後編
「それでは始めましょう。マウスに手を置いてください」
岬が新しく淹れてきてくれたやや甘めのコーヒーを啜りながら、よし、と駒形は一応の気合を入れた。指示されるままマウスに手を置き、ナカトシの映っているモニターに向き合う。
「どうすればいいの?」
「少々お待ちください、そちらの画面に戦闘フィールドを展開します」
戦闘フィールド、と聞いたままの言葉を舌の上で転がす。悪者を倒して世界を救うという目的を考えたら当然だが、穏やかな響きではない。こちらの身体に危害が及ぶ事はないと再三説明されてはいるものの、やはり不安は残る。
待ち時間はせいぜい10秒に満たない程度であったが、体感ではその数倍にも感じられた。モニター中央に、中くらいの大きさのウインドウがぱっと表示される。横長の長方形内には、荒いタッチで描かれた背景が広がっていた。奥に見える茶色い煉瓦のようなものは、おそらく壁だ。一定間隔で置かれた燭台らしきオブジェから分かる。となると下に広がっている一面の灰色は床で、画面上部に居座っている黄色いクラゲのようなものは吊り下げ式の照明だろう。
何かの建物内らしい、という事だけは分かった。それだけだ。
「それで、こっからどうすれば……」
続きを聞く声は中断された。画面の左端から、鳥と人間を合体させたような奇妙な生物が、ぞろぞろと徒党を組んで現れたからだ。
体つきは四肢を備えた人間のそれだが、頭は大きく曲がった嘴を持つ鳥。そして鎧のようなものを身に付け、手には長い槍を持っている。
鳥人間たちは数名で固まったまま、画面内を左から右へと移動し始めた。
「鳥みたいなのが出てきたけど」
「では、マウスカーソルをその鳥人間の上まで動かして、左クリックしてください」
「こう?」
言われるままに、一番前にいたグループの一匹をクリックする。すると鳥人間は中央から弾けるように数度点滅し、そのまま消えた。
「一匹倒しました、お見事です」
「え、今ので倒したの?」
「はい。その調子で残っている敵も全て倒してしまってください」
「わかった」
だいぶ拍子抜けしながらも、駒形は引き続き画面内の鳥人間にカーソルを合わせてはクリックを繰り返す。鳥人間たちは移動を続けているが、もったりとした非常に緩慢な動きなので、置き去りにされる事はない。画面左側に現れた瞬間に、ぱぱぱと全員一気に消してしまえる程に容易だ。
深夜のオフィス内に、暫し無言のクリック音だけが響く。
「こういうのアプリで遊んだ事ある。すぐ飽きちゃったけど」
隣で眺めていた岬が、ぽつりと呟いた。
「こんなんで本当に世界救えてるのか?」
「どなたでも確実かつ安全に救えるよう手順は極限まで簡略化しました。肝心なのは、同じ世界の力は通用しないので他所から干渉してもらうという点のみですので」
「それにしたってこれは……」
展開も起伏もなく、左端からのんびり現れる敵をぷちぷちとクリックして潰していくだけの単純作業。駒形は、次第にチンパンジーの学習実験を受けている気分になってくる。
「シンプルなゲーム形式が、老若男女を問わず最も取っ付きやすいですからね。反射神経と集中力を要するFPS及びTPS形式、咄嗟の判断力はそこまで必要ないですが時間のかかるコマンド入力式のRPG形式、どちらも誰でもクリアできるとはいきません。ひとつ段階を戻して一画面内ステージクリア形式のSRPGにすれば、そのぶんもう少し私の外見にリソースを割けますが」
「それはどうでもいいから一番簡単に済むやつで頼む」
ナカトシは少し悲しそうにぶるりと頬肉を震わせてから、気を取り直したように説明に戻った。
「まずは各地にある五つの拠点を潰していきましょう。それぞれの地を支配するのは五魔将軍と呼ばれる魔王の腹心です。駒形さんが今戦っているのは、強力な風の魔法を操る狂嵐公ヴィードですね」
「はあ」
生返事を返す駒形の隣で、岬が画面を指さした。
「あっ、見た目の違うのが出てきましたよ!」
「ほんとだ。こいつがボスキャラ?」
「そうです、頑張ってください。将軍は30クリックくらいしないと倒れません」
「逆に30クリックで倒れる将軍って存在してる意味あるか?」
駒形はもっともな疑問を口にする。
