第611話 √c-23 わたせか 『十月五日』
十月五日
下之君が風邪を引きました。
それを知らされたのは意外にも……いや本当は意外でもなんでもないけど巳原さんからでした。
それはもちろん同居していれば同居人の出欠など分からないわけがないのですが。
私こと委員長であり嵩鳥も他のクラスメイトも皆が実は知っている、下之家に巳原さんが住んでいるという事実。
しかしこのクラスでは巳原さんはあくまで至って普通の存在、注目の的となる存在ではなく、更には女子だというのに女っ気の無さが輪をかけています。
つまりは下之君の家に住んでいることはクラスでは周知の事実ではあるものの、果てしなくどうでもいいことだとクラスメイトには思われているのでしょう。
それが篠文さんや姫城さんだったら話は違ってくる、おそらく下之君はクラスどころか学校中の男子に八つ裂きにされていてもおかしくはないと思います。
……まぁ人望もあり人気の高い生徒会役員の姉を持ち、美少女留学生クランナさんとアイシアさんが住んでいる時点で男子からは本当のところは快く思われていません。
しかしそれを下之君に悟らせないように、意識させないように”この世界は出来ている”と言ってもいいですね。
それは下之君が無意識に”作り出した”自分を守る術なのか、それとも根っからの弟好きである姉による政治力なのか、はたまたアイシアさんが”管理”した結果なのでしょうか。
あくまで私の想像であり実際のところはは分からないが、下之君はシナリオ上の都合以外ではある程度守られているのです。
と、まぁそんな裏事情は置いておいて。
下之君が欠席の事実を知ったのは、巳原さんほか下之君に好意を抱いているであろう女子グループの会話からでした。
訳知り顔でここまで世界のことや話してきた私ではありますが、今後の展開を知っているわけではなくて初見プレイ状態だったりします。
元となった井口さんの書いたシナリオのゲームなんてやったのは大分前でうろ覚えだし、更には現実に即した改変によって展開が異なるのですから。
そして……眼鏡を外したことで見えるのはあくまで”現在”と”過去”の情報ですから、未来のことは私には分からないのです。
だから下之君が風邪をひいたということ自体に新鮮な気持ちで驚きました。
……というか昨日の今日なことを思うと風邪をひく要因ってどう考えても、昨日雨に降られたからですよね。
同じ状況下にあった私は何故にピンピンとしているのか、遺憾の意を……。
確かにギャルゲー的発想で考えれば分かることではあったと思うのです。
だって雨に降られた描写とかあった時点で完全に風邪からのお見舞いフラグですよね!
使い古されたテンプレート、とりあえずそういうイベントを入れておけという執筆者の引き出しの少なさ。
……井口さんを批判してはいませんよ? 別の誰かでもありません……あくまで一例ですから、あくまで。
だから雨イベントの後に私か下之君のどちらかが風邪をひくのは規定事項のようなものだったのです。
もしそんな描写しておいて何のことはなく翌日双方登校したら”雨降られた意味ないじゃん!”とツッコミを私たちはしていたと思います。
そうこの雨降りからの風邪イベントはお見舞いに家に行くという、ごく自然に意中の相手の家に侵入できる機会なのですよ!
少なくとも脈略もなく「私が家に行っていい?」という間柄ではまだ無いですから……自分で言っていて悲しくなってきました。
と・も・か・く!
