第十三章 05 死者に効かない魔法
レオネルが名前を書きかけたとき、芝生を軽やかに走り、騎士を押しのける人影があらわれた。
「いた!! セレーネ様ぁ!」
「い、いけません! お待ちください!」
無の境地に至っていたセレーネは現実に引き戻された。近衛騎士をものともせず、コーラルピンクの髪をふんわりと揺らしたロザリンがやって来る。その顔は頬がふくらんで、リスのようだ。
(口に何か入っているのかしら?)
ロザリンの口もとを凝視していると、セレーネの顔前に書状を突きつけられた。
「これはなんですか⁉ セレーネ様は、ロザリンとアーサー様の仲を取り持ってくれるんでしょう?」
応援したいとは思っているが、仲を取り持つなどと言った覚えはない。いやそんなことより、ロザリンが手にしている書状は、セレーネがサインした婚姻誓約書ではないか。
ロザリンは何か食べていたのではなく、怒っていたようだ。それにしてもよくふくらんでいる。クッキーをどれくらい詰め込めるだろうか。
セレーネが容量を計算しているうちに、業を煮やしたロザリンが凶行に走った。
「こんなものはっ! こうしちゃうんですからねっ!」
目の前でビリビリと紙を破き、重ねすぎて破れなくなり、もがきはじめた。遅れてやって来た護衛のブレイズが、ロザリンの後ろでオロオロしている。
もうどこから突っ込めばいいのかわからない。それは王妃たちも同じだったようで、あっけに取られたまま固まっている。
(誰がこの場を収拾するの? わたくしは知らないわよ)
セレーネの観察するような視線を受け、王妃が我に返った。
「衛兵!! その女を捕らえなさい!」
女性相手に遠慮していた近衛騎士たちだが、王妃の命令ならばとロザリンの腕をつかむ。それをブレイズが「自分が連れて行く」と言って止めに入る。
嫌がるロザリンを数人がかりで引きずっていくさまは、見ていて気持ちのいいものではない。セレーネが目を背けたときだった。
『――ロザリン、代わって!』
頭に響くようなその声は、ロザリンのほうから聞こえた気がする。セレーネのほかに気づいたのはレオネルだけだ。王妃とリリアは見向きもしていない。
王妃が書類に手を差し向けた。
「邪魔が入ったわね。さぁ、カストル卿、続きを――」
「あなたカストルっていうの? アタシの好みだわ」
いつの間にか戻って来たロザリンが、至近距離でレオネルを見つめる。
王妃の顔は驚愕に歪んだ。
「なっ⁉ 衛兵! 何をやっているの⁉ 早く捕まえなさい!!」
「「はっ!!」」
あらたにロザリンをつかもうとした近衛騎士は、振り向きざまにロザリンの投げキッスを受けて固まった。受けた騎士の頬は赤く、口もとはだらしなく緩んでいく。
さらにロザリンは唇に指をあて、あざとく首をかしげる。
「アタシを捕まえるの?」
「「うっ」」
近衛たちは呻いたまま固まった。その後ろではブレイズやほかの近衛たちも、だらしない表情で立ち尽くす。
手を出せないでいる近衛たちをクスリと笑い、ロザリンはテーブルの書状に目を止めた。
「あはっ! ここにもいらない紙があるわ」
その紙――婚姻誓約書をロザリンが取り上げる。唇を当てた手からコーラルピンクの炎があらわれ、跡形もなく書状を焼いた。
ふたたび唖然となった周囲を置き去りにして、ロザリンは妙なことを口走る。
「これでカストルはアタシの……え? 違うの? ……レオネル? どっちでもいいじゃない」
ロザリンはひとり自問自答を始めた。まるでレオネルと怜央がセッションしていたときのようだ。
ずっと押し黙っていたレオネルは立ち上がり、ロザリンの前に進み出る。腕にまとわりついていたリリアも、離れることなく横に侍った。こんなワケのわからない状況なのに、リリアもいい度胸をしている。セレーネの扇子に添えられた指が二本に増えた。
「君は誰だ? ロザリン嬢じゃないな」
「ふふん。アタシはエロイーズ、愛の女神よ!」
