第十三章 06 お仕置きされる
セレーネの嗚咽だけが場に落ちるなか、女神シンシアは温度のない声音で続ける。
『セレーネ、それでも言わなければなりません。女神が人間の生死に関わることは掟で禁じられています。ですが、レオネル自身の力を使うことは許されるでしょう』
「……?」
『これをレオネルの体へ』
女神の空間がひらき、聖杯があらわれた。宙に浮いたそれはレオネルの魂で作ったものだ。聖杯を手にしたセレーネは、レオネルの体にそっと近づける。体に触れると同時に光輝き、聖杯は光の珠となってレオネルを包んだ。
まばゆい光に閉じていた目をあけると、レオネルの胸に穴がない。きれいに塞がっているどころか、何もなかったかのように消えている。ただ破れた服と飛び散った血液だけが、起きた出来事を物語っていた。
「レオ……、レオネル? お願い、目をあけて……」
か細い声だったが届いたようだ。長い睫毛がふるりと揺れて、金緑の瞳がセレーネを映し出す。大きな手がセレーネの頬に添えられ、とめどなく流れる涙を優しく拭った。
「セレーネ、会いたかった。愛してる」
「うっ……ううっ、わたくしも愛しているわ。だけど、わたくしを置いて死んだら、絶対に許さないから! もう、次はないのよ?」
「ああ、もう泣かさないと約束する。ありがとう、セレーネ」
身を起こして抱き合うふたりを見てやっと、ラルフは詰めていた息を吐き出す。
しかし、それを良しとしない者がいた。リリアを近衛に運ばせ、王妃が声を張り上げる。
「衛兵!! すぐにカストル伯爵を捕らえなさい! 聖杯の窃盗犯よ!!」
セレーネは愕然として目を見ひらいた。
「なっ⁉ 王妃陛下、レオネルは陛下をお守りして――」
「ハッ、笑わせないで。王妃を守るのは当然のこと。わたくしの盾になってそのまま死んでいれば、不名誉は被らなくてすんだものを」
王妃は扇子を広げ、上品とはほど遠い、歪んだ笑みを隠す。
「そこの女狐は地下牢へ。カストル伯爵は……まぁ、貴族牢でもいいわ」
エロイーズの魔法から解放され、正気に戻った近衛騎士たちが動き出す。気絶したロザリンはブレイズとラルフで運んでいった。
レオネルも大人しく従ったが、セレーネのほうはもう限界だった。たった今、愛する人を目の前で失いかけたのに、体のぬくもりがまた離れていく。
連れて行こうとする近衛から、レオネルの腕を奪い返した。
「イヤ……、もう嫌よ!! 離れたくな――」
最後まで言えなかったのは、強く強く抱きしめられたから。
「セレーネ、――――。愛してる」
「何をしているの⁉ 早く連れて行きなさい!!」
被せ気味に王妃のヒステリックな声が響く。それでも耳元でささやかれたレオネルの声は、しっかりとセレーネに伝わった。
「……わたくしも、愛しているわ」
最後に優しくセレーネの涙を拭い、レオネルは近衛とともに立ち去った。
手のぬくもりに浸る間もなく、王妃が現実に引き戻す。
「セレーネ、あなたにはお仕置きが必要ね」
冷たく言い放ち、エミリーに目配せをした。頷いたエミリーは「こちらへ」と短く告げ、セレーネに背を向けて歩き出す。
行けばろくでもないことになるのはわかっているが、王妃のそばにいるよりはマシだった。扇子に添えた指の本数分、手が出てしまいそうだから。
エミリーのあとについて到着したのは王太子妃の私室だった。婚姻誓約書を書いてすぐこちらに移動させられたので、なんということもない。与えられた自室に戻って来ただけだ。
(そういえば、あの誓約書……ロザリン様が破いたわね。無効なんじゃ……)
などと指摘すればまた書かされるだけ。黙っておくのが賢明だろう。
ドレスを脱がされたセレーネは、女官に取り囲まれて風呂へ放り込まれた。いつになく丁寧に磨き上げられ、軽い寝化粧に、薄く扇情的な夜着を着せられていく。
(まさか……まさかね? だって、結婚前よ?)
それにアーサーはロザリンにぞっこんなのだ。セレーネに手を出すことは――と考えて、以前セレーネとロザリンを一緒くたに抱きしめたことを思い出す。
(ムダに包容力があることを忘れていたわ!)
頭の中で叫んでいるうちに寝室へ閉じ込められた。王太子の部屋とつながるドアが開放され、ご丁寧にも施錠できない魔法がかかっている。これは本気だ。既成事実を作らせるつもりだろう。
(くっ、何がハードモードよ⁉ こんなのインポッシブルモードじゃないの!!)
