第四章 04 弟のフラグ
先ほどのマリアを見て、セレーネにも弟がいたことを思い出す。姉らしいことは何もしてやれず、訓練では完膚なきまでに叩きのめした弟が……。
(たしか物語では、弟に足もとをすくわれる話が書かれていたわね)
さぞや恨まれていることだろう。早く帰って対策を練らないとまずい。あの物語はどこか予言めいている。
シリウス家に戻って服を着替え、弟がいるであろう修練場に足を運ぶ。
二つ年下の弟クリスティンは来年から学園に通う予定だ。次期公爵として厳しく育てられ、事あるごとに規格外な姉と比べられた弟。
リミッターの外れた人間と比べるなど危険極まりないのだが、常に上を目指すシリウス家では泣き言など許されない。
修練場では、シリウス家が所有する領兵団の騎士と魔術師が合同訓練を行っており、クリスティンは魔術師として参加している。一年半会わなかったうちに、弟は上級魔術師の域に達していた。無詠唱で魔法を発動させたうえ、魔力を練る時間も圧倒的に短い。前衛の騎士など必要ないくらいだ。
「あはは……、敵にまわしたくない相手だわ」
修練場のベンチに腰かけ、女神の空間から本――“愛の軌跡”を取り出し、弟が出てくる章をひらく。
十五歳になり学園に入った弟は、姉が『悪役令嬢』と呼ばれ、ひとりの少女を執拗にいじめていると知り、深く失望する。
しかもその少女はイジメに屈することなく弟に笑顔を向けたのだ。憎まれてもしょうがない悪役令嬢の弟だというのに。
弟は守るべき存在を見つけ、姉を糾弾した。
『――姉上にはガッカリです』
さらには公爵家の恥だと罵り、悪役令嬢を貴族籍から外すよう手をまわす。ここが物語の、いや悪役令嬢にとってのターニングポイントと言ってもいい。
貴族でなくなるということは、まわりからの扱いが一気に変わるということだ。焦った悪役令嬢は暴挙に出る。すべての原因は主人公にあると決めつけ、殺害計画を立てたのだ。結果的に主人公は王太子たちに助けられ、悪役令嬢は処刑される。
「殺害なんて考えもしないけど、すでに悪役令嬢の名はひとり歩きしているわ」
クリスティンに失望されないようにしなければ、貴族籍から外されてしまうかもしれない。
「そんなの、どうすればいいのよ⁉」
アイリスから借りた本で頭をベシベシ叩いていると、殺気を感じてベンチから飛び退いた。直後、座っていた場所には焦げ跡とともに煙が立ちのぼる。
「さすがは姉上。挙動不審でありながらも、これを避けますか」
セレーネのように無表情を装いつつも、クリスティンが挑戦的な目を向けた。
懐かしさにセレーネは頬を緩める。
「クリス、ずいぶんなご挨拶ね」
「…………。あ……姉上⁉ 本当に姉上ですか?」
「ええ、わたくしよ?」
身内と会って自然に笑みをこぼすのは、多くの人にとって普通のことだ。しかし、今までのセレーネはとにかく無表情が当たり前。口角を上げることすら言われなければできない。王妃教育で一番困ったのは、どのタイミングで微笑めばいいのか理解できなかったことだ。
その姉が自然に微笑んでいるのだから、おどろくのも無理はない。――とはいえ、そんなオバケを見たような顔をしなくてもいいではないか。
「クリス、わたくしは感情を表に出すことにしたの」
「そんなっ、クールでストイックな姉上を尊敬していたのに! ガッカリです!!」
「エッ⁉」
――今、『ガッカリ』と言っただろうか。セレーネは青ざめ、弟に縋りつく。
「クリス⁉ わたくしは人の道に外れるようなことはしていないわ! 貴族籍から外すのだけはやめてちょうだい!!」
「なっ⁉ 何を言っているのですか⁉ ……本当に姉上なのか?」
クリスティンの顔も青……を通り越して生白い。収拾がつかなくなったふたりのあいだに、祖母がやって来て爆弾を投下した。
「本人かどうか、体で確かめ合えばいいのよ」
「か、かか、体で⁉」
「お祖母様、言葉を選んでほしいわ……」
クリスティンは十四歳、多感なお年頃の少年になんてことを。うろんな目で見やっても、祖母はどこ吹く風だ。仕方がない。セレーネはため息をつき、女神の空間から黒いローブを取り出して羽織る。
これには防御や泥よけの魔法が刺繍されている。クリスティンが着ているのと同じ、シリウス家の家紋が入ったローブだ。
ローブをまとうと同時にセレーネは笑みを消す。それを見てクリスティンは身震いした。これから戦うというのにその頬は紅葉し、うれしそうにさえ見える。
セレーネは距離を取って黒扇子を閉じ、クリスティンも杖をかまえる。秋風のテープが途切れた瞬間、ふたりは風雷魔法を発動させた。姉弟で得意な魔法が被っている。このままでは力押しの勝負だ。
「クリス、わたくしより魔力量の低いあなたでは、勝てないわよ?」
「くっ……」
ぶつけ合っているのは稲妻ではない。雷の熱によって膨張した空気を風魔法で加速させれば、衝撃波となってぶつかり合う。風と雷の合わせ技だ。その余波は建物をも揺らす。
祖母がすぐに結界を張ったが、それは建物を守るためのもの。修練場にいる者たちのためではない。ここで逃げ出せば破門。戦いについて来られる者だけがシリウス領兵団の紋章を身に着けられる。
「これならどうだ――⁉」
風雷魔法はそのままに、クリスティンはさらに氷魔法で上空に細やかな氷を顕現させた。氷同士をぶつけ合って静電気を発生させ、雷の威力を増そうという魂胆だ。
「なかなかやるわね。でも、使う季節を間違えているわ。乾燥した時期には、こちらのほうが効果的よ!」
セレーネも風雷魔法を保ちつつ、足もとから砂塵を巻き起こす。砂の粒子がぶつかり合い、セレーネの雷はクリスティンのそれよりも威力を増した。
勝敗がついたかに見えた矢先、空から大量の水が降ってきた。単調な対戦に飽きた祖母の仕業だろう。ふたりともすぐに風雷魔法を引っ込めた。
水魔法をまとい、自身のまわりに水球を作って空気を確保する。荒れ狂う水の波に抗いながらも、お互い睨み合う。
周囲の状況が目の端に映る。さすがに騎士たちはガードできていない。魔術師たちが助けようとしているが、取りこぼされた者もいる。クリスティンを見れば、彼もそれに気づいているようだ。
示し合わせたわけではないが、ふたり同時に風魔法を発動させた。修練場を覆う大量の水を力任せに吹き飛ばす。
(体が軽いわ……)
以前のセレーネなら、ここまでやれば相当魔力も体力も消耗していたのに、今は力があり余っている。
「――ここまでにしましょう」
祖母が止めに入った。いつもならもう少し見守るはず。嫌な予感がして姉弟は後ずさった。祖母の瞳が妖しく光る。
「ふたりとも、全然なっていないわ。今日は寝られると思わないことね」
「「うっ……」」
やはりダメ出しが来た。セレーネは修練場の門に向かって体を少しずつ寄せていく。
「お祖母様、わたくしは寮の門限が――」
「――あらそうなの? レイヴン」
「はっ、すでに外泊の許可を申請済みでございます」
「嘘でしょう⁉」
こうしてセレーネはクリスティンと仲よく課題をこなし、一睡もしないまま学園に登校するはめになるのだった。