実際の現場では、映画もかくやという凄まじく激しい攻防が繰り広げられているのかもしれない。だが極限までの簡略化とやらを施されているこちら側にあるのは、カチカチカチという無機質な連打音だけである。せめて盛り上がりそうな音楽くらい流してほしい。
姿が違うだけで周りの雑魚と全く変わらない動きのボスキャラは、やがて消えた。
「やりましたね、駒形さん。これでこの地域は魔族の支配から解放されました。ほら空を覆っていた瘴気が晴れていく」
「感動うすー……」
「見えないからな」
撃破からほとんど間を置かず背景が暗転した為、中央のウインドウは真っ黒なままである。せめてその支配地域の風景が元通りになっていくシーンを映してくれれば多少は実感が湧いたのだろうが、討伐の簡略化にほぼ全リソースを傾けているとあっては、文章での描写でさえ贅沢なのだろう。
「そろそろ次の拠点攻略戦が始まります。準備はよろしいでしょうか?」
「おう」
駒形が返事をすると、ウインドウに再び雑な絵が映し出された。
先程までの砦や城を連想させる重々しい眺めから一変し、太い柱が立ち並ぶ神殿めいた背景が広がる。全体に青みがかっており、所々に魚を思わせる生物が浮遊している事から、おそらく水中神殿の類だろう。その推測に正しく半魚人のような兵士が画面左端から現れ、もたもたと右端へ向かって進んでいく。それらを順番に潰していくと、やがて二回りは大きな敵が現れ、やはり画面右へと向かって――。
「背景と敵の絵が変わっただけじゃねーか!!」
「ですから極限まで簡略化していると説明しましたでしょう。五魔将軍はそれぞれ属性の異なる五つの武器と武術を操る強敵ですが、そのへん全部画面の左から右に向かって直進する動きに統一しました」
「ねえ駒形さん、ひょっとしてこのおじさん凄いんじゃないですか?」
「凄いは凄いんだろうけどさ」
絵面が絵面だけに手放しで称賛しにくい。そして何より飽きる。
そんな掛け値なしにつまらないと断言できる単純作業を五回終えて、ようやく全ての土地がクリアされた。世界の運命がかかっている事を思えば面白いだのつまらないだのと感じるのは不謹慎なのかもしれないが、ゲームという体裁を取って救済手段が提供されている以上、どうしてもそうした感想は出てくる。
一端マウスから手を離し、腕をぐるぐる回して肩をほぐしている駒形を、ナカトシが労う。
「ご苦労様でした、いよいよ魔王城が姿を現します」
「早いなあ」
「あまり長引くと子供やお年寄りには辛いですからね」
「子供と老人に配慮しつつ救える世界って何なんだよ」
画面は、最後の拠点を攻略し終えた時から真っ暗なままだった。おそらく魔王城を表示する準備をしているのだろう、また背景と敵の絵しか違いのない魔王城を。最終戦というだけあって何かしらの抵抗を受けているらしく、今までの拠点よりも表示に時間がかかっているようだ。
待っている間にナカトシが説明してくれる。
「魔族は外部の力でなければ倒せませんが、魔王はその上で尚あらゆる攻撃を無効化するバリアを纏っています。魔王を倒すには、まずそのバリアを剥がす道具が必要です。古の神がこの世界に残していったという聖なる宝玉が、戦闘が始まったら画面の右上に表示されますから、クリックで使用してください」
「ありがたみって言葉少しは考えろよ」
「では魔王城に行きましょう」
準備ができたようだ。これで最後だと自分に言い聞かせ、駒形も画面に向き合う。
魔王城の背景は、一番最初に戦った風なんとかの拠点の背景と似ていた。砦と城だから、似てくるのは自然だろう。相変わらずのろのろと画面内を移動していく敵をクリックで消していくのも同じ。
そうこうしていると、唐突に背景が切り替わった。驚きつつ、駒形は僅かに感動を覚える。なにせ同じ戦闘で背景に変化が起きたのはこれが初めてだったのだ。脳細胞の死滅を促進しそうな単調作業が連続したあまり、感動の敷居が極端に低くなっている。
「見覚えあるなこいつら。黄色くなってるけど全員さっきのボスだよな?」
「はい、五魔将軍の魂が魔王の力によって蘇って襲ってきています」
「あー、こういう展開知ってる」
「そうなんですか?」
「うん」
ようやく物語性らしきものが出てきた事にも、何となくホッとしてしまう。倒すのに掛かったのは一体あたり50クリック程だった。30クリックからだいぶパワーアップしているようだ。
