第十三章 01 準備は整った
シリウス公爵家では、セレーネの祖母オリヴィアが、耐えかねたように声をあげた。
「セレーネ、いつまでウジウジしているの! そのように軟弱な子に育てた覚えはありませんよ。今すぐ修練場に来なさい。わたくしが直々に鍛えなおしてあげるわ!」
「……はい、お祖母様」
覇気のない声を返し、シリウス家のローブをまとってふらふらと修練場へ向かう。
先に来ていた祖母は久しぶりの戦闘服に身を包み、忙しそうに指示を飛ばしている。
グラウンドに張られた結界に足を踏み込れたところで、セレーネは大きく息を吐き出した。
「ハァァ……、お祖母様ったら本気でやるのね。生きていられるかしら?」
俯いたまま弱音を吐く。とてつもなく心配になってきた。これからのことを考えるだけで頭が痛いというのに。他人の心配までしなければならないとは。
「仕方がないわ。死ななかったら儲けものよ」
顔を上げてグラウンドへ向かうと、上級魔術師たちが四方に分かれ、結界内の定位置についた。祖母が声を張りあげる。
「死をおそれる者は下がるがいい! 今から行うのは訓練ではない! 決闘だ!!」
領兵団団長のフェルナンも檄を飛ばす。
「騎士は周囲に被害が及ばぬように守れ!! 上級魔術師は攻撃用意! それ以外の魔術師は結界を張れ!! お前ら、逃げるなよ⁉」
「「オオ――ッ!!」」
祖母とやるときには上級魔術師をまぜる。彼らは結界の内側から祖母とセレーネを攻撃する。これは戦場を想定した訓練で、魔法が飛び交うなか、敵の大将と戦うことを念頭においている。
ゴシック系に寄せて作りなおしたローブは、セレーネが着るとなぜか魔女のよう。甘さの欠片もないどころか、冷酷な印象すら与える。けれどセレーネにはよく似合っていた。
ピリッとした空気が肌を刺す。フェルナンが「開始!」と叫べば、修練場を包囲した騎士たちが大地を踏みならし、剣を合わせて声をあげる。実戦さながらの喧噪に包まれ、祖母が先手を取った。大量の水で結界内を満たしていく。セレーネはすぐに水球を作って足場を確保し、黒扇子を広げた。
「いきなり水責めはひどいと思うわ!!」
「覚悟もなく、シリウス家の門をくぐるほうが悪い!」
水に遮断されて声は届かないが、口もとを見れば何を言っているのかわかる。
祖母はさらに水の温度を上げていく。セレーネや魔術師たちは慣れたもので、自分の水球を適温に保ってやり過ごす。沸騰した湯を飲んだ地面から、ゴボゴボと泡が立った。
風魔法で上空に飛び出したセレーネは、雷魔法を扇子にまとわせる。すかさずオリヴィアは水を引き上げ、空へと逃げた。濡れそぼった地面に雷が落ちる寸前、魔術師たちも空中に浮かび、四方八方に炎の玉をまき散らす。
炎から逃げ惑うフリをしつつ、口もとを扇子で隠して祖母に近づく。
「ねぇ、お祖母様。もう死んでるんじゃないかしら?」
「まさか! 宮廷魔術師団の一員ともあろう者が、この程度でくたばるわけないでしょう?」
ふたりが攻撃していた相手は、影の中にひそむ闇の魔術師たち。気配からして二人いたのは確実だ。結界に足を踏み入れた時点で袋のネズミ。こちらにも闇魔法の使い手はいるから、影の中まですべての攻撃が届く。
「不憫だわ。どうか成仏してちょうだい」
王妃の命令に従うしかない彼らのことを憐れに思う気持ちはあるが、これで監視の目は潰した。眉尻を下げつつも、セレーネの口もとは自然とほころんだ。
***
夏真っ盛り。あまりの暑さに避暑地へ逃げたいところだが、王妃グレイスにはやるべきことがたくさんある。今日も私室にカルロがやって来た。
「コーネリアス殿下が動き出しました」
「そう、オスカーの言っていたとおりね」
王弟オスカーは自身が経験したように、王位争いで国が割れることを危惧している。しっかり手綱を握っておくようにと、グレイスは忠告を受けていた。
そばに控える侍女エミリーに振り返る。
「セレーネを王宮へ」
「かしこまりました」
部屋を退出したエミリーを見送って、カルロは無表情に王妃を仰ぐ。
「影はいかがしましょうか?」
「引き続き、潜らせてちょうだい」
「はい」
王妃の機嫌を損ねたくなかったカルロは、シリウス家の見張りから連絡が途絶えたことを報告しなかった。セレーネが王宮へ上がるのなら必要なくなる。見張りも最低限で構わないだろう。
(一応、状況を確認しておくか)
王宮の使者に便乗してシリウス公爵邸までやって来たカルロは、塀の影にトプンと身を沈めた。影の中は真っ暗で、頭上にはさまざまな形の穴があいて見える。地上と闇の空間をつなぐ窓だ。地面に影が差しているところだけ、外界が可視化され、音が聞こえる。
頭上に見える景色をたどって屋敷の中へ進む。人影を見つけて近づけば、会話を聞くこともできる。
「デボラ! 急いでお嬢様のところへ。王宮へ上がるためのお着替えを!」
「はっ、はい!」
声を裏返した侍女のデボラは、庭から急いで屋敷へ戻る。カルロはデボラの影を追ってセレーネの部屋へ向かった。
部屋にはセレーネのほかに、祖母オリヴィアもいたようだ。落ち着いた声が聞こえる。
