歪んだ船と羅針盤
櫛で撫でられるたびに、絡んだ髪の毛が一本一本自立していくような感覚がした。隙間を冷たい風が通り抜けると目覚めが来て、当然のようにあるべき形になっていく。わたしには自立のじの字もないのに。髪の毛はえらいなあ。そして髪をすいている此方はもっとえらい。なんてことを、寝ぼけた頭でぼーっと思った。
わたしの髪をすく役目が母親から此方に変わったのはいつ頃だっただろうか。
幼稚園の時はまだ親だった気がする。遊んだ記憶はあってもお世話をしてもらった覚えはない。似たようなことはあったけど。わたし作、として母親に渡した絵が実は合作だったりする。割合は二対八ぐらい。もちろん多いのが此方だ。
とりあえず、ランドセルを背負い始めたころには此方にバトンが渡されていた。その甲斐あって、わたし以上にわたしのスケジュール内容を把握しているんじゃないだろうか。やる方と勝手にやられる方、覚えているのは比較するまでもなくやる方だ。
わたしがベッドの縁に腰かけていて、此方が後ろから髪の手入れをしている。
おかしいと言えなくもない行為に慣れきっていて、若干の危機感を覚えた。櫛の動きに合わせて、そんな感覚はすぐに霧散していく。まあいいか。
危機感を維持できるような人間だったら、中学生にもなって朝の支度を幼馴染にやってもらったりはしない。その事実にもう一回心のどこかが引き締まって、緩んだ。ほら、自分らしさって言葉あるし。多様性、たようせい。なんて便利な言葉だろう。
「風音、相変わらず人形みたい」
櫛を元の場所に戻して、此方が言った。
「どうもー」
此方はこういうことをよく言ってくる。褒められるべきなのはどっちだ。
「微動だにしないところとか、特に」
「でしょ」
「ちょっとは動けって言ってるの」
今回は皮肉だったか。寝ぼけた頭にそんなものは通じない。起きていたら半分ぐらいは通じる。
此方がクローゼットから制服を持ってくると、腕を真上に掲げているわたしを無視して横に置いた。若干引き気味の顔だったような気がしなくもない。
「……赤ちゃんじゃないんだから」
「ごめんって」
「謝るぐらいだったら腕降ろしなさいよ」
ええー。心の中で此方に反抗する。体でも反抗を続ける。ちょっとして、子供の駄々と同じだってことに気が付いた。まあいいけど。子供扱いに抵抗心を覚えるフェーズはとっくに通過し終えている。
他の人たちは朝からこんな重労働よくやるなあ。もっと寝ていたいし、めんどくさいし。制服を着る、という行為の先に待ち受けている登校という概念はもはや魔王だ。剣を装備して、仲間を増やして、意思を固めて。倒すためには入念な準備が必要なわけで。もっとゆっくりしたっていいじゃん、って思ってしまうのだった。
わたしだけだと一生倒せなさそうだ。
「……今回だけだからね」
だけど、此方に介護してもらえば倒せる。
「ありがと」
いくらわたしが自立していないからって、それをわたしだけの責任にするのはお門違いだ。
此方は甘い。なんだかんだといっても、こうやって粘れば最後には甘えさせてくれる。今回だけ、が一体何回繰り返されているのかわからない。ヒモに好かれそうな子だなって、わたしがそのヒモか。
まあいいじゃん。人という字は人と人とが支えあってできているんだから。こっちの場合はトみたいな形をしているんだけど。力なく倒れる人と、それを支えるために全力を出している人。まあ下手くそだけど成り立ってはいる。
人として成り立っていないはずのわたしを、此方が無理やり成り立たせているともいえそうだった。
慣れた手つきで、いやこんなこと慣れさせちゃいけないんだろうけど、此方がパジャマのボタンを外していく。ずぼっと、角栓を抜く動画みたいに気持ちよくパジャマを引き抜いて、すかさずブラウスをわたしに着せた。
わたしが自分で着るよりも早いかもしれない。……最後に自分で着たのいつだっけ。
スカートも似た感じだ。流れ作業でリボン、ジャケットと進み、いつの間にか中学生としての正装が出来上がっていた。中身はともかく、外見は完璧。
「ほら着せたんだから早く」
急かす此方に引っ張られて嫌々立ち上がる。布団が恋しい。けど仕方ないか。せっかく此方が用意してくれたものを無駄にするわけにはいかないし。自分から動けはしないけど、引っ張られたらその通り動くぐらいはする。
部屋から出る直前にふと中を見回して、此方が渡してくれたものが多いなって思った。ペン立てに刺さっているものは大半が此方の用意してくれたもので、なんだったらペン立て自体が此方のお古だ。さっきの櫛なんかはもともと此方の私物だったはず。