転移魔法で逃げることは可能だ。しかし、逃げればレオネルや祖父の身が危ない。
せめて服を、と見まわせば、ベッドと揃いのフットベンチにガウンが置いてあった。ないよりはマシだ。とりあえず羽織ってベンチに腰かける。
今のセレーネにできることはアーサーを説得し、無事に朝を迎えることだけ。だが、アーサーを説得できたとしても、あの王妃は騙せないだろう。影に魔術師をひそませて、情事を監視させるくらいのことはやりかねない。想像しただけでゾッとする。
(何か、逃げ道はないの? 王妃陛下の機嫌を損ねればレオネルたちが……)
考えることを放棄したら負ける。日が暮れるまでずっと、セレーネは頭をひねり続けた。
***
少しうとうとしてしまったようだ。目を擦りながら身を起こせば、いつの間にか、ベッドの中にいるではないか。呆然としていると、隣から低い男の声が聞こえた。
「う、う~ん……」
「――ひっ⁉」
部屋の中は真っ暗だ。急いで反対側へ逃げると、すぐに手が空を切った。そのまま前のめりに転げ落ちる。どうやらベッドの端にいたようだ。床に厚手の絨毯が敷いてあって助かった。
「いたた」と腕をさすっていると、後ろからまたも男の声が――耳元でささやく。
「起きたのか」
「ひぃっ⁉ その声は……アーサー殿下?」
「ふぁぁ……、そうだぞ。今日はこっちで寝ろと押し込められた」
「……、はっ!!」
セレーネは慌てて夜着を確認した。
ガウンは羽織ったままだし、特に違和感もない。
「あのな、私を誰だと思っている? その辺のケダモノと一緒にするな。同意なく手を出したりはしない」
腐っても王子ということか。セレーネはホッと胸をなで下ろす。
ところが、振り返りざまに見たアーサーは、獲物を見るような目をしてニヤリと口の端を上げた。
「それで、どうする?」
「ど、どうする……とは?」
「同意の上でなら、吝かではないが」
セレーネの肌が総毛立つ。猫の姿であれば、山なりの逆毛を立てていることだろう。
「ご、ご冗談を! 殿下にはロザリン様がいらっしゃるでしょう⁉」
「もちろんロザリンが一番だ。しかし、私はそなたも気に入っている。美人の無表情は空おそろしいが、表情をくるくる変えるそなたは愛らしい」
毛穴という毛穴から変な汗が噴き出す。セレーネはジリジリと下がり、丸い絨毯の外へ尻をついた。ベッドから起き上がったアーサーは表情を消して、大股でセレーネに近づいて来る。焦燥に身が強ばる。それでもなんとか逃げようと後ずさる。だがアーサーは、容赦なくセレーネの両腕を引っ張り上げた。
「い、嫌っ!」
「セレーネ……」
「やめ……、離して!!」
「――おわっ⁉」
思わず放った蹴りは、残念ながら空振りに終わった。モヤシだと思っていたが、なかなかの運動神経だ。
「こ、こらセレーネ、人の話を聞け! 大理石の床は体を冷やす。何もしないからベッドに座れ」
「……は? 殿下がわたくしを気遣うだなんて」
セレーネは思わず窓の外を窺った。雲間からのぞく月が笑っている。
「おい、天候を確認するな。槍など降らん」
たしかに失礼だったかもしれないと、セレーネは気まずげに咳払いする。ベッドへ戻るついでに、ナイトテーブルのランプに灯りをつけた。
「冷えが女性の大敵だとよくご存じですわね?」
「まぁ……な、先のことを考えて勉強したのだ」
「先のこと、ですか?」
「ふぁあぁ……眠いな」
アーサーはまたベッドに横になり、セレーネはベッドの縁に腰かける。
このまま寝てもらい、何ごともなく過ごせるとありがたい。が、この状況はどうにも腑に落ちなかった。アーサーなら囚われたロザリンのところへ飛んでいくはずだ。
「ところで殿下、ロザリン様を放っておいてよろしいのですか?」
「気分がすぐれないと、女官に追い返された。会いたかったのに。おかげで疲れが取れない」
ロザリンを投獄したことは、アーサーには内緒のようだ。ふたりきりにしておいて、セレーネが何も話さないと思っているのだろうか。それとも話すことは想定内か。
王妃がロザリンをどうする気なのかは予測がつかない。ただ、近衛に命令したとき『殺してもかまわない』と言っていたことは気がかりだ。ロザリンのことを話す前に、セレーネは魔力を闇に溶け込ませる。
室内の影にひそむこの気配は――
「――ちょっと⁉ 子どもになんてことさせるのよ⁉」
「な、なんだ? どうしたセレーネ?」
影にもぐっていたのはカルロだった。もし、アーサーがケダモノだったらどうする。十歳の少年に負わせていい役目じゃない。それに子どもは寝る時間だ。
「カルロ! 出てきなさい!!」
ベッドの影からぬらりと這い出たカルロを見てアーサーはおどろき、セレーネの後ろに隠れた。
「何者だ⁉」
「殿下……、締まらないですわね」
「わ、わきまえているだけだ。セレーネのほうが強い」
それには同意するが、人を盾にしてなんとも思わないところは王妃にそっくりだ。
あくびをかみ殺したカルロは、気だるげに口をひらく。
「……なに?」
「なに? ではありません! こんな時間まで起きていると、背が伸びないわよ⁉」
「えっ⁉」
身長のことは気にしていたらしい。驚愕の表情を浮かべたかと思うと、急にしょんぼりしてしまった。相手が子どもだとわかってアーサーが近づく。
「鋼色の髪……、そなたがカルロか」
「……お初にお目にかかります」
カルロは棒読みで口上を述べる。それに腹を立てるでもなく、アーサーは首を横に振った。
「いや、初めてではない。覚えてないだろうが、そなたが二歳のころ、コーネリアスと一緒にこっそり会いに行った」
「え……?」
「そのあと乳母に見つかって、そなたはどこかへ隠されてしまったが」
セレーネの知るカルロはいつも影の中にいた。太陽の下で見たことは一度もない。
懐かしむような目でアーサーがカルロを見つめる。
「……色が白いな。睡眠もそうだが、日の光に当たることも大事だぞ?」
「うっ、うるさ……、う~~~」
さすがに王太子に向かって悪態はつけなかったか。色白な顔をピンク色に染めて、フードを目深に被ってしまった。




