変化
ある朝、目を覚ますと、机の上に携帯が置かれていた。
確か、寝る前は枕元に置いたはずなのに。
「……こんなこともあるか」
少し困惑したが、すぐにいつもの日常に戻った。
最近はこうした小さな違和感がよくある。
家具の配置が変わっていたり、庭の花が知らないものになっていたり、箪笥の中の服が見覚えのないものだったり。
服を着替えて台所へ行くと、嫁が料理を作っていた。
「おはよう」
と声をかけると、嫁もこちらを向いて、
「おはようございます、お義父さん」
とにこやかに返してきて、また支度に戻った。
よくできた嫁だ。うちの息子も、いい相手を見つけたもんだな。
テーブルで珈琲を飲んでいると、息子が起きてきた。
大人になっても寝癖は相変わらずだ。子どもの頃と変わらないな。
目の前に座って、ぼそっと「おはよう」と言った。
そこから少し時間が空いたが、孫が起きてこない。
嫁が心配そうに孫の部屋の方を見ている。
「わしが起こしてこようか」
そう言って部屋まで行き、孫を起こした。
いつ見ても、孫は可愛い。
ちょっと前まで赤ん坊だったのに、もう小学生か。時が過ぎるのは早いもんだな。
孫と一緒に台所に戻ると、さっきまで自分が座っていた場所に、なぜか息子が座っていた。
一瞬、戸惑った。けれど、まあいいか。
おかげで、孫の隣に座れる。
食べていると、ふと違和感に気づいた。味噌汁の味が、昨日より明らかに薄い。
昨日はもっと出汁の香りが立っていたはずだ。今日はまるで、お湯に味噌を溶かしただけのような……。
けれど、それに気づいている様子は、誰にもなかった。なぜなんだ、自分だけがこの変化に気づいているということか。
この味の変化をわざわざ言うのは、気の毒だ。わしが言えば、嫌味に聞こえるかもしれんし。
食べ終わると孫がアルバムを持ってきた。
「これ話して。」
見ると、わしが小さい頃のアルバムではないか、日焼けで茶色になり、背表紙もところどころ禿げている。
「懐かしいものを持ってきたな。どれどれ」
孫のためならなんでもできそうだ、写真についての過去の話を事細かく話した。わしの小さい頃の写真も見せた。
孫の笑顔を見ていると、何もかも報われる気がする。……今の生活が、幸せだ。
次の日――のはずだった。
しかし目を覚まし、携帯の画面に映った日付に息を呑んだ。
「……一週間、飛んでいる……?」
急いで部屋に行き新聞を見るが日付はやはりさっきと同じ。
「どうなっているんだ?」
嫁がそれを聞いて新聞を見た。
「ああ、この事件ですね。倉庫で拳銃自殺……って、うちの近くじゃなかったです?怖いですよねぇ」
そう言って、何事もなかったかのようにキッチンへと戻っていった。
なぜこの違和感に気づかないのだ。
この後、息子にも孫にも、新聞を見せた。けれど、日付のことには誰も気づかなかった。
それどころか、「いつもの日常」に戻っていく彼らの背中が、妙に遠く感じられた。
そして今日は珈琲の味も薄くなっていた。
昨日と同じようにしたのに、機会が壊れているかもしれん。
息子にコーヒーメーカーが壊れていることだけ伝えて、自室に戻った。
思えばまだ着替えていなかった。
箪笥を開けるとどれも知らない服、これらは息子の服ではないのか?
なぜここに入っているんだ?
息子の箪笥にわしのがあるかもしれん。
息子の部屋の箪笥を探すが見つからない。
すると息子が来た。
「何してるの父さん。」
息子の顔から不思議と困惑の感情が読み取れる。
このままでは、息子に妙な誤解をされかねない。
だから正直に言った。
「わしの服を探していてな……」
これを聞いた息子は何か諦めたように下を向いてからこっちに来て肩を持った。
「それなら父さんの部屋の箪笥にありますから。」
一緒に箪笥を見た。
……服が、戻っていた。
なぜだ? さっきまで、確かに無かったはずなのに。
「ある……」
これを聞いた息子は「……ね?やっぱりあったでしょ。」と言って帰っていった。
いったい、何が起こっている……?