「デボラ、セレーネを立たせるからこちらへ」
デボラについて進んだカルロは、セレーネの影についているはずの仲間がいないことに気づく。「やはり、やられたか」とひとりごちて、頭上の窓を見失わないよう、慎重に影の中からう窺う。
魔術の名門シリウス家を相手に、気づかれないわけがない。これくらいは想定内だ。
影が三つ重なると、三人とも透過して大きな窓ができる。こうなると天井しか見えない。カーテンの影に移動すれば部屋の内部はよく見えるが、女性の着替えをのぞく趣味はカルロにはない。闇魔法の使い手として、守るべき矜持は師匠に叩き込まれている。
窓が三つに分かれた。一番大きな丸い天窓が、ドレスを着たセレーネに違いない。その窓からはオリヴィアとデボラの姿が見える。
「セレーネ、あの人によろしくね」
「はい、お祖母様」
抑揚のない弱々しい声が聞こえた次の瞬間、見上げていた天窓が消え、カルロの背後に人の気配があらわれた。
「――つかまえた!」
うれしそうな女の声がカルロにまとわりつく。そのまま頭上に見える別窓へと引っ張り上げられた。「きゃぁっ」と悲鳴を上げたのはデボラだ。彼女の影から出たのだろう。スカートの布地に顔をはたかれた。女性の影から出るとこうなる。
顔を真っ赤にした少年カルロは、後ろから抱きついたままのセレーネから転げるようにして抜け出す。フードが落ち、鋼色の髪と青灰の瞳がお目見えした。
「バッ、バカセレーネ! 出る場所を選べよ! 信じらんねー!!」
「ふふ。久しぶりね、カルロ」
カルロだけでなく、王宮で闇魔法が使える魔術師とはみんな顔見知りだ。セレーネが居眠りを密告していたのだから、顔も名前も覚えている。その中でもカルロは最年少だ。出会ったときはまだ五歳だった。幼い彼は宮廷魔術師団の所属ではない。
セレーネの様子が、先ほどまでの抜け殻とはまったく違う。
カルロは舌打ちした。
「元気そうじゃねーか。いじけてたんじゃなかったのかよ?」
「そうね、最初の三十分くらいはがんばって悩んでみたのよ? 自分でもこんなに飽き性だとは思わなかったわ」
「はぁ⁉」
ジッとしているのは性に合わないし、糸が切れた人形のように振る舞うのも大変だった。影の中から監視されるのも苦痛で、なんとか抜け出す方法を考えるのに要した時間が三十分だ。
「恋をするとね、沈んでなんかいられないのよ」
「意味わかんねー! それより、仲間は無事なんだろうな?」
幼いカルロにとって、闇魔法の使い手は仲間であり家族同然だ。闇を操る者たちは嫌われやすい分、結束も固い。
カルロの言葉にセレーネの視線が泳ぐ。その場にいた誰もがカルロと目を合わせられなかった。
「い……生きてはいるわ」
無事ではないが、命は取り留めた。今もシリウス家の救護室で唸っている。
「どういうことだよ⁉」
「それは……」
――時は遡り、カルロが王妃に最初の報告を終えたころ。
人形ごっこに飽きたセレーネは、背格好のよく似たデボラとたびたび入れ替わり、のんびりと羽を伸ばした。似ていない顔つきはアイリスが開発した魔道具で変身。顔だけしか変えられないが、それでも間諜たちを騙すのには十分だった。
監視されていることなど、シリウス家に仕える者なら庭師でも察知できる。王宮からずっと、影が着いて来たのを知っていて一芝居打ったのだ。
その芝居も時間を稼ぐためのもの。オリヴィアの『鍛えなおす』宣言は、態勢が整ったことを知らせ、間諜たちを一掃するという合図だった。
セレーネとオリヴィアが闇の魔術師たちの目を引きつけているあいだに、使用人に紛れ込んだ間諜はレイヴンとデボラが洗い出す。弟のクリスティンはほかにも紛れていないかお散歩して、屋敷の外にいた宮廷魔術師を捕まえた。これが昨日までに起こった出来事である。
「報告内容とぜんぜん違うじゃねぇか!! 騙したな⁉」
「騙されるほうが悪いのよ?」
「それ、悪者のセリフだろ!!」
「わたくし“悪役令嬢”と呼ばれているの」
「ピッタリだな!」
「どうも」
ちなみに、一芝居打ったのはシリウス家だけではない。父がレグルス家に行ったのは『抗戦』を伝えるため。そして握手が合図になっている。
これらの作戦は、シリウス家に婚約許可証が届かないのを不審に思った父と、レグルス辺境伯が話し合って決めた。
最悪の場合を想定し、王家がどう出るかを考察し、手を打っておいたのだ。そこへレオネルが第二王子を担ぎ出す話をしたものだから、王太子すげ替え作戦にまで発展した。三人とも酒を飲みながら楽しく計画したせいで、いろいろと不備がある。
その最たる不備――作戦の穴はレオネルだ。彼は演技が苦手で、どうしても笑ってしまうらしい。
レオネルへ宛てた手紙には、見られてもいいように王妃の望む言葉を書き、二枚目の最後に日本語で小さく『サクセンカイシ!』と書いた。それを読んだレオネルは吹き出しそうになり、慌てて顔を覆う。
父はハラハラして目を背け、辺境伯が無理やり顔を隠して笑いをこらえさせた。レオネルたちについている影はまだ一掃されていない。もう少し泳がせる予定だ。




