薔薇の聖女と白蓮の冥界王~聖女が幼女となってしまった日の顛末について~
大陸に聖女はひとり。魂はひとつ。百年を生きて、死に、また大陸のどこかで百年の生を受ける。
大陸の聖山に仙宮あり。聖女は日々、民のために祈りを捧げる。その法力は大地を芽吹かせ、雨を降らせ、人を癒す。人は彼女を《涙雨薔薇》――涙のような雨にうたれる薔薇の花と称賛した。
地底には冥界、死者の国がある。冥界王は死者の王である。人は死した後に魂が冥界に下り、冥界で魂を癒し、ふたたび地上で生を得る。冥界王は死なず、地底の宮に鎮座する。人は彼を恐れて、《無明白蓮》――暗闇の中の白い蓮、と呼んだ。
※
視界が滲んでいたのは、雨のためか、涙のためか。よく覚えていない。ただ思い出すのは、ざらついた雨音とともにするりと耳の奥に入り込んだ、あの声。
――あなたもひとりきりのさびしい身の上かしら。
差し伸べられた手が、忘れられない。囁くような、哀切に満ちた声も。
聖女の手は血まみれだった。多くの人々を救うために聖女は肉体の限界を越えて法力を使い、その代償で身体にたくさんの傷がついた。
――ごめんなさい。気持ち悪かったですね。
艶やかな黒髪をした美しい人は、困ったように首を傾げた。
さっさと袖口で手の血を拭い、彼女は今度こそ幼い子の手を取った。手のあたりから温かさが全身に広がり、痛みが嘘のように引いていく。
――もう大丈夫。きっとよくなりますよ。
こちらを安心させるように微笑む彼女に、彼は何と言ったのか。そう、彼は自分のことで必死だったから、怒りを聖女にぶつけていた。
『どうして助けたの。生きるのが辛いのに。父さんも母さんも姉さんも弟も殺された! ひとりぼっちで、これからどうしていいかわからない』
そう、と彼女は俯くと優しく語りかけた。
――生き方がわからないならば、ひとりきりのわたくしのために生きて。
なんて勝手で、わがままな人なのか。見知らぬ人のために生きるという道理はないはずだ。腹の中で憤怒の炎が燃え盛る。
しかし、少し掠れていても耳に心地よい声色は、今でも憶えている。どれだけの年月が経とうとも、『彼女』が何度生まれ変わろうと、胸に刺さった宝石のような棘は今も抜けない。ジクジクと心を苛み続けている。
※
今代の聖女はエリカという名だった。辺境の地で生まれた彼女は、生後間もなく聖女としての法力を顕わし、評判は世間に広く伝わった。
先代の死後、次の聖女を探す仙宮はすぐさま噂を聞きつけ、その赤子を引き取った。聖女は歴代の聖女にならい、仙宮の奥深くで大切に育てられた。エリカは十五の歳に初めて大衆の前に姿を現わし、ここ数百年でもっとも強大だと称えられた法力を披露した。それにより、大陸の各地で頻発していた戦乱も止み、各国の王が大陸を統べる聖女の帰還を祝い、こぞって挨拶に訪れたという。
聖女エリカはとても美しい乙女で、心奪われた男たちが何人も求婚に来たが、聖女はそのどれをも断った。聖女が婚姻してはならぬという法はなくとも、彼女自身が心動かされなかった。聖女という存在には伴侶は不要なのだろう、今までの聖女と同じ道を辿るのだろう、と人々は口々に言った。
本人の耳にもそういった世間の風が届いていたものの、意に介していなかった。特に興味がなかったのだ。大地と会話し、法力を振るい、世界を祝福する聖女の役目を果たすことが自分の生きる意味だと思っているし、彼女自身の魂に刻みつけられた責務なのだから。
とはいえ、雑事を気に留めることもある。淡々とした日々につまらなさを感じ、風に吹かれてきた花びらに目を奪われることもある。特に、ここ数年で傍に侍るようになった書記官イーサンは歴代書記官の中でも非常に口うるさい。口から出た一言目には『聖女らしく』と言い放ち、いつも眉間に皺が寄っていて、不機嫌そう。近くにいるだけで息苦しさを感じる。
「イーサン、せめてもう少し私に優しくしてちょうだい。息が詰まりそうよ。普段、何を考えていたらそんな顔になるのよ」
「……我慢しているもので」
「どんなことを?」
何を我慢しているのか。まさか、エリカに対する怒りだろうか。補足を聞こうと待っていたが、彼はがんとして口を割らない。そもそも口達者そうでもなければ、小さな単語をぽつぽつと口にするような男である。
――何を考えているのか、よくわからない人ね。自分自身のこともほとんど話さないし。仕事の出来はいいけれど、話しかけづらい。
エリカが考えた対処方法は、あえてイーサンの存在を気にしないようにすることだった。淡々と職務をこなすだけ。あえて雑談なども自分から振らず、距離を詰めようともしない。
――実は私の書記官を務めるのが不本意だったりして。
そんなふうに考えていたのだった。
※
聖山にある仙宮。聖女の居室にて。普段と変わらない夜明けの薄明の中、聖女エリカは目を覚ました。白布のかかった天蓋つきの寝台から身体を起こす。手で眼前の布を払おうと手を伸ばせば、手が空を切る。
何か、違和感がある。伸ばした右手を見た。ほっそりと長い彼女の指……ではない。小さな紅葉のような手だった。彼女がそうしようとすれば、指先が閉じ、開く。
急速に嫌な予感が胸の中で膨らんだ。慌てて、寝台から抜け出そうとしたのだが、自分自身の衣服を自分で踏みつけ、寝台から派手に転がり落ちた。
ずきずきと痛む頭を押さえながら、おそるおそる姿見をのぞきこむ。
優雅な装飾が施された金縁の姿見は、変わり果てた聖女をありのまま映し出す。――肩からずり落ちそうな衣服を着て、茫然とした表情で映り込む幼いころの己の姿を。
ぺたぺたと自分の頬に触れ、鏡に映る動きと頬の感触に呆然とした。
いかに強大な法力を誇る彼女でも、幼子の姿に逆行する日が来るとは予想すらしていなかった。
白磁の肌はそのままに、肌に差した血色はまるで薔薇のようで愛らしく、唇はみずみずしいさくらんぼの色で。芸術品のごとき完璧な肢体は五、六歳程度まで縮み。精巧な人形のように整った顔の造作も、未成熟ゆえの愛らしさが前面に出てしまい、要は元の面影が残った別人のような変貌である。
――どうしてこんなことに。昔の私だからかわいい幼女になっているけれど。こんな子が近くにいたら、頭をよしよしと撫でて、お菓子をあげて可愛がりたくなるわね。
聖女は己の可愛さに自覚的だった。
ひとしきり「かわいい幼女のポーズ」を色々やってみた後、昨夜のことを思い出そうと首を捻る。
昨夜は年に一度の大祭で、夜遅くまで宴が行われていた。宴そのものは早々に引き上げたが、自室の