使い古されたクッションは二つ並んでいるし、枕もなぜか二つ用意してある。わたし一人の部屋なのにペアの物がやけに多い。
此方の物たちが何食わぬ顔でわたしの部屋に鎮座していて、そして馴染んでいる。由々しき事態なような、そうでもないような。
……ま、わたしは別に困ってないからいいかと考えを打ち切る。深く考えたところで、わたしに正しい答えは出せない。自頭も知識も経験も、何もかもが不足している。悲しさすら出てこない程度には実感しきっていた。
階段を下りて、玄関で此方に促されて靴に両足を突っ込む。靴ひもの結び方すら覚えられないわたしに一体何ができるのか。と、流れるような此方の指捌きを見る。ヒモの才能があってよかった。今結んでもらってるのとは別のひもだけど。
此方に引っ張られてるんだから似たようなものかな。自立して動けないところも割と似ている。違うのは可愛さだけか。わたしこんなにカサついてないし。
「変なこと考えてないで行くよ。とっくに靴履けてるから」
「此方はいつから心読めるようになったんだっけ」
「風音がわかりやすいだけ。表情筋柔らかすぎるのよ」
はっ、といつの間にか緩んでいた口の端をこねくり回す。
「そういえば風音のお母さん今日も遅くなるって」
「はーい」
「今日の夕飯何がいい?」
「ええー。別になんでもいいよ」
それを言った瞬間、此方の眉間に軽ーく皺が寄った。何かを刺激してしまったらしい。
「じゃあピーマンの肉詰めにでも」
「ごめんって」
わたしの嫌いなものを勢いよく踏み抜いてきたからとりあえずで平謝りしておく。
なんでもいい、言葉は割とフワフワしてるのに実は一番面倒なやつらしい。そういえば前に此方が言っていたような気がする。わたしは作ったことどころかコンロの前に立ったことすらないからよく分からないけど。
前に料理してみたいって言ったら危ないからダメって鬼の形相で断られた。わたし中学生なのに。それにプラスでうちのコンロ電気のやつなのに。原因の普段の行いは置いておくとして。
「わかってるって。じゃあカレーでいっか」
「わーい、カレー」
「わざとらしい」
はははーって笑って、夕飯も此方頼りだなってことに気がついた。
「今度は何考えてんの」
すかさず此方に悟られる。心の読み方なんて授業あったっけ、って一瞬迷うぐらいの正確さだ。当然そんなものはない。
「なんで此方がうちの夕飯作ってるんだっけ」
「今更」
「しょうがないじゃん。今気付いたんだから」
「ふーん」
理解がワンテンポ遅れるのはいつものことなので軽く受け流された。
「風音のお母さんが仕事だから。風音に任せるわけにはいかないし」
任されるのが当然とでも言いたげな様子だった。今までのことを考えると、それが物事の流れってやつなんだろう。わたしのお世話を続けていた実績を考えると当然だ。にしたって、同級生がご飯を用意してるのはどうなんだって気もした。常識が欠けてはいないだろうか。
そこまで考えて、一番常識から外れているのは原因となっているわたしだってことに気が付いた。自立心も自立能力も持ち合わせていないし。改善する気がないのが一番終わってる。
わたしが今の体たらくになったのは、なんもかんも此方が悪い。というのは冗談。原因のひとつではあるだろうけど。
わたしがダメすぎるにしても、親は親で託し過ぎだし、此方は此方で託され過ぎなんじゃないだろうか。
というか、うちの親だいぶ適当だから、ここまでわたしがダメダメだってことに気付いていないのかもしれない。少なくとも制服ぐらいは自分で着ていると思っているはずだ。
要するに、此方やり過ぎなんじゃない? ってこと。
甘やかされておいてそんなことを思う資格ないのかもしれないけど、常識的にはきっとそうだ。朝ご飯、歯磨き、着替え、何一つやってないのはいかがなものかと自分でも思う。抜け出そうとは思わないけど。
此方にはずっとわたしのお世話をしてほしい。此方のおかげでわたしは正道の端でギリギリ踏ん張れているわけだから。此方がいなくなったら一瞬で人生の奈落にドロップアウトだ。だけど、やる気を出そうにも、そもそものエンジンの吹かし方がわからない。
誰かに引っ張ってもらえないと生きていけないし、わたしを引っ張る物好きも此方ぐらいしかいない。生殺与奪の権はとっくに譲渡してしまっている。
「まあウィンウィンってやつ」