わしだけが、何か違うところにいるのか。
午後は家族全員で買い物に行った。孫の好きなもの次々と買うため嫁から怒られてしまった。
可愛いのだから仕方がないだろう。
その途中に近隣の婆さんに出会った。
久しぶりだったから「久しぶりだね」と言うと婆さんは少し困惑の顔をしたが、すぐに世間話に入った。
息子に帰る時間だとちょっと話したとこで引き剥がされた。婆さんにも予定があるからと言われたら帰りざるをえないが、久しぶりの再会をもう少し続けたかった。
その日の夜たまたま目が覚めると、台所の方から息子夫婦が話してる声が聞こえてきた。
「今日は覚えていたわね」
「ああそうだな、この前は話した後に誰だったか聞いてきたし」
「病気は怖いわねぇ、ゆっくりでも進むんだね……」
あの婆さんは認知症か何かの病気になっているんだろう。だからあの時困惑していたのだな。
わしはちゃんと家族のことを覚えている。
あの可愛い孫の名前も、好きな食べ物も、寝言の癖だって知っている。
……忘れるわけがないじゃないか。
数日後、目覚めて台所に行くと小学生くらいの子供がいた。昨日孫が友達とお泊まり会をしたのだろう、知らない子と一緒に食卓を囲むのは、少しぎこちなかった。
少しして食卓に朝食が並べられた。しかし、食卓には四人分の食器しか並んでいない。……孫のぶんが、なかった。思わず驚いた顔をしてしまった。
嫁から「どうしました?」って聞かれてしまった。
もしかしたら孫はこの友達の家に泊まっているかもしれない。
「いや、なんでもない」
そう言いながら薄味の味噌汁を啜った。
次の日、起きると台所に知らない女が立っていた。
あの、息子には惜しいほど綺麗な嫁の姿は、そこになかった。
「……君は、誰だ?」
女は落ち着いた声で言った。
「私です、お義父さん。◯◯です」
その瞬間、背中がぞっと冷えた。
その名前を、この女が名乗ること自体が――恐ろしい。
この女は、嫁になりすまそうとしている。だが、わしはそんな言葉を信じるほど、耄碌してはいない。
ドアへ向かおうとしたが、男に捕まえられた。
そいつも息子の名を語り、息子の服を着ている。
この者たちは……息子夫婦に、何をしたのだ?
家を出ることは許されなかった。
それに、あの偽物たちの“子供の世話”まで押しつけられるなんて……わしが何をしたというんだ。
数日後、目を覚ますと、見知らぬ場所にいた。
驚きと困惑のまま、ふらつく足で家を出た。
外に広がるのは、まったく知らない街並みだった。
周りには真四角な家ばかりが並び、道は妙にまっすぐで無機質。
わしが知っていたはずの町には、生垣と瓦屋根が連なっていた――あれが現実じゃなかったというのか?
後ろから、あの男の声が響く。
今しかない。逃げなければ。
だが、すぐに肩をつかまれた。
「ほら、どこに行くの、父さん。」
父さん? ふざけるな。
「誰がお前の父さんだ」
そう吐き捨てると、男は言葉を失い、ただわしを見つめた。
男の目に映る涙は、あまりに人間的で――
「……ああ、昔のあいつも、叱られた時にこんな目をしていたような……」
そんな思いが、一瞬、脳裏をかすめたが……すぐに打ち消した。
胸の奥が、妙にざわつく。
……そこまで強く言っただろうか?
……でも、あんな奴に、父なんて呼ばれたくない。
偽物たちの家に、また連れ帰られた。
……やはり、馴染めるわけがない。
まるで他人の中にいるようなこの家で、知らない声、知らない匂い、知らない気配に囲まれて――
心が休まるはずがない。
その夜もろくに眠れず、また目を覚ました。
周りは、やはりみしらぬ場所だった。
けれど――どこかで見たことのある本が、たなにおかれていた。
日やけして茶色くなり、せびょうしもほつれていた。
何かにひかれるように手をのばすと、古いアルバムのようだった。
ページをめくると、古びたしゃしんがはさまっていた。
その中のいちまい――
わかい男が笑っているしゃしんに、目がとまった。
どれだけ見ても、思いだせない。
みおぼえがあるような、ないような。
頭のおくがざわつく。
小さくつぶやいた。
「……おまえは、だれだ?」