前編
週休二日制とは何だったのか。
いや、明日が休日である事には間違いない。社則に従って、土曜日と日曜日は家で過ごすよう定められている。しかし肝心の金曜夜の帰宅が終電に食い込むか食い込まないかという時刻に迫るようでは、せっかくの休みの喜びも半減するというものではないだろうか。
明日からの自由な二日間に思いを馳せつつ、ソファに体を横たえジャズなど流しつつブランデーグラスをゆったりと傾ける。それでこその週休二日、それでこそのフライデーナイトと呼べる。現在暮らすアパートの部屋にはソファもブランデーグラスも無い訳だが、そこはそれ。お手頃価格で購入した座椅子と、背丈は低いが広めのテーブル。そして週末のみと決めている缶ビール2本があれば、必要にして充分というやつなのである。
とはいえこの調子では、小さな桃源郷に浸れるのはもう暫く先になりそうだった。
「駒形さん、コーヒー飲みます?」
「そのコーヒー一杯分の時間だけ帰るのが遅くなるんだ」
「飲まないんですね」
「飲む飲む。ぜひお願いします」
手を合わせて拝む駒形に、岬が笑ってコーヒーカップを差し出す。ミルクと砂糖は断った。ラストスパートへの気付け薬としては、この苦さが丁度いい。
彼女、岬は駒形の一年後輩に当たる社員で、今夜は同じく残業で居残っている。どちらが先に担当分を終えられるかは、現状、彼女の方がやや優勢といったところ。
早く帰りたいのは同じだろうに、貴重な時間を割いて淹れてくれた一杯のコーヒーに感謝しつつ、駒形は再びモニターに向き直ろうとしたのだが。
「あれ? それ何です?」
先に、岬の発した声が耳を打った。怪訝そうな視線は、今まさに駒形が見ようとしていたモニターに向かっている。
画面ほぼ全てを占める程の大きさのウインドウが開き、その中央に一人の人物が映っていた。背景は透明感のある青一色。机と名札こそないものの、この素っ気なさは政見放送に通じるものがある。
だがそこに立っているのは、お世辞にも国民の支持を集めそうな人物には見えなかった。顔も首も肩も腕も胸も腹もでっぷりと肉がつき、着ている白いワイシャツをはち切れんばかりに押し上げている。腰から下は見えないが、どうなっているかは容易に想像がついた。頭髪は極めて薄く、剥き出しになった頭頂部から額は油っぽい汗でてらてらと艶めいている。手入れなどしていないもじゃもじゃの眉毛。黒ずんだ毛穴の目立つ鼻。端の方を思い切り剃り残している髭。軽くつつくだけでぶるぶると震えそうな丸く弛んだ両頬が、これら全てをまとめて謎の安定感を与えている。
頬と顎と首の境目が不明瞭なその中年男は、賛美歌でも歌うかのように両手を胸の前で組むと、太い声で唱え始めた。
「……ますか……聞こえますか……私の声が……。お願い……この声を聞いた御方……どうか、どうか世界を救って……!」
「………………」
「………………」
だいぶ強烈な光景である。端的に言って、目にくる。
成り行きを見守っていた岬が、駒形に半目を向けた。
「こういう事をやってるから、コーヒーと関係なく帰るのが遅くなるんですよ」
「いや知らない。知らないぞこんなの。何だこれ」
どうやら仕事をサボってネットで遊んでいたと誤解されているらしい。我に返った駒形は慌てて違うと弁明した。
嘘ではない。今の今まで彼は真面目にコツコツと残業分の仕事をこなしていた。第一、コーヒーを受け取って注意が逸れるまで画面にこんなものは映っていなかったのだ。
勝手に映ったんだよと言うと、岬は変な顔をした。
「広告かな? あとウィルスとか」
「セキュリティソフトは入ってる筈だけど」
詳しく知っている訳ではないが、社内のパソコンには全て入っている筈である。とにかく切ってしまおうとマウスに手を伸ばした、その時だった。
