いまは亡き王国の箱庭の貴婦人
世界中から集められた珍しい樹木と花が咲き乱れる温室に置かれた白いテーブルでは、四十路中頃の貴婦人が紅茶を嗜んでいる。
傍らには黒いお仕着せを着た初老の使用人と思われる男が静かに控えていた。
フリルのついた水色のドレス、長い髪を結いあげずに、サイドを軽くリボンで纏めて後ろに流されただけの姿は、貴婦人の年齢の割には若々しく不釣り合いであったが、その所作は見惚れるほど美しく上品だった。
ところがカップをソーサーに置いた途端、貴婦人は頬をぷくりと膨らませて態度を急変させた。
「あー!もうやっぱり納得行かないわ!ねえ聞いてよジルベール!教育係のキュベール夫人ったらね、紅茶に砂糖を三杯も入れるなんてマナー違反だなんて言うのよ!お砂糖なんて何杯入れたって個人の自由だと思わない?」
「…………本日はキュベール夫人の授業でございましたか。夫人はマナーに厳しい事で有名でございましたね……。」
ジルベールと呼ばれた初老の男は厳格だった夫人の姿を懐かしく思い出す。
出会えば自分も事あるごとに注意を受けたものだった。
「ねえ、別に紅茶を甘くしたってマナー違反だなんて思わないんだけど、ジルベールはどう思う?」
「残念ながら私に淑女のマナーは分かりかねます。」
昔も同じ様な質問をされ
『聞く相手を間違っております。』と何度も伝えた言葉。
「もう!じゃあジルベールは何杯砂糖を入れるというの?」
「…………私は紅茶に砂糖を入れません。」
「うえっ、そんなの苦いだけじゃない。」
貴婦人はムスッと顔をしかめて唇を尖らせた。
「あーあ、納得いかないけど、我慢して一つにするしかないかしらね。」
ブツブツと文句を言う貴婦人を見つめて初老の男はしばし思い出すように考える。
「……………では…紅茶のポットにあらかじめ砂糖を入れておくのは如何でしょうか?」
「ジルベールったら天才なの!?」
沈んていた貴婦人の顔がキラキラと輝きパアッと明るい声が出た。
「あっ!………でも貴方がいない時はどうしたらいいのかしら?他の人にはそんな事頼めないわ………。」
「……そうですね。それではお嬢様が紅茶を飲まれる時は必ず私が紅茶をお入れいたしましょう。」
「本当?でもそうしたら毎日一緒にいなきゃならなくなるけどいいの?ずっと私につきっきりになってしまうわよ?」
「はい………お嬢様がお嫌でなければ。」
沈んでいたのが嘘のように笑顔がはじけて喜色を滲ませた声をあげる。
「嫌なわけ無いじゃない!やったー!私、貴方の入れてくれるお茶が一番好きよ!嘘ついちゃ駄目よ!絶対わたくしから離れては駄目よ!」
「かしこまりました。」
キャッキャッ、キャッキャッと手を叩いて大喜びする様はとても熟年のレディーの姿には見えない。
表情を表に出さない淑女教育は、どこかに飛んで行ってしまったようだ。
「ジルベールがいつも一緒にいてくれるなんて心強いわ!貴方いつもこっそり助けてくれるでしょう?
ほら、この前の隣国とのパーティーの時も、隣国の王女様が、突然我が儘を言い出して、直前で赤いドレスに変更して色が被りそうになって困った事があったでしょう?
あの時は本当にヒヤヒヤしたわ!
でも貴方が直ぐに水色のドレスを持ってきてくれたでしょう!」
『そう言えばそのような事もあったな……。』と大慌てでドレスを取りに走った事を思い出す。
王宮に保管されている大量のドレスの中からサイズの合う、彼女に似合いそうなドレスを選んだのだった。
「…あの時は時間もなく私が勝手に選んだドレスをお召し頂きまして申し訳ございませんでした。」
「ううん、すっごく助かったわ!それに貴方が選んでくれたドレス、とても素敵だったもの。王太子殿下にも『そのような色も似合うのだな』って褒められたのよ!」
貴婦人が頬を薔薇色に染めた。
「それは良うございました。」
皆に褒められて嬉しそうにしていた少女の姿を思い出し、初老の男は目を細めた。
踊りの輪の中で水色のドレスを着た少女は、クルクルと華麗に踊り微笑んでいた。
「…………でも一番嬉しかったのは、貴方がドレスを選んでくれた事…………。」
思い出に浸っていた男の耳にポロリと呟きが聞こえて動きが止まる。
先程までとは打って変わった虚ろな瞳。
ぼーっとした顔の貴婦人が、感情の抜けた声で呟く。
「本当は………貴方に褒められる事が一番嬉しかった…………。」
「………………それは。」
驚きで見開かれた初老の男の顔をしばらく見つめていた貴婦人は、ハッと我に返ってから、自分の発言に驚いたような顔をした。
「えっ?……わたくしはいま何を……!?あっ!違うのよ!!!