わかりやすくするために付け加えたのかもしれないけど、今の一言で余計に頭上のはてなが巨大化した。重さに耐えられなくなって首が勝手に下を向く。
「此方料理好きだっけ」
「いや、普通ぐらいだけど」
俯いてまで必死に考えた結果は気持ちいいぐらいの空振りだった。アウトにはならないので別に落ち込んだりはしない。
「ふーん」
じゃあどこで勝ってるんだろう。料理じゃないなら……わたしの世話か。そうだとすればなんかめちゃいい感じに推理がつながる。此方が変な奴なのは知ってるし。朝っぱらから世話をするなんて物好き以外の何物でもない。
冬の残った寒さの中で、此方がわたしの少し前を歩いている。
「此方ってわたしの世話好きでしょ」
「正解。嫌いだったらとっくに見捨ててる」
「だよね」
今浮かんでいる色々をまとめようと、必死に足りない頭を回す。準備運動みたいに、上下の唇が意味もなくくっついては離れている。
「なんで?」
なんで好きなの? とか。世話焼き過ぎじゃない? とか。言葉にまとめきれなかった色々な意味が、上がった語尾には含まれていた。
此方はそういうのを全部汲み取れているんだろう。
わたしが費やしたのと同じぐらいの時間を使って、此方は。
「えっと、そういうものだから?」
わたしみたいな、薄っぺらい言葉で中身の詰まった返事をした。
「幼稚園の時から風音何もできなかったでしょ」
此方がわたしのほうを向きながら目を閉じた。まぶたの裏には、きっと思い出が映し出されている。
「走るとこけるし、誰かと遊ぶのも苦手。食べ物の好き嫌いも多い。生きていくのが下手そうな子だなって、子供ながらに思ったわけ。それは今も同じ」
此方のピントが記憶から現実に戻ってきた。わたしの手が二つの手で包むように握られる。
「そんなの、わたしが守ってあげないとでしょ」
お地蔵さまみたいなやさしい笑顔だった。わたしに向けて偏ってはいなくて、全方位に広く振り撒かれている。ちょっとだけ、目を背けたくなった。
「此方、もしさ」
聞きたくない。けど、聞かないとわからない。
「わたし以外に何もできない子がいたら、その子の世話もしてあげる?」
此方は即答しない。悩みの表れか、此方の目線がぐにゃりとわたしから動く。
「どうなんだろう。今は風音で手いっぱいだから」
わたしだけ、とも言ってくれなかった。……わかってたけど。何年も、お世話され続けているわけだし。どんなに馬鹿でも、頭の良し悪しを埋めたてられるぐらいの時間があった。
此方の根本にあるのは庇護欲だ。わたしへの好意もありはするんだろうけど、それはあくまで部分。この関係の中で生まれたものであって、此方がわたしの世話をしている本当の理由にはなりえない。
庇護欲の上に幼馴染の関係や長い付き合いというコーティングを施して、今の状況になっている。胸の奥が、なんだかチクチクする。気持ち悪いけど、吐き出せるところにそれはない。
此方にはダメな才能が備わっているんだと思う。欠点なのはわたしと同じで、方向性は真反対なもの。他人に尽くしてしまえる才能。
ねえ此方。守るのはわたしもだよ?
「じゃあ、わたしはずっとこのままでいないとね」
「ちょっとは自分でやろうって気起きないわけ?」
呆れて目を細める此方に、言い返す。
「だって自立しちゃうと──」
此方がわたし以外のところに行っちゃうから。
わたしはまだマシな方だと思ってる。何から何まで代わりにやってもらうだけ。生活に必要なこと以上を求めたりしないし、此方をストレスのはけ口にすることは絶対にない。
世の中にはおかしな人間が一定数紛れ込んでいる。此方はそういう人種に引っかかりやすい人間だ。距離感を見誤って近づきすぎて、尽くし過ぎる。それこそ、吸い尽くせてしまえそうなぐらいに。
此方の何が何でも支えようとする献身具合は、わたしが一番知っている。わたしのことを一番理解しているのが此方なように。
此方が変な奴に引っかからないためにわたしが席を取っておかなくちゃ。
此方が離れて行かないように、ずっと絡みついておかなくちゃ。
「ね?」
何秒間か、面白いぐらいに此方が固まっていた。
「ね、じゃないけど」
「ね。だよ。感謝されてもいいぐらい」
「される筋合いは合ってもする筋合いはないんですけど」
大きなため息をついて、新しい空気を勢いよく吸い込んで。
「いいわ。そこまで言うならわたしが世話してあげる」
「いつまで?」
「最後まで」
「ありがと、此方」
そして、どういたしまして。なんてね。
此方に与えてあげられる唯一の役割に、心の中でそっと大きく胸を張る。