第八章 01 泣きっ面に蜂
北の砦から北東の温泉地までは一日あれば着く。温泉地の手前――二キロ離れた小さな砦に陣を置き、結界を張った。負傷者などはここへ運び込む算段だ。
レグルス辺境伯はここに王太子一行を残して進もうとしたが、功を焦る王太子がそれを許さない。
「ロザリンに功績をあげさせなければ、ここまで来た意味がない!」
ミルザム団長と辺境伯のふたり掛かりで説得を試みたが、アーサーを止めることはできなかった。結局、砦は避難所として物資と治癒師、警備要員を数名残すに留まり、日が昇るのを待って出立することとなった。ところが、その予定も大きく狂うことになる。
その夜――数少ない干し草のシングルベッドに、ロザリンとセレーネは身を寄せ合って寝ていた。セレーネの眠りは浅く、寝返りを打ったときだった。真夜中の砦に男たちの怒号が響く。
「――敵襲、敵襲!! 総員、配置につけ!!」
「砦のまわりを囲まれているぞ!!」
「数はわかるか⁉」
「……だめだ、月が出ていない! とにかく大群だ!!」
「結界を強化しろ!!」
セレーネは飛び起きてローブをまとう。部屋から出ようとして裾を引かれ、ロザリンに捕まった。
「セレーネ様! どこ行くんですかっ⁉」
「少し様子を見てくるだけですわ」
「イヤですっ!! 一緒にいてくださいっ!」
「ここは砦の中心部で安全よ。状況を確認するだけで戻ってくるから」
北の砦ほどではないが、この砦も周囲を分厚い城壁に囲まれている。二階建ての城壁の屋根は道幅も広く、凹凸のある狭間があり、そこには結界を張る魔術師や騎士が待機している。結界を破らないことには魔獣も入って来られない。
いくら諭しても、ロザリンはすっかり怯えてセレーネを離さない。仕方なく誰かが来るのを待った。きっとアーサーが飛んでくるはずだ。ロザリンを落ち着かせるため、一緒にベッドへ腰かける。
にわかに廊下が騒がしくなり、乱暴にドアがノックされた。
「ロザリン! 大丈夫か⁉」
「アーサーさまぁぁ!!」
期待を裏切らない男、アーサーがやって来た。着の身着のままドアをあけようとするロザリンを引き止め、ガウンを羽織らせる。ドアをあけた途端、何ヶ月も会っていなかったかのような抱擁を見せつけられた。
「ロザリン!!」
「アーサー様!!」
疲労を帯びたため息を飲み込んで、セレーネはそっと脇を通り抜ける。否、抜けられると思ったのだが、セレーネのローブをロザリンが引っ張り、バランスを崩したセレーネは、咄嗟に伸ばされたアーサーの腕に収まってしまった。
「きゃっ⁉」
「セレーネ様も一緒!」
「そうかそうか、かまわないぞ」
ロザリンともどもアーサーに抱きしめられて、セレーネは尻尾を踏まれた猫のような悲鳴をあげた。
「フギャァァァ――!!」
それでもアーサーはふたりを離さない。おどろいた近衛とともに、あいているドアからレオネルが顔をのぞかせた。
「どうし――……あ、しっ、失礼した!!」
「え、ちょっと待っ……、レオネル様⁉」
レオネルから見れば、セレーネとアーサーが抱き合っているように見えただろう。小柄なロザリンはセレーネに隠れて見えない位置だ。止める間もなくレオネルは走り去っていく。
(絶対に誤解されたわ!)
腹立ち紛れにアーサーの足を踏み、緩んだ腕から抜け出す。鳥肌がすごい。後ろでアーサーが悶絶しているが構うものか。腕をさすりつつ、セレーネは今度こそ部屋から飛び出した。
「辺りの様子を窺って参ります。殿下、ロザリン様をよろしく!」
「――は? まっ待て、セレーネ!!」
自分で守ると言ったではないか。ぜひ有言実行していただこう。廊下を走り抜けて三階の見晴台へ上がる。しかし、定員オーバーのようだ。足の踏み場がない。
レグルス辺境伯の檄が飛ぶ。
「夜明けまでなんとかもたせろ!! 騎士は今のうちに休んでおけ!!」
この暗闇で動くのは得策ではないだろう。見えるのは篝火の周囲だけ。砦の外は暗闇に包まれて何も見えない。異様な暗さだ。
セレーネは二階の屋根に飛び降りた。屋根といっても中央の砦と城壁をつなぐ廊下になっている。走り抜けて城壁に近づくと、結界に体当たりするような鈍い音や、魔獣のうなり声がそこら中から聞こえてきた。
(まるで待ち構えていたかのようね。魔獣が奇襲をかけてくるなんて……)
魔獣は火をこわがり、知能は動物よりも低いとされている。学園の授業でそう習ったのだが、これは見なおすべきだろう。
空を見上げれば月どころか、星すらも黒い雲に覆われている。セレーネは胸の前で手を組み、強く願った。
(女神シンシア、どうか月明かりで周囲を照らして!)
セレーネの願いは――いつまで経っても叶わない。
(……シンシア? お願いよ! 月明かりで魔獣たちを照らしてちょうだい!!)
空は暗雲が垂れ込めたまま。たとえ新月であろうとも、いつもならすぐに聞き届けられるのに、まるでシンシアに届いていないかのようだ。
「どうして……、シンシア?」
立ち尽くすセレーネの頭に、か細い声が響く。
よくよく神経を研ぎ澄ませてみれば、女性の声と思われた。
『……ネ、セレー……ネ……』
「はっ、シンシア⁉」
『――いは、……せ……』
「聞こえないわ!」
セレーネはフュージョン後、はじめてシンシアと話したときのことを思い出す。それは女神の空間に一角ハクビを押しつけたときのことだ。
「そうだわ、女神の空間とつなげば……」
持っていた黒扇子で空中に空間魔法陣を描く。それも簡略化した魔法陣ではなく、月の女神のシンボルを中心に描いた正式なもの。通常よりも強い力を持つ。
『セレーネ、聞こえますか?』
「ええ、聞こえるわ!」
『あなたのいる場所は瘴気に覆われ、私の力が及びません。つなげた空間を通して、とても強い神力を感じます。これは――』
シンシアの言葉を最後まで聞く前に、答えが上空にあらわれた。空中に浮かぶ美しい少女は、以前見たときよりも幼く見える。
「『――ロマティカ』」
少女――ロマティカの体は十歳くらいの子どもの姿で、見たところ神器は持っていない。いつの間に入ったのか、結界の中に浮かんでいる。
「どうやって結界の中に……シンシア、どうすればいい?」
『その場所に私たちは降り立てません。瘴気に身を浸せばロマティカのように魂を削られます』
ロマティカが子どもの姿になったのは、瘴気に身を晒して魂が削られたせいらしい。
「もっと削るとどうなるの?」
『最後には消滅します』
ならば結界の外へ放り出し、時間を稼げば――
(……ってどのくらいかしら?)
セレーネの考えを見越したようにシンシアは釘を刺す。
『ですがセレーネ、感じ取った神力からして、持久戦は不利でしょう』
「うっ……、甘かったか。じゃあ、温泉まで連れて行けばメレディスに――」
『いいえ、温泉は瘴気で真っ黒です。先手を打たれたようですね』
温泉に魔獣が集まっていたのはロマティカの策略か。
唇を噛んでいる場合ではない。セレーネがなんとかしなければ。
『これから審議会がひらかれます。しばらく耐えてください。空間のつながりは私が維持しましょう』
「……わかったわ」
言われたとおり、時間稼ぎをするほかない。黒扇子を広げ、風魔法で空へと舞い上がる。三階の屋上――見晴台より少し高い所にロマティカはいる。ドーム型の結界をなぞるように、しげしげと見つめる背中に声をかけた。
「こんばんは。女神ロマティカ……」