今のは…今のは…あ、貴方のセンスがいいから……それで…褒められたら嬉しいって意味で!!へ、変な意味じゃないからね!!!!」
自分の口から出た言葉が呑み込めず、ワタワタと動揺する貴婦人に、初老の男がスッと頭を下げて臣下の礼をとる。
「…………分かっております。お認め頂き光栄に存じます。」
男の言葉に、貴婦人はホッとした顔になり、胸を撫で下ろした。
それからキリッと姿勢を正した。
「……………………私……きっと良い王妃になるわ。」
「…………………………。」
「皆が幸せに暮らせる王国を作れるように頑張るわ!」
理想の国を瞼の裏に思い浮かべるかのように、憧憬のこもる瞳を強く強く輝かせる。
一国の王妃たらんとする覚悟が滲み出る。
敬愛してきた主人の姿。
それからほんの少しだけ不安に瞳を揺らめかせる。
「ジルベール………だからこれからも、私をずっと助けてくれる?
……ずっとそばにいてくれる…………?」
初老の男は礼をさらに深めて答えた。
「………………お望みのままに。」
貴婦人は晴れやかに笑うと、キョロキョロと周りを見回した。
「………そういえば、あの子は何処に行ったのかしら?
変ねえ、いつも私の側を離れないのに………。」
不思議そうな顔から段々とぼんやりとした表情に変わってくる。
貴婦人の瞼が少しずつ落ちてくる。
「ねえ、ジルベール……あの子を…知らない?」
「………………………。」
「ほら…いつも連れている………私の侍女………。」
「………………………。」
「私の侍女………。私の妹………。」
「………………………。」
「わ…たし…………の………。」
そこで貴婦人の瞳は何も映さないように虚ろになった。
ユラユラとわずかに頭が揺れて、瞼は完全に閉じられた。
気を失い、テーブルの上を滑るように倒れ込んだ。
「………………………………………夢の世界に戻られたか…。」
眠ってしまった貴婦人を抱きかかえ、温室の一角にあるベッドに横たわらせる。
スヤスヤと眠り続ける貴婦人の顔を、初老の男は静かに見つめた。
紅茶に砂糖を入れなくなったのは、一体いつからだっただろうか?
もう若くないからと、水色のドレスを着なくなったのは何年前だっただろうか?
「王妃様………………………。」
彼女は自分が、かつて既に王妃であった事を知らない。
幸せにしたいと願った王国が、既に滅んでしまっている事を知らない。
全てを忘却の彼方に置いてきてしまっている。
夢現から目を覚ます時、彼女は自分が最も幸せだった少女の頃に戻ってしまう。
まだ王太子妃にもなっていない、感情豊かであった頃の自分に。
『自分は………………一体この方をどうしたいのだろうか?』
王国が滅ぶ時、心の壊れた王妃を攫って逃げた。
もしかしたら、王国と共に滅ぶ方が王妃にとっては幸せだったかもしれない。
王妃の地位にいた事も、王国が滅んだことも、自分が産んだ我が子さえ、全て忘れて生きる方が、よほど辛い事なのかもしれない。
『それでもあの時あのまま殺されるのを黙って見ていることなど出来なかった。』
過去を振り返れば数え切れぬ悔恨が溢れて来る。
(あの時王を諌めていれば)
(王妃に真実を話していれば)
(侍女を逃がしていたならば)
次から次へと後悔は襲ってくる。
どれほど懺悔しようとも、二度と取り戻せぬ日々……………。
『己の全てを賭けてずっと王家にお仕えしてきた。』
敬愛する主人として、時に娘や妹のように、ずっと見守ってきた女性だった。
いつしか一人の女性としても、見つめて来た人だった。
『もしも王家ではなく彼女に忠誠を捧げていたのなら、どうなっていたのだろうか……。』
考えても仕方がない事に頭を振る。
眠る彼女の瞳から、ツーと涙が溢れて頬を伝う。
指でそれを拭い去る。
『彼女に対する感情を、いまや何と呼べばいいのだろうか。』
(悔恨、憐憫、執着、慕情、恋情………………)
様々な感情が絡み合って、ただ" 愛 " と呼ぶには複雑過ぎて、もう自分でも分からない。
それでも
『彼女を守るためならば、自分は何でもするのだろう』
かつての王宮の温室に似せて作らせたこの小さな箱庭が今の彼女の世界だ。
彼女がこの世界に留まりたいと願うなら
この身が滅びるまで共にあるだろう。
終わり
お読み頂き有り難うございました。
こちらのお話は『勇者な姉と姫様に振り回されています。』の中に入れようと思っていた話だったんですが、ちょっと暗く居た堪れなくて抜いたエピソードになります。
場合によっては消すかもしれませんので、その際はご容赦下さい。←有り難い事にご感想と評価をいただけましたことを受け、取りあえず残す事に致しました。ありがとうございました。