第430話 √b-15 神楽坂ミナの暴走!
それは黒の世界だった。
暗幕で囲まれた部屋にただ一人棒立ちしているかのような感覚だ。
地の感触が曖昧で、果たして絨毯の上なのかフローリングの上なのか、畳の上なのか、なかなかどうして分からない。
何も聞こえない、何も匂わない、何も見えない。それでも自分の存在は確固として認識出来ていたのだ。
その時の疑問でふと自分が「夢の中」にいるのだと、突然に自覚してしまっていた。
反転。白の世界へ。
それは白の世界だった。しかしのその白色はすぐさま変容を遂げていく。
人が二人すれ違えるほどに広すぎず狭すぎずな幅で、ベージュの壁紙に縁取るように天地に木製の角棒が嵌めこまれている廊下。
後ろをふと振り返ると四十五度の角度で最初の数段は下っていくフローリングの階段が続く。
それらは背景で、そして少しの前を置いて遅れるようにして登場人物が全体的に輪郭から濃くなっていくようにして現れる。
「(っ!)」
俺はその登場人物に見覚えがあった。否、覚えていないはずがない。
あくまでそれらの情景は我が家の二階であり、そして俺の立つその場所は階段のすぐ手前なのだ。
そして、彼女は――
「……ユウ兄」
下之ミユ。俺の純粋な妹としては唯一無二の存在だ。
前髪は姉貴に習うのか、少し長めに。かなり艶の落とされた黒髪が腰上までストレートに放られている。
少し吊り目がちが特徴的な、兄贔屓を抜いても美くしく整った顔。至って平凡な面の兄こと俺と兄妹に見えない、姉貴から面影を探した方が手っ取り早いだろう。
そんなミユが目の前にはいた。俯き前髪に表情を隠していた。
そうだ、この場面は。
「……どうしてっ!」
顔を上げて叫んだ、見えた表情には泣き腫らした痕があった。
「ユウ兄はなんで――したのっ! そんなことしなかったら、しなかったら! 絶対壊れなかったのにっ」
訴えるような面で、非難の言葉で。
「サクはいなくならなかったのにっ!」
サク。そう、それはミユにとっての彼女の呼び名であり愛称だった。
俺とミユと姉貴の本当の幼馴染で、俺の――初恋の相手。上野サクラのことだ。
しかし俺は愚かにも関係を崩すことをわかっていたとしても、その衝動は抑えきれず、結果はミユの言う通りだった。
「…………」
俺はその時、ショックを受けていた。自分自身精神はドン底だった。彼女がいなくなったあの日から、誰とも話す気になれず、あること以外に何もしたいと思えなかった。
俺は一階で彼女の家に電話をかけていた。
もちろん電話は繋がることはなかった。彼女がいなくなったあの日からもう何十回もしていることで、結果がわかっていないわけじゃなかった。
それでも機械的に、わずかな希望を求めるように電話をかけ続けていたのだ。
その帰り、無気力に自分の部屋へと戻ろうとしたその時に出くわしたのがミユだった。
「……なんとか言いなさいよ。なんでっ、なんでってば!」
今思えばミユも相当にショックで、ヒステリックになっていたのだろう。その時の俺は無気力ながらもその非難の言葉が声が胸にずぶりと突き刺さっていた。
だが俺は答えなかった。堪えるのみだった。
「なんで……そんなことするの……どうして……っ」
ミユの泣きはらした瞳から再び一滴、そして。
「きらい……ユウ兄なんてだいっきらい!」
マネキン人形のように棒立ちして地面を踏みしめていない俺の身体は少しの衝撃でぐらりと動く。
例えば右肩を軽く押されただけでも、面白いように後ろへと体の体重は進ませてくれるのだ。
ミユはそれほど力をいれていない、むしろそれまでの言葉が、そして最後の言葉が衝撃だったといえよう。
ここは階段の手前、俺の身体はまっすぐに四十五度の角度で曲がる数段の階段の壁へと衝突した。
それから勢いは収まることなく壁に体が擦られるようにした痛みを体のあちこちに感じながら階段を落ちていく。
最初の壁に後頭部、次に階段の段に背中や腰、壁に腕と足を削り取るように。何度か段に後頭部に衝撃を受ける内に意識が遠のいていくのが分かる。
その時視界に捉えたのは、身を乗り出して放心しながら俺を見下ろすミユの姿。
そしてその表情はみるみる青みを増していき、終いには。
「いやあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
泣くように、叫ぶ。その音が最後だった。聴覚がプツリとミュートにされたかのように面白く切断され、視界はテレビが寿命を迎えてブラックアウトするかのように黒に染まる。
そして意識は闇に沈む。
反転。黒の世界へ。、
四月二八日
「…………あぁ」
目覚めは最悪だった。夢の内容も最悪だった。
「そうだったよな、覚えてるさ」
その夢は記憶。確かに頭の中に残る記録だった。
それは俺がサクラに振られ、サクラが消え、ミユが悲しみに狂うように俺へ非難の言葉を連ね、そしてミユに押されたことで階段を転げ落ち。
「それからしばらく……」
入院したっけ。姉貴が泣きながらベッドに寄り添う光景を覚えている。
そしてその頃からミユは、
「……って姉貴はいないのか」
忘れそうになる、その事実。しかし今のこの世界の真実は紛れもなくそれなのだ。
下之ユウジの姉貴はこの世にいない。いるのは瓜二つといっていいほどの容姿を持つ「神楽坂ミナ」という同じクラスの幼馴染という存在だけ。
「さてっと、頑張りますか」
姉貴の穴を埋めるように、時計の針が指す六時の頃。俺はキッチンへと駆り出すのだ。