第8話 黒き暴風
トオルの精神世界
——そこは、色も音も存在しない、ただ無限に広がる漆黒の空間だった。
トオルは、意識を取り戻すと同時に、自分が現実世界から切り離された“内側”に引きずり込まれていることに気づいた。
眼前には、赤い双眸を光らせる巨影——魔神エルダークが立っていた。
「ここは……俺の中か?」
「そうだ。ようやく気づいたか、人間。いや……俺と同化しかけた“器”よ」
エルダークの声は、雷鳴のように重く響く。
その威圧感は肉体ではなく精神を直接押し潰すようで、トオルの足が自然と沈むように重くなる。
「同化……? ふざけんなよ。俺は俺だ、お前のものになんか……」
「反吐が出るな。お前が何を言おうと、この体は俺が使う。お前の感情も、記憶も、力に変えてやる」
エルダークが一歩踏み出すたびに、周囲の闇が波紋のように揺れ、足元の“地”すら消えていく。
精神世界での“優位”は、そのまま肉体の主導権を意味する。
押し負ければ、二度と戻れない。
「くそ……」
トオルは拳を握った。
この感覚は知っている。女神に召喚されたあの日から、自分の意思が世界に翻弄され続けてきた。
利用され、試され、勝手に決められてきた。
(……いい加減、俺の人生は、俺のもんだろ)
「お前の力も、経験も……利用してやるよ。だが、俺が主だ!」
エルダークの赤い双眸が、鋭く細まった。
「面白い。なら、奪い合いだ」
次の瞬間、精神世界に黒い水柱が噴き上がる。
それはエルダークの象徴たる**黒水**の原型——触れた存在を“なかったこと”にする絶対消去の闇。
トオルはそれを正面から見据え、全力で意志を叩きつけた。
互いの存在がぶつかり合い、精神空間が軋む。
どちらかが押し負ければ、即座に消滅。
「——っ、俺は……俺はまだ、やりてぇことがある!」
刹那、エルダークの圧が一瞬だけ緩む。
その瞬間を逃さず、トオルは意識の奥底から怒りと憎悪を引きずり出し、前に踏み込んだ。
「主導権は……俺が握る!」
轟音のような脈動が闇に響き、エルダークの姿が黒い霧となってトオルの背後へ吸い込まれていく。
精神世界の支配権は、トオルの手に戻った。
だが——
その勝利は、穏やかではなかった。
⸻
現実世界
精神世界でのせめぎ合いの間、現実のトオルの肉体は立ったまま動きを止めていた。
それを見逃さなかったのが、地底から現れた三大魔神のひとり——マグニートだ。
全身に煮えたぎるマグマを纏い、二メートルの岩塊のような人型の体躯が、ゆっくりと前傾姿勢をとる。
その熱は数メートル離れていても皮膚を焦がすほど。
「エルダークも、人間も俺がしとめるぜぇ!」
低く唸る声とともに、地面が裂け、マグマが滝のように溢れ出す。
「くっ」
ハジメが一歩前に出る。
その笑顔の裏に、猛獣のような殺気が宿る。
カイも横に並び、無言で構える。
二人は同時に——トオルが動けない今が最大の攻め時だと悟っていた。
「行くぞ、カイ!」
「ああ」
爆発的な踏み込み。
ハジメは腰の霊剣を抜き切りつけ、カイは拳を突き出す。
だが、マグニートはそれを正面から迎え撃った。
背中から吹き出すマグマが竜巻のように渦を巻き、二人の攻撃を無効化する。
「マグマは全てを焼き尽くし、魔力も形も奪う……無駄だ」
マグニートのスキルは、触れた魔法・物理攻撃を灼熱で分解する“究極の侵食”。
防御と攻撃が完全に一体化した、戦場そのものを支配する能力だった。
ハジメは仲間のスキル《絶対障壁》を展開し突っ込むが、マグマの熱が障壁を徐々に削る。
カイは時空剣ドラグーンを抜き、時間を裂く斬撃でマグマを退けるが、それでも次々と溢れる灼熱が押し寄せてくる。
「クソ、これじゃキリがない!」
「なら、出力を上げるしか——」
二人の攻防は熾烈を極め、地面は焼け爛れ、空気は灼熱に歪んだ。
⸻
そして——
トオルが、目を開いた。
その眼はもう、以前の彼ではなかった。
闇と炎が渦巻くような、異様な光を放っている。
「……お前ら、勝手にやりやがって」
低く、押し殺した声。
次の瞬間、トオルは片手をゆっくりとマグニートへ向けた。
その動きはまるで、既に勝負がついているとでも言いたげだった。
「来い——」
黒い奔流がマグニートを包み込む。
マグマの熱すら飲み込むそれは、厄災スキルによる強制吸収。
「——何ッ!?」
マグニートが抗う間もなく、その体は吸い込まれ、トオルの体内へと取り込まれていった。
二体の魔神を宿した瞬間、トオルの魔力は爆発的に膨張する。
空気が震え、地平線まで響くような脈動音が響いた。
「どいつもこいつも好き勝手やりやがって!もう怒った!あのクソ女神が出てくるまで暴れてやる……邪魔する奴は——ぶっ殺す」
その声には、もはや理性の欠片も感じられない。
⸻
トオルの周囲に、黒く揺らめく水滴が浮かび上がる。
それはエルダークの代名詞たる黒水——触れたものを完全消去する絶対防御。
「……これはまずいねぇ」
カイが一歩引き、ハジメが防御態勢に入る。
トオルは黒水を自在に浮遊させ、自らの周囲に多層の防御壁を形成。
あらゆる攻撃が触れた瞬間に“無”へと帰す。
その中で、彼はわずかな隙を——獲物の息遣いすらも——感知していた。
強大な魔力感知による捕捉能力は、既に人間の域を超えている。
そして、カイが呼吸を整えた一瞬——
その微細な間合いを、トオルは逃さなかった。
「——黒風」
空気が鳴き、時空すら切り裂く神速の黒い斬撃が放たれる。
それはエルダーク最強の魔術、あらゆるものを両断する暴風の刃。
カイは即座に《オールマイティ》を展開し、全身の魔力を防御に集中させた。
だが——
《オールマイティ》最大の弱点は、“適応する前に致命の一撃を受けること”。
カイはそれを補うため、魔力鍛錬と肉体強化を積み重ねてきた。
だが、黒風はその全てを上回った。
「——っ!」
刹那、カイの身体が音もなく両断される。
時空を裂くような斬撃は、肉体も魂も容赦なく引き裂いた。
絶命——。
地面に崩れ落ちるその瞬間、ハジメの笑顔が消え、戦場が静まり返った。
トオルの眼には、勝者の色ではなく——破壊を求める暴走の光が宿っていた。
(つづく)