ドヤ顔で言い放ったが、エロイーズなんて女神は周知されていない。微妙な空気が流れるなか、レオネルは思い出したかのようにひとりごちる。
「――あ、ロマティカが言っていた、あのエロイーズか!」
「むぅ。ロマティカの名前は聞きたくないわ! それよりレオネル、アタシと遊びましょう?」
ロザリンあらため、エロイーズが投げキッスを飛ばす。ピンク色の光がレオネルを包んだ。エロイーズは手を伸ばし、レオネルが取るのを待つ。その手を掬い上げたのは、レオネルの――隣にいたリリアだった。
エロイーズはおどろき、手を払いのける。
「はぁ⁉ どうして女のほうが……、アンタまさか! 同性が好きなの⁉」
のぼせたような表情のリリアが、エロイーズとレオネルのあいだで揺れる。
「はあぁぁ。どうしましょう? エロイーズ様とレオネル様、どっちかなんて、選べないわぁ」
「……どっちもいけるのね」
思わず腰を引いたエロイーズだったが、すぐさまリリアを押しのけてレオネルに手を伸ばす。
「さぁ、レオネル。アタシのことが好きでしょう?」
ピクリと眉を動かしたセレーネは、扇子に三本目の指を添えようとして、次の言葉にすべての指を下ろした。
「僕が愛しているのは、セレーネだけだ!」
気迫のこもった声音に、セレーネの鼓動が高まる。本当はずっと声が聞きたかった。会いたくてたまらなかった。誰よりもそばにいたかった。
ひどく心を揺さぶられ、セレーネは椅子から立ち上がろうとする――が、それよりも早く王妃が動いた。扇子でレオネルの横面を引っぱたく。
「口を慎みなさい!! セレーネは次期王妃よ! あなたにはそこの女狐がお似合いだわ!」
「――なんですって? このアタシに向かって……人間ごときが!!」
エロイーズの顔が怒気色に染まる。唇に触れた手からコーラルピンクの熱線が放たれた。ロマティカほどの力ではないが、人ひとり殺すことなどたやすいだろう。熱線が王妃に向かう。
セレーネは今度こそ立ち上がり、黒扇子を広げたが間に合わない。まずいと思った瞬間、王妃を押しのける人影が走った。
「――ぐっ!!」
「きゃあぁぁぁ――!!」
悲鳴をあげたのはリリアだ。人間の胸に穴があくさまを、間近で見てしまい気を失う。倒れゆくリリアと男の体が交差する。セレーネは迷いなく怪我をした男の体を受け止めた。けれど重くて支えきれない。
死を免れた王妃は、尻餅をつきながらもテーブルの陰に身を寄せた。
「はっ、早く! その女を捕まえて!! 殺してもかまわないわ!」
それでも騎士は動かない。エロイーズを見て頬を染めたままだ。勝ち誇ったかのように髪を後ろへ流したエロイーズの首に、手刀が走った。
「――うっ⁉」
エロイーズの体が傾き、ラルフの姿があらわれた。影の中に潜んでいたのだろう。
「セレーネ嬢、すまない! 出遅れた。レオは――」
言いかけてラルフは言葉を失った。セレーネの膝上に乗せられたレオネルの顔は、すでに血の気を失って青白い。
さっきからずっと治癒魔法をかけているが、あいた穴を塞ぐほどの能力をセレーネは持っていない。震える声で何度も聖女の呪文を唱える。
「我は月の聖女、女神シンシアの友にして懸け橋となる者なり! 我が月魄を糧に、神光をもたらせ! ――ルクス・ディヴィーナ!! 神光をもたらせ!!」
手からあふれ出る光は、しかし、体にあいた穴を塞ぐことはなかった。治癒魔法が効かない理由はひとつしかない。それを認めたくはなかった。鉄の匂いだけが強くなっていく。
「我は月の聖女! 我が月魄を糧に、神光をもたらせ!! シンシア、お願いよ!」
『……セレーネ、前にも言いましたが』
「いやよ、聞きたくない!! レオを助けてよ!! また死に別れるなんて聞いてないわ!」
聞きたいのは助けられない理由じゃない。レオネルの体にあいた穴が塞がる方法だ。息を吹き返す魔法だ。金緑の美しい瞳を……再び見せてくれるならなんでもいい。温かさが失われていくこの感覚は、もう二度と経験したくなかった。