「お待ちください、私は怪しいウィルスや広告といった類の存在ではありません」
「うわあ!?」
「ひぁ!?」
喋った。というか否定してきた。誰よりも怪しい奴が怪しい存在である事を。
声よりも、こちら側へ向かって手を伸ばして押し留めようとしてくるその動きに、二人は驚かされる。タイミングが偶然合ったにしては出来すぎだった。
「やっぱりウィルスですよ」
「とりあえず消して、明日……は誰もいないか。週明けに相談しよう」
「ですから違いますってば」
尚も喋り続ける中年男を無視して、駒形はウインドウを閉じようとした。
が、閉じられない。クローズボタンの類がどこにも見当たらないのだ。戸惑うようにマウスカーソルが画面内を彷徨う。ならばタスクキルをとキーボードを叩き、今度こそ駒形は眉を顰めた。一切の操作を受け付けてくれない。フリーズしたのとも違うようだ。となればやはりウィルスか、次に疑われるのはハッキングである。
駒形はそうした分野に特別詳しい訳でもなく、こんな会社の社員用パソコンをハッキングして何のメリットがあるのかは分からないが。
「ユーチューバー……?」
「馬鹿な騒ぎを起こす連中もいるけど、さすがにこんな大それた真似はしないだろ」
「あれは自分の立てた企画を見に来てもらう放送でしょう、これは他の世界を救ってもらう為の通信です」
また中年男が会話に割り込んでくる。こうなるともう、映像のタイミングが偶然合っただけとは考え難かった。
岬の視線に促され、駒形は仕方なく中年男に向かって話しかけた。
「……えっと、会話できてます?」
「できています。声、よく聞こえていますよ」
「ウィルスなのかハッキングなのかは知りませんけど、今すぐコレやめてください。警察に通報しますよ」
「何度でも繰り返しますけれど、これはウィルスでもハッキングでもありません。切羽詰まった救援要請です。だいたいそちらのパソコン、マイクもないのにこうして会話できているのを不自然には思いませんか」
指摘されて、初めてぞっとした。
駒形が横に立っている岬を振り返る。岬は激しく首を横に振った。確かめるまでもなく、個人作業を行う為だけのオフィスのパソコンに、双方向での会話を可能とする機器は接続されていない。
「私は電子妖精、ナカトシフトロウ。この宇宙に存在するあらゆる世界を監視し、危機にある世界へ救いの手を差し伸べるもの」
「中とシフト……何だって?」
「ナカトシ・フトロウです。文字にするとこのようになります」
画面下部に数秒間「中年太郎」のテロップが安っぽい白フォントで表示されて消えた。ただそこにあるだけの字面が例えようもなく物悲しい。
「その字でその読み方するの変じゃない?」
「考えてもみてください。チュウネンタロウと呼ばれるのとナカトシフトロウと呼ばれるのと、どちらがまだマシなのかを」
「どっちも嫌なんだが」
「嫌でもどちらかを選ばないとならない局面が多いのですよ、年齢を重ねていく過程では。ともあれ要件をお伝えしましょう。今、この地球から遠く離れたひとつの世界が滅亡の危機に瀕しています。私はこれを回避するべく、全宇宙を網羅するネットワークを通じてこうしてあなたに語り掛けているのです。お願いです、どうか魔王に支配された異世界を救ってください」
「やべえなこいつ、頭おかしい」
率直な感想が駒形から漏れる。とはいえこれ以上ない程に正当な評価であった為、彼を非難する人間は誰もおるまい。
だが駒形の暴言にもナカトシは殊更気を悪くした様子はなく、どこかから取り出したハンカチで額と地続きの頭頂部を拭った。
「信じて頂けないのは悲しいですが、良くある事です。余計な力を使いたくはありませんが、これも良くある事です。私の話が嘘ではないと、どなたでも一発で認めざるを得ない光景をお目にかけましょう。夜も遅いですしね」
