第八章 06 聖杯から飛び出したもの
空を見上げ、風魔法で浮上する。すでに霧は晴れ、三階の見晴台ではセレーネが飛んでくる様子をレオネルが見下ろしていた。
「レオネル様! 水は手に入りまして?」
「なんとかね。井戸が汚染されていて焦ったよ」
「そんな、砦にまで瘴気が――」
「セレーネ」
「っ……」
いきなり呼び捨てにされて心臓が高鳴る。探るような瞳に、引き結んだ薄い唇。そんな顔で手を差し出されると少しこわい。おずおずと手を重ねると、少し強引に空中から引き降ろされた。
「……レオネル様?」
「レオでいい。それより、あの男は誰かな?」
「あの男?」
レオネルの隣に立ち、その視線をたどって見下ろすと、レイヴンがにこやかに手を振っていた。
「ああ、うちの執事ですわ」
「執事がどうして討伐に?」
「連絡を兼ねた、わたくしと弟のお目付役ですの」
「君が吹き飛ばされたときも抱きしめていたな」
「――見ていたの⁉」
「どうしてこちらへ飛んでこないのかと、運命の女神を呪うところだったよ。帰ったら転移魔法を教えてほしい」
「え、ええ……」
口もとは弧を描いているのに、レオネルの目が笑っていない。片手に持っている聖杯がメキメキと悲鳴をあげているが大丈夫だろうか。もう片方の、セレーネの手は無事だ。しっかりと握られてはいるが痛くもない。
「そういえば、殿下とも抱き合っていたよね? 君は僕を弄びたいのかな?」
「ち、違いますわ! あれは――」
言いかけて口を閉じる。ここが戦場だということを失念していた。辺りがやけに静かだ。なのに、たくさんの人間の気配がする。
「レオ……」
「ああ、囲まれたな。女神に操られているのか」
結界がかろうじて保たれているということは、全員ではない。見晴台へ上がってきた顔ぶれを見ても騎士ばかり。魔力の高い者たちはロマティカの手には落ちなかったようだ。目の前のひとりを除いて――
「王太子殿下。魔力の高いあなたがなぜ、ロマティカの言いなりに?」
「…………」
アーサーは何も答えない。しかし、その瞳は揺らいでおり、先ほどとは雰囲気が違う。ほかの騎士たちのように剣も持っていない。
不思議に思ってもう一度声をかけようとしたところ、上空からあらわれたロマティカがアーサーの腕に絡みついた。
「アーサーは妾のことを愛しておるからな。愛の前には、ひれ伏すのが当前であろう?」
それは本当に愛なのだろうか。セレーネとは感性が違う――そう思った矢先にレオネルが頷いた。
「わかる気がする」
「ええっ⁉」
「僕も君になら、ひざまずきたい」
「レオ……」
熱く見つめる金緑の瞳に、頬を染めたセレーネが映り込む。一瞬あっけに取られたロマティカだったが、唸り声をあげてその場でクルリと一回転した。
「――さあ、レオネル! こちらへ来い!!」
「断る」
「なぜじゃ⁉ なぜ妾の力が通じない⁉」
「あら、簡単なことよ。あなたに魅力が足りないせいですわ。おーっほほほ!!」
冗談ではなく、乗り移られる前のロザリンのほうが魅力的だったとセレーネは思う。だが少し攻めすぎたようだ。唸るロマティカの顔色が赤黒く染まっていく。
慌てたセレーネはレオネルに向きなおった。
「レオ、まっすぐ持っていて!」
「任せておけ!」
レオネルは両手で聖杯を持ちなおし、セレーネは上から手をかざす。
「我は月の聖女、女神シンシアの友にして懸け橋となる者なり――」
途端にロマティカが狼狽した。
「なっ、何をするつもりじゃ⁉ しかも、月じゃと? 海の聖女ではなかったのか」
「――我らの月魄を糧に、天と地の狭間をつなげ」
「はっ、させるか!!」
ロマティカがハート型に手を組んだ。ピンク色の光が一瞬点灯するも、攻撃はやって来ない。ロマティカを横目で見やれば、アーサーに後ろから抱きしめられ、ジタバタと暴れている。やはりアーサーは素面だったか。
「――サクラ・ポルタ!」
最後まで呪文を唱えると、一瞬だけ世界が揺れた気がした。たちまち聖杯から白い光が屹立し、ひと柱の女神が飛び出した。銀色の髪をなびかせ、背中には白い翼。右手に剣を携えているが、左手に天秤はない。代わりにロマティカの神器であるハートの杖が握られている。天界で見るより小さく、身長が二メートル程度だが、掟の女神で間違いない。
ロマティカが叫んだ。
「ユスティア⁉ どうしてお前が? 月の聖女とつながりのない神を呼び出すなど、ありえぬ!!」
内心でおどろいているのはセレーネも同じだ。てっきりシンシアが出てくるのだと思っていた。
掟の女神ユスティアは、ロマティカを冷たく見下ろす。
『これは我の失態だからな。さぁ、ロマティカよ、帰るぞ!』
ロマティカに近づき、アーサーが抱きしめるロザリンの体にハートの杖をかざした。ずるりと引き出されたロマティカは、往生際悪くもロザリンにしがみつく。
『ロザリンの心臓をつかんだ! 無理に引き抜けばこの娘も死ぬぞ!!』
これに反応したのはアーサーだ。ボーッと立っているだけの騎士から剣を奪い取り、あろうことかユスティアに向けた。
「ロザリンを殺させはしない!」
「殿下⁉」
女神に剣を向けるなど、見ているこちらの寿命が縮みそうだ。対するユスティアは片眉を上げただけ。それはそうだ。人間の剣で神が切れるわけがない。牽制にすらなっていないだろう。
『致し方ない』
簡潔に答えたユスティアが右手の剣を振り上げる。表情を変えることなく、ロザリンに向かって振り下ろした。アーサーが割り込ませた剣はむなしく空を切る。ユスティアの剣は――ロザリンの心臓をつかむ――ロマティカの両腕を切り落とした。
『ぎゃっ!!』
いつぞやのセレーネが発した悲鳴に似ている。けれど血が出ることもなく、すぐに新たな手が作られた。その分ひとまわり縮んだように見える。
傾いていくロザリンはアーサーが抱きとめた。髪の長さがもとに戻ったぐらいで、見たところ怪我もない。ホッと息を吐き、セレーネはここぞとばかりに悪態をつく。
「あらぁ、品のない悲鳴ね。女神とは思えないわ」
『お前、ろくな死に方をせんじゃろうな!!』
「お互い様でしょう?」
『覚えておれ!! どうあろうと、悪役令嬢は成敗される運命なのじゃ!』
それは勘弁してほしい。せっかく前世の夫と再会し、レオネルとも心が通じ合ったというのに。セレーネの背中に冷たいものが流れたが、すぐにたくましい腕に抱きすくめられる。
「そんなことはさせない。セレーネは僕が守る」
「レオ……」
セレーネはもう、ひとりじゃない。体に温度が戻って来ただけでなく、熱いものがどんどん昇ってくる。熱が押し上げるのは喜びであるはずなのに、セレーネからこぼれ落ちたのは涙だった。感極まるとはこういうことか。
「うっ……うう、わたくしも、あなたを幸せにしてみせるわ!」
「それは、負けられないな」
『――くっ、妾の前でイチャくつな!!』
ハートの杖に引っついたままジタバタと暴れるロマティカを、ユスティアは目の高さに持ち上げた。
『……ロマティカよ、堕ちたものだな』
『なんじゃと⁉ 誰も彼も、そんなにエロイーズがいいのか!!』
顔を歪ませ、ロマティカがハート型に手を組んだ。ユスティアの両手は塞がっている。この距離では避けきれない。ユスティアはとっさに剣を盾にして、ピンク色の熱線を受け流す。だが剣は弾き飛ばされ、天へと昇っていった。
一瞬舌打ちしたロマティカだったが、すぐに下衆な笑みを浮かべた。
『くはは! これでユスティアの神格も落ちる! ざまぁみろじゃ!!』
『……』
ユスティアはわずかに目を伏せただけで何も言わない。ロマティカの笑い声だけが場に響く。青ざめたセレーネとレオネルのあいだで、またも聖杯から白い光が立ち昇った。
あらわれたのは――太陽の女神エレノア。艶やかな金髪が流れる背中には、黄金の日輪を背負い、金の雄鶏を柄頭に持つロッドを手にしている。
『皆さん、日の出のお時間です!』
金色に光るロッドを天にかざすと、暗雲は散り散りに消えゆき、山間から黄金色の太陽がお目見えした。暖かな光が皆を包み込み、冷え切った体をじんわりと温めていく。エレノアは慈愛を込めた眼差しで、けれど悲しげにロマティカを見た。
『ロマティカ、今のあなたに愛の女神を名乗る資格はありません。欲と嫉妬にまみれたかわいそうな子』
『うぅぅ……うるさい!!』
『やはり、あなたには荷が重かったようですね。しばらく“愛”の座は私が面倒を見ましょう』
『――は? エロイーズが選ばれるのではなかったのか⁉』
『そのような話、議題にものぼっていません。神器も作り出せない下級女神に、天界の柱が務まるわけがないでしょう?』
『そんな……、それでは、妾はなんのために……』
ロマティカは力なくうなだれた。それを皮切りに騎士たちに生気が戻っていく。ふた柱の女神を認めて、騎士たちがひざまずいた。
そんななか、アーサーはロザリンを抱き上げる。
「女神たちよ! どうか、ロザリンを助けてくれ!!」
エレノアと顔を見合わせ、ユスティアが首をかしげる。
『命に別状はない。ロマティカの手は残ったが、じきに魔力となじむだろう』
「そ、そうか……、よかった」
ロザリンの顔をのぞき込み、アーサーはホッとした表情を見せる。セレーネも温かい気持ちになった。
(殿下は本当にロザリン様を愛してらっしゃるのね)
女神の力をほとんど失ったロザリンだが、アーサーなら見捨てたりしないだろう。
掟の女神ユスティアが宙に浮かぶ。
『人間たちよ、しばらく“愛”と“掟”の女神は不在となる』
「――掟の女神まで⁉ どうしてですの?」
『神器の数で神格が決まる。剣を失った我は神格が落ち、別の座に納まるであろう』
「そんな……」
『心配せずとも、安寧は保たれる』
それだけ言い残して、ユスティアはロマティカを連れて天に昇り、エレノアは太陽の光に溶けていった。
魔獣の姿もまったく見当たらない。崩れた砦だけが戦いの凄惨さを物語る。
見晴台に登って来たラルフと辺境伯が、交互にまくし立てた。
「聞いてくれよ! 魔獣から素材をいただこうと思ったのに、全部消えやがった!! あんなに苦労したってのに!」
「まったくだ!! かなり大きな魔核をこの手にしていたというのに!」
「ふ……ふふ。それは災難でしたわね」
なんだかおかしくなってセレーネが笑いはじめる。それは皆に広がり、砦は活気を取り戻した。