「さあ、いよいよ魔王ですよ」
「はいはい」
告げるナカトシに駒形は生返事をした。
この頃になると手もいい加減疲れてきている。特にクリックを続けている右手人差し指の付け根付近が痛い。無事に魔王が倒せたとして、腱鞘炎にでもなったら一体誰が治療費を負担してくれるというのか。
憂鬱になる駒形を余所に、画面内ではまたしても背景に変化が起こっていた。なんと一ステージ内で三度目の切り替わりである。さすがは魔王だといえる。
だが違っていたのはそれだけではなかった。同じように画面左側から現れた、いかにも魔王だなといった風体の大男が手にした王笏を振りかざすや、画面内を上下に閃光が走り抜けたのだ。駒形も思わず叫ぶ。
「うお、撃ってきたぞ!」
「ああ驚かせてしまい申し訳ありません。さすがに魔王は強力で、世界の全てをここまで簡略化していては攻撃を完全に押さえ込むのは無理でした」
「むしろここまで押さえ込めてるお前の方がよっぽど怖いわ」
「でもこれ撃ってるだけじゃないですか?」
「体力の概念は消してありますからね、ダメージは受けませんよ」
「魔王かわいそうだな」
約300クリックで魔王は死んだ。
一体にかかった手間と考えると強敵ではあった。
「ありがとうございます、駒形さんのおかげで世界は救われました」
「いやいや、どういたしまして」
礼を言うナカトシに、駒形は少々照れつつ答えた。
達成感はまるで無いものの、感謝されて悪い気分にはならない。まして世界を救った感謝などと、普通の人間も普通でない人間も一生受ける機会はないだろう。他人に自慢してもどうかしていると白い目を向けられるだけだが、胸の奥にしまっておく思い出としてはなかなかだった。
週末の、金曜日の夜に遭遇した、ほんの一握りの不可思議な救済。
「この後エンディングが流れますが、ご覧になりますか?」
「いらん」
「そうですか……スタッフロールに合わせて五魔将軍が魔王の元に集い戦う理由となったそれぞれの悲しい過去や、滅びの際にあった魔族を救う為に魔王が立ち上がる決意のシーンといったバックグラウンドが表示される凝った作りなのですが」
「全部倒し終わってからそういう事情明かすのやめろや」
本当に倒して良かったんですか?と岬が聞いてくる。駒形としては知らんと答えるしかなかった。おっさんに聞けと言いたいところだが、モニター内のナカトシの姿は徐々に薄れていきつつある。
「名残惜しいですが……どうやら、そろそろお別れの時間のようです」
「消えちゃうの?」
「眠りに入るだけですよ。私は電子妖精ナカトシフトロウ。いつかまた、どこかの世界が危機に瀕しているその時、人々の慟哭が私を呼び覚ますでしょう。それではごきげんよう、星の彼方の救世主よ。駒形さんも岬さんも、どうかお元気で……」
ぷつん、とまるでテレビのチャンネルを切り替えた時のように、ナカトシの姿はモニターから消えた。
太った中年男のいなくなった画面には、中断していた仕事のソフトが元通り映し出されている。まるで、一連の出来事など最初から無かったもののように。事実、無かったと考えるのが正常かつ常識だろう。集団での白昼夢を疑いたいところだが、生憎と今は真夜中である。
駒形も、岬も、軽く放心気味に画面を見詰める。低く唸るようなパソコンの音がやけに耳につく。少し、汗をかいていた。
「……終わりましたねー」
「……終わったね」
「終わりましたねー……」
「終わったな……」
終わった。
駒形はぎしりと椅子に凭れかかりつつ、首を反らせて壁の時計へと目をやる。今から残っている分に大急ぎで取り掛かるとして……仕事だけは日付内には片付く。が。
うん、終電、無し。
「……タクシー代、割り勘でいかがです?」
「……お願い」
現状を正しく認識して虚ろな目になっている岬からの提案に、一も二もなく駒形は乗る。そういえばお互い家が同じ方角だったという事を、今になって意識した。この際タクシーに乗り込む前に、世界を救ったささやかな祝杯をあげに誘ってみるのもどうだろうか。断られるだろうか。
とにかく、まずは中断していた仕事を終えてからだ。青白く明滅する蛍光灯の下で、ふたつの人影が慌ただしく動き始めた。