何を、と駒形は問おうとした。問おうとして、出来なかった。
ハイッ、とナカトシが奇妙に甲高い掛け声を発するや、周囲にあった椅子という椅子が一斉に宙へと浮かび上がったのである。
いや、浮いているのは椅子だけではなかった。ファイル、電話、観葉植物、果ては置きっぱなしになっていたのど飴の袋まで、およそオフィス内にあるありとあらゆる物体が、駒形の机を除いてふわふわと宙を漂っている。岬が悲鳴をあげた。駒形は反射的に椅子から立ち上がりかけ、足をもつれさせて再び尻から椅子に落ちる。
恐慌状態に陥りかけた二人の耳に、再び、ハイッ、というナカトシの高い声が響く。途端に、浮かんでいた備品類がばらばらと床に落ちた。横倒しになった椅子がひょこりと起き上がり、こぼれた土は自ら植木鉢に戻り、ばらけた筆記具は体操選手のようにひょいひょいと軽やかに跳躍して各自の机の上へと飛び乗る。
10秒もかからず、オフィス内は何事もなかったように元通りの光景を取り戻していた。
それは正しく、元通りの光景であった。床に散らばったペンは、浮かぶ前と寸分の狂いない角度でペン立てに収まっている。
「信じて頂けましたか? 驚かせてしまったのはお詫び致します。ですが、不可解な現象を宣言してから発生させるというのが最も手っ取り早い手段ですので。そして納得頂けたのなら、世界を救うのにご協力頂けると幸いです」
中年男は相変わらず落ち着き払っているが、オフィス内の空気は一変していた。駒形も、岬も、これまでの呑気な対応が嘘のような怯えきった目をモニターに向けている。
何もかもが分からない。今の現象は一体何なのか。何かの手品なのか、仕掛けなのか、それとも超能力なのか。はっきりしているのは、とんでもない災難に巻き込まれてしまったという事だけだ。
視界に、オフィスの出入り口が映る。今すぐにドアまで走れば逃げられそうなのに、動けない。逃げるのに失敗したらどうなるのかという恐怖が、駒形の足を竦ませてしまっている。心臓が脈打つ。腹の中が冷たい。全身が石のように強張っている。急速に乾いていく口の中で、それでも駒形は何とか声を絞り出した。ひどく不格好な、上擦った声だった。
「……こんなに凄い事ができるんなら、自分で救ったらいいじゃないですか」
「私は中継専用の窓口みたいな存在ですから、世界と世界を繋いでやり取りさせる事はできても、直接の干渉となると然程の仕事はできません。皆さんからすれば信じ難い光景だったでしょうけれど、椅子を浮かべて戻してみせても敵は倒せませんから」
「じゃ、じゃあ、世界を救わせるにしたって、その滅びそうっていう世界の人間に力を貸すのは? 何もただの会社員の俺じゃなくたって……」
「あの世界の敵……魔族と呼びますが、彼らにはあの世界で生まれた人間の攻撃が一切通用しないのですよ。異世界からの力の干渉でなければダメなのです。ですからこうしてやってくれそうな方を探していたと」
「そんなのアリかよ……」
「力を向こう側に届けるところまでは、私が責任をもって請け負います。あなたが戦う意思を示してさえくだされば、難しい手続きや長時間の拘束、命の危険などは一切なしで救世主に、ええ」
そんな事を言われても気軽にやりますと答えられる訳がない。簡単、危なくない、損しないといった謳い文句は一切信用するなというのが社会の常識だ。ましてや異世界だの魔族だの、引き受けた瞬間に死ぬかもしれない。どこかへ飛ばされて帰ってこられないかもしれない。モニター内の中年男の言葉を保証するものが何もないこの状況で、即座にはいと頷ける奴がどこにいる。
「……やらないって断ったら?」
