人と廊下を歩いていた。
「やんごとなき理由のため、ついて来てくれるよな? 戦友?」と、無理やり誘われたためだ。
「だからよう、俺たちは商業区への立ち入りはおろか、部活動への参加すら制限されるわけじゃん? 同じ学生なのに、だぜ?」
加賀は熱っぽく語りかけてくる。軽やかな赤髪に健康的な肌、スポーツ万能で顔立ちも悪くない。黙ってさえいればファンもいるという噂だが、中身を知れば知るほど残念だと思う。
「うん」
僕の返事はほぼ条件反射だ。
「つまり青春を制限されてるわけだ。この二度と来ない、貴重な時間を! けど俺は規則を何度も見直した。そう、穴が開くほど見直した。結果わかったことがある……恋は! 制限されてねぇ!」
「うん……」
「そこで! 今日こそ俺は! 女子テニス部副部長、紅葉さんに話しかけるんだ……! 紅葉さんは、俺が落としたノートを拾ってくれたんだ! 笑顔で! あの笑顔で! わかるかこのすばらしさ! 彼女に異能者への偏見なんて存在しねぇ……俺は確信したね!」
「そう……」
旧東京湾に浮かぶ人工島。
僕らの箱庭。
ここには、幼稚園から大学までの教育施設がそろっていて、全寮制。
もちろん、僕らみたいな異能者だけじゃない。一般の生徒もいる。
商業区へ行けば、生活必需品から娯楽までひと通り揃う。
観光地としても開放されていて、外からの人間もよく見かける。
……怖いもの知らず、なのか。
あるいは、怖いもの見たさかもしれない。
「商業区には久々に行ったけど、相変わらずの賑わいよ。つられてこっちまで楽しくなるぜ。」
「加賀はいつでも楽しそうじゃない。」
「おいおい。なんだよそれ、まるで俺がお気楽なヤツみたいじゃねーか。」
「え、違うの?」
「……まぁ、そんなに違わねーけどよ。俺だってたまには落ち込んだりするんだぜ?」
「えー、想像つかないな」
「たとえば夜にふと、“俺って何のためにここにいるんだろ”とか考えたり……」
「それ毎日のように言ってるでしょ。“眠れねー、死にてぇ”って」
「それとこれとは違うんだ! それはな、日常的なテンプレなんだよ。もっとこう、深淵からの問いっていうかさ――」
「はいはいはい。ハイハイ深淵。」
「馬鹿にしてんな!? 俺、けっこう繊細なんだからな! この間なんか、“異能のせいで青春制限されてんじゃん”って気づいて、枕ぬらしたし!」
「うっわ……それは……まあ、ちょっとだけ同情する」
「今“ちょっとだけ”って言ったか!?」
「うん、ちゃんと聞こえてたなら何より」
「てめぇぇぇ!!」
中庭のベンチに腰を下ろし、加賀と並んで他愛のない会話を交わす。
目の前では女子テニス部がラリーの練習をしていて、背後には歴史を感じさせる時計塔がそびえ立っている。
ふと校舎の方に目を向ける。こちらを見ていた生徒と目が合った……のは一瞬。彼は一拍遅れて、慌てた様子で視線を逸らす。
「だよねぇ…。」
いかにも学園らしい、午後の光景だった。
「あ、試合始まるよ」
「あぁ……紅葉さん、今日も美しい……」
そう言った加賀の視線の先に、テニスラケットを構えた女子生徒の姿があった。
少し明るく染まった長い髪を後ろでまとめ、快活そうな笑顔を見せる彼女は、確かに視線を引く。
「なんか、紅葉さんにだけ反応違くない?」
「俺にも礼儀ってもんがあるの。」
「それ、礼儀の使い方間違ってると思うよ。」
「いやでも見てみ? あのフォーム。体幹が全くブレてない。あれ絶対努力型だぜ? 俺、そういう子、めっちゃ好きなんだよ……!」
「そっかー」
僕は曖昧な相槌を打ちながら、ラケットを握ってサーブの構えを取る紅葉さんの後ろ姿をぼんやりと見つめていた。
風が少し強くなった気がする。けれど、夏の終わりにしては、まだ陽射しが強い。
コートの白線に沿って伸びる紅葉さんの影が、少しずつ伸びていくのを眺めていた——その時だった。
ズ――ン……ッ
地の底から何かが鳴ったような、重く濁った振動が足元を揺らす。
心臓が一瞬止まった気がした。僕の中の「日常」が、唐突に音を立ててひび割れる。
ドゴォンッ!!
続いて発せられた爆発的な衝撃音が、背後から鼓膜を引き裂いた。
地響きが空気を押し潰し、肺が縮むような感覚に襲われる。
「なに? なに!?」
「なんだ!? 地震か!?」
生徒たちが一斉にざわめき出す。どこかで誰かが悲鳴を上げ、それが連鎖的に広がっていった。
脳が状況を理解する前に、耳と目と皮膚だけが先に恐怖を感じていた。
「時計塔が!」
誰かの叫び声が決定的な現実を突きつける。
僕は反射的に顔を上げた。視線の先には——
巨大な時計塔が、ありえない軋み音を立てて傾いていた。
ミシ……ミシィ……ギィィィ……!
まるで悲鳴を上げているかのような鉄骨のうねり。
十メートルは優に超える塔が、ゆっくり、しかし確実にこちらへと倒れてくる。
その巨体が動くたび、空気が悲鳴を上げる。
陽炎のように揺らめく夏の夕空が、倒壊の圧に引き裂かれていくようだった。
「まずい! 逃げないと! 加賀!」
反射的に叫んだ。加賀もすぐに動こうとしたが、次の瞬間。
「待て! 紅葉さんが!」
テニスコートに目を向けると、紅葉さんがそこにうずくまっていた。
ラケットは落ち、顔は苦痛と恐怖に引きつっている。
片足を押さえたまま、動けずにいる——どうやら足を挫いたらしい。
この状況で、彼女だけが取り残されている。
白線の内側に閉じ込められたようなその姿が、やけに脆く見えた。
「———っ!」
加賀が迷うことなく駆け出す。
その背中に僕は、何も考えずに叫んでいた。
「加賀!」
そして——僕も夢中で後を追った。