小説の感想に対する返信では割と書き捨て常套、吐き捨て常套の、まるで例えるなら即物的な...のようになって書いてしまうノリというか、その場の勢いやテンション、自己心理の分析について
件について、問題である、ので。
書いているのが楽しいだけで、書いている自分すら一生見直すことがないだろう小説を書く、わけではないが。
このような。
小説にもらった感想に対する返信を書く動機について。
たぶん見てもらっていない反動が関係して、複雑に関与しているなんじゃないかと思う、件について、話したい、ただそれだけ、なのです。
自分がまず思うのは、人から、それも沢山の人から見てもらう、というのは、凄まじく素晴らしい好影響力ということ。
経験としては、自分の書いている、トンデモない小説があるのだが。
アレで経験したのだが。
まず、あの小説で少し前に、異様にアクセスが伸びた時期があった。
グーグルのSEOの関係でバグってバズったのか知らないが、原因は多分ずっと不明、これだっ!てのは分からないが。
とにもかく。
アレによって、得た、気づきがあった。
人から、それも沢山の人に見られるというのは、確かに絶対にいい影響が、人生を真にポジティブに建設的に、うまく動かすのに最適な、そういう影響、屈指の強制力を得られる、自分に与えられる、ということ。
それは逆に考えれば、他人にも良い影響を、うまくやれば自分が与えられるという事で。
もちろん自分というのは一人で、アクセスカウント1にしかならないので、アレなのだが。
それを100でも1000のようにでも、見せるトリックでも、ないか?とかも、偶には考える。
さらに言えば、こういうのは刺激でもあり、劇薬、ストレスでもあり、扱いには注意が必要だろう。
強い刺激を、何でもかんでも原動力に変えられる、成熟というか?気質の人間には幾らでも投入するべき、投与すべき劇薬だが。
人によっては駄目になる、同接1万以上のVtuberやら配信者が調子を悪くするような話みたいなもんか、あれはあれで別に理由があるとか思うのだが、とりあえずまあぁ~ー。
つーか、さっさとAIや生成AIで、生放送に自動でコメントをするようなノリで。
こういうネット小説投稿サイトでも、そういう人が見てるのと変わらない、そういう屈指の”好影響力”が、皆が当たり前に受けられるような、享受できるような。
素晴らしいテクノロジーが実現化、実用化されないかと、まあ願うのだが、それは閑話休題、話したい話しが脱線すぎるか、とにもかく話を戻すが、、、どこからだ?
とりま俺は片親で、その片親も義理で、元の父親はDVで、母親の方が逃げ出して、子連れで逃げて、その母親もガンで若く死んだ、俺は中学生くらい。
弟もいたんだが、不良になって今頃は湾の下に沈んでそう、若い頃からタバコに闇バイトで、高級ギターの窃盗団に所属しパクられ、義理の親父に絶縁された。
俺は義理の親父とは微妙な中で、出来損ないなので義理の親父の家族とも二十歳を過ぎたあたりで疎遠にされて、いないものとして扱われている、ギリギリ厄介者ではないくらいだな。
さて俺の状況説明もほどほどに、思うのは。
親がいない、本来なら親がいれば、こういう見てもらっている、好影響力が、もっとデフォであったのではないか?
ということ。
つまり、悔しいということ。
で、そこから発想を飛躍させると、これは貴重な代償効果として、考えようによっては、上手く使えるのではないか?ということ。
不幸はマイナスなだけでなく、上手く使えば、創作などに役立つ昇華、などになり、代償効果によって捗る。
例えばピカソとか?よく覚えてないが、失恋により素晴らしい創作を生み出した的なモノがあっただろう。
俺も親無しに近く、つまり誰にも見てもらっていない、逆に考えれば、まだまだ伸びしろが断然あるとも考えられる、解釈できる。。
そのような鬱屈、まるで失恋のような孤独感、代償感を、もっとうまく働かせて。
このような鬱屈した、悪口を吐きすて、書き捨てるだけの、本当に、鬱屈してるような感じに、捗らない感じにはしたくないのだ、ということ。
もっともっと、上手く考えれば、そんな2000人の人間に見てもらって、アクセス解析を回してもらわなくても。
第一話からの、面倒な感じの、真に成長できるような、真により良い作品を生み出すのに、最短ルートっぽい。
自分は改稿し、量でなく、質を追求するような、改稿して、完成度を高めるような小説の作り方が、とりあえず自分の執筆の能力、その限界値をあげるような事に、大きく貢献するんじゃないかと思った、ということ。
まあとりま、だ。
アクセスで毎日数千とか二千とか、意味がわからないのだが。
とりま、私が、俺がやった事は、1話からの改稿である。
そもそも、の話し、読者を本当につなぎ留めたい、引き留めたいなら、もっと早くから、これをこそ、やるべきである。
つまり、心の底では、どうでも良かったのだ、そうだろう?私よ、オレよ?
どうでもいいから、一話から改稿を重ねて、真に完成度を上げる事もしなかったわけで、それも8年以上も。
それは、アクセスが増えて、そのような改稿作業を重ねた事から、明瞭に分かるというモノだ。
最初から、書き捨て常套、吐き捨て常套の、まるで例えるなら悪口のようになって、書いていたわけだ。
こんなのは、世の中に対するヘイトスピーチであり、恨みや憎悪を吐き散らし、世の中なんてメチャクチャになってしまえ。
という、そのような、このようなモノが、基底のモチベーションに含まれていても、まったく驚くに値しない奴だ。
もちろん、それだけじゃないのかもしれないが、一部にあるのは否定できない事実だろうと、自分に対して自分で思う、感じ。
書籍化してから、改稿する、とか割と良くある、目にするような気がするのだが。
改稿というのは、それだけ辛く、だるいんだと思うが。
それでもやるということは、つまりはそういうこと、大きく辛いけど、生みの苦しみから、凄まじく得られるモノがあり、生み出せる小説の真の質やら限界値強度、なんやらを上げるという事だと、そう思った、そう思っている。
つまり、逆に言えば。
2000人の読者が見ていた時に、やっていたような事を、0人の読者しか見ていない時でも。
どんなに面倒で辛く、モチベが湧かない時でも、無理やり強制的に、血反吐はきながらでも、自分を叱咤激励、鞭で引っ叩きながらでも、叱咤激励、鼓舞激励、何でもやって、真にやってれば、自然と良い方向に行くんじゃないかと思った。
つまり、モチベの高い時にやってた、本当に向き合うべき事をするべきであり。
低きに流れるような、悪口のように吐き捨て常套、書き捨て常套の、楽な執筆ではなく。
真に尊い、質を追求するような小説を書きたくなってきたとか、そういう発想に今は行っているんだろうな、と思った、客観的に俺のを分析しまくっていると、そういう事を言いたいし、やりたいんだと思う。