下之君のお宅訪問決定です。
「イイカツしましょうか、下之君」
「仮に病人にも委員会活動を強いる嵩鳥は流石だな……げほげほ」
イイカツ=委員長活動と認識する下之君も流石だと思いますよ。
私は放課後一度家に戻ってから下之君のお見舞いに向かいました。
なぜ学校から直行しなかったというと――篠文さんや姫城さん達とバッティングしない為です。
彼女らが下之君の家を出たの見計らって私は訪れたのでした。
……というかその二人以外にも愛坂さんとか井口さんも来たせいで大分時間がかかったのですが。
井口さんはともかく愛坂さんは別にフラグ立ってないでしょうに何できたんですか、ナチュラルにおモテになっているんですかね下之君さんは。
そうこうあっておそらく最後のお見舞いとなった私はミナさんにあっさり家に入れてもらったのです。
思えば小学生ぐらいから同じクラスメイトを続けてから数年、繰り返される今の世界では幾年かかってようやく下之君の家にお邪魔することになりました。
……本当に私って下之君と接点なかったんですね。
下之君のことを観察して小説に書いていた頃から、私も機会があれば下之君の家を訪れたいとは思っていたのです。
しかし本当にキッカケがありませんでした、私の好奇心はあくまで一方通行で、いつしか生まれた好意でさえ片道切符だったのです……この表現は微妙ですね。
だから……ただ単にナレーションしてきて、デバッグもしてきて部屋の内装は知り尽くしている私でもこうして自分の足で下之君の家に足を踏み入れるというのは――感慨深いものなのです。
「悪いけど今日は休みにしてくれ」
「流石に私もそこまで鬼じゃないですよ。はい、お見舞いのカレーパンとドクター●ッパーです」
「お、おう……俺の好物だけどもこの風邪症状にはなかなかヘビーだぜ……。それでも気遣ってくれてありがとな」
「どういたしまして。下之君の好物を覚えているというのはなかなかに好感度高いと思うので、よしなに」
「……風邪症状のこと完全にスルーしたな嵩鳥」
まぁカレーパンも賞味期限は数日後のものですし、明日にはきっと食べられると思います。
それとは別に買ってきたのどごしの酔い……じゃなかった、喉通りが良いカップゼリーをミナさんに冷蔵庫に入れてもらっているのは秘密です。
「…………」
私は何気なく下之君の部屋を見渡します。
男の子の部屋にしては片付いていますし、掃除もこまめにしている印象です……それもナレーションで知っていることですが。
やっぱりナマは違います……この言い方は語弊があるので言い直すと、自分のこの目え見ると確かに違うのです。
「……なんか俺の部屋気になるのか」
「はい。好意を抱いている男の子の部屋というのは気になります」
「ぶっ……そういうことさらっと言うのやめてくれ、嵩鳥相手でも心臓に悪い」
「私相手ってなんですか、こう見えても女の子なんですよ私」
そりゃあメガネ外した巳原さんや篠文さんや姫城さんには完全に負けるけど、私もそこまで容姿は悪くはない……はずですし。
「まったく女の子を自分の部屋に連れ込むなんて嫌らしい人ですね」
「それは冤罪だろ……げほっげほっ」
「あ、ごめんなさい。長居しすぎましたね……じゃあ私はこれで――」
さすがに風邪で体調の芳しくない下之君の部屋に長く居るのは良くないですから、と立ち上がり部屋を出ようとしたその時――
「あ、嵩鳥」
「……なんですか?」
私を下之君が呼び止めました、珍しいこともあるものです。
「……嵩鳥がいいなら、ちょっと話相手になってくれないか」
「え」
「いや、そうだな……風邪うつすから良くないな。やっぱりなんでも――」
私はそうして下之君のベッド横のカーペットに座り直しました。
「いいですよ、私でよければ」
「……ありがとう、嵩鳥」
意外も意外です。
なぜ私なんでしょうか、私なんかでいいんでしょうか、本当は篠文さんとかの方がいいんじゃないでしょうか。
「嵩鳥、あのさ」
「はい」
そうして話すのは何のとりとめもない話でした、これまた世間話。
風邪をひいて苦しそうな今話すことではないようなことでも、下之君は話すのです。
違うかもしれませんが思い出します。
風邪をひくとどうにも心細くなるもので、いつもの何倍も母親が恋しくなり甘えた幼い頃。
当時ギャルゲーライターの母が書いていたギャルゲーのプロット音読を眠り歌にしていた思い出……特殊例すぎました。
言葉を返したり、相槌をうったり、面白く思って笑ったり……ありふれた、何の変哲もない世間話が続いたのです。
でもそれが私には少し嬉しくて、委員会活動でもここまでほぐれた世間話というのはしなかったもので。
今下之君が風邪をひいて、手近にいた私で寂しさを晴らしていたとしても――喜ばしく思うのです。
そんな世間話は変遷していき、あるタイミングで内容がガラリと変わったのです。
「……なぁ嵩鳥、俺怖くてさ」
「何が怖いんですか?」
下之君は風邪の症状も手伝ってか弱気でした、私にそんな顔を見せるのも初めてのことでした。
いえ……下之君自体、意外にも本音を語らない人なのです。
抱え込んで自分の中で解決しようとして、その一方で親しい人間の抱え込んでいるものを背負ったり一緒に考えてくれて、解決しようと力をかしてくれる。
自分よりも親しい人間を優先するような、気にするような人なのです。
「例えば……家が近いっていう共通点でいつしか仲良くなって……友達になって……それから気になるようになって」
「はい」
「それで例えば好きになって……それで告白して……」
「はい」
「俺の前から居なく……なるのが怖い」
「…………はい」
分かっています、私は分かってますから。
上野さんに告白してすぐに去られたことが、下之君の心に大きく傷を付けていることを私は知っているのです。
突然に唐突に、何の前触れも音沙汰もなく、何も言わずに何も示さずに、自分の目の前から消えてしまうことが怖くてしかたないのです。
「きっと今のクラスメイトだって……気づいた頃には疎遠になってるだろうし」
「……」
「姉ちゃんだっていつかは好きな人を見つけて家を出ていくだろうし」
「……」
「いつしか俺は一人になるんじゃないかって、一人ぼっちで死ぬまで生きることになるんじゃないかって」
「……」
「誰からも忘れ去られて、目の前に誰もいなくなって、ただ一人……一人で生きていくんじゃないかって」
「……」
そんなことには……ならないと思います。
下之君は気づいていないだけで、知らないだけで多くの人に囲まれて愛されているのですから。
「でも行動を起こして振られるのもきつい……嫌われるのも辛い……けど、また! 俺が行動を起こした途端に、その人が俺の前から綺麗さっぱりいなくなるんじゃないかって……!」
「……」
「それが怖くて仕方ないんだ。でも一人は寂しくて辛いのは分かっていて、それでも俺はどうすることも出来なくて……」
下之君は、拒絶を恐れている。
振られることも、嫌われることも――彼の目の前から姿を消すことも。
下之君はそれを異常に怖がっている。
でもそれはきっと――
「振ってくれれば……よかったのにな。いっそ嫌いとでも言ってくれたほうがよかったのにな」
私が知らない前提としては意味の分からない話。
でも知っている私には、痛いほど分かってしまうことで。
上野さんに受け入れられもせず、振られもせずに目の前から突然姿を消され宙ぶらりんにされてしまったことが――下之君の深い傷になってしまっている。
「嵩鳥が冗談でも好きって言ってくれるのは嬉しいんだよ……嬉しくても」
冗談、ではないんですけどね。
私が照れて、ヘタレて、真面目になれないだけで。
「怖い……嵩鳥にいつか見放されて、いなくなるのが怖い」
……失礼な話です。
こう見えても私、下手すれば十年単位での好意なのですけれどね。
更には委員長やナレーションという形であっても、下之君の近くにずっと居たつもりなのですけれど。
まったく、下之君は怖がりすぎです。
「私は……例え下之君と友人関係であっても居なくなりませんよ。進路が違ったとして会い辛くなってもメールや電話がありますから」
少なくとも私は下之君が私を単なる一人のクラスメイトではなく、友人としてなら高校卒業後も交流はあったはずです。
「……本当か?」
「はい、私はずっと前からあなたが好きで。すっと先で再会してもあなたへの想いは変わらなかったのですから」
「…………そう、なのか」
私が下之君を好きになったのはいつの頃だったのでしょうか。
たぶん少なくとも中学生まであくまでもクラスメイトでしかなかったのです。
メガネを外して、下之君のことを知るようになってからはきっと――
「はい、安心してください。仮に一度は離れても――きっと出会うはずですから」
高校卒業から数年後の、あまりにも偶然な出会いを以て。
「そっか……そうなら、嬉しいかもしれない……な」
「はい」
「………………すぅ」
下之君はそうして眠りに落ちていきました。
熱に侵されていつもは表面に出ない寂寥感や恐怖の感情が大きくなり、偶然にも手近にいた私相手でも紛らわす為に話をしたのでしょう。
たまたま私がここに居たから、それだけなのです。
それでも、そうだったとしても……。
「おやすみなさい、下之君」
下之君があまり人には見せない弱さを、自分の口から話してくれたのはいくらか嬉しく思うのです。
下之君はこの世界の主人公です。
人によっては悩みや問題を解決してくれる救世主か、はたまたヒーローか。
でもそれ以前に一人の人間であり、普通の男の子でもあり、人知れなくてもある弱さを持ってもいるのです。
それを私は知っているからこそ、そして今日は下之君の口から話されて知れたからこそ――彼のことが私は好きなのです。
「また学校で」
そうして私は下之君の部屋をあとにしました。
きっと明日には下之君は登校してくることでしょう。
今日私に打ち明けたことを覚えているかは微妙なところですが――私は今日の出来事を忘れることはないと思います。