「その場合は仕方ありませんが、落胆のあまり椅子が一斉に隣の女の子に飛んでいって流血沙汰になり、同時に近場の警察へ解析して合成した彼女の声で通報がいくかもしれません。駆け付けてきた警官が目にするのは、オフィスの中央で血の海に沈んだ彼女とあなたという分かりやすい構図になります。電子妖精がサイコキネシスかましたと説明するのはご自由ですが、あまり推奨はできませんね」
「仕方ないと言いつつ脅迫するんじゃねえ!」
「あ、あの……」
交渉材料としてターゲットされたのを理解した岬が、震える声で呟いた。顔色が青い。瞳が完全に怯えきっている。
「ああすみません、そんなに怖がらせるつもりはなかったのです。なにぶん私も、あなたを逃したら次を見付けられるか不明な為に必死でして。しつこいようですが、引き受けてさえ頂ければ難しい作業ではないのです。簡単になるよう私が念入りに調整しています。あちらの世界で剣を握って戦ってくれなんて無茶は求めません。そこの椅子に座ったままで出来ます。体調への影響もなし」
「んな事言われてもさ……あとこれでも仕事中なんだけどな……」
「そんなにお時間は取らせませんからお願いしますよ。残業時間を幾らかこちらに使って頂けるだけで、ひとつの世界が救われるのです。世界ですよ世界。将来絶対に自慢できます、パパは世界を救ったんだぞと。いかがでしょう、何という事のない日常をあなただけの記念日に変えてみるのは」
「宝石会社のCMみたいな提案してくるなよ。あと俺が子供だったらそんな親とは絶対に距離置く」
「先輩……」
心細げに岬が呟く。先輩というのが自分を指していると、駒形は一瞬遅れて気付いた。
そうだ、入社したての頃は直について仕事を教えていた俺を、先輩と彼女はたびたび呼んでいた。学生のようだし、会社では名字で呼び合うものだからと何度か注意したら収まったが、まさかここで再び聞く事になるとは。
岬は泣き出しそうになっていた。世界や魔王といった荒唐無稽な単語ではなく、先程の脅しめいた通告を怖がっているのだろう。それはそうだ。仮に実行された場合留置場行きになるのは俺だろうが、痛い目に遭うのは彼女である。
ひとつ深呼吸をして、駒形は決意を固めた。冷静に考えれば、これほど馬鹿らしいものもない決意を。
「わかったよ、やるよ。……これ会社的にはサボりだよな」
「世界を救う偉業です、誇ってください。あなたが上司に弁明している時、そこに私はいないでしょうが」
「ちょっと感動的な表現っぽくしてるんじゃねえよ。でも本当に誰でも簡単にできるんだろうな? 俺の体に悪影響とかもないんだよな? その異世界ってとこに飛ばされたりもしないよな?」
「ありません、小一時間の作業で済みます。多少の疲労は残るかもしれませんが、一晩眠れば取れる程度でしょう」
「……そのくらいなら、まあ。ああ、くそ、何だよこれ。何が小一時間で救える世界だよクソっ、無茶苦茶だろ!」
「先輩……ごめんなさい」
「岬さんのせいじゃないよ。あと先輩はやめてな、学校じゃないんだから」
駒形が笑って言うと、岬はぎこちなく微笑み返した。その笑みに、彼は少しだけ柔らかな気持ちになる。本当に世界が救われるかどうかは未知数だが、ひとまず目の前の同僚を目下の危機から救う事はできた。
「それにしてもさ……もうちょっと見た目何とかならなかったのか? こう、未来人とか宇宙人っぽい格好してるとか、ファンタジーっぽい衣装の魔法使いとかお姫様とかさ。それなら話にも多少は説得力が出ただろ。なんでただの襟に茶色い汗染みがあるバーコード頭の太ったおっさんなんだよ」
「力を世界への干渉に限界まで割り振ったので、容姿に使えるリソースがこれしか残っていなかったのです」
「どれだけヒエラルキーの下部に位置してるんだよその外見」
「あなたもいつか身をもって分かる日が来ますよ」
「やめてくれお願いだから」
事が始まってから最も切実な懇願であった。
未来という現実から目を逸らしつつ、ひとまず目の前にある世界救済が幕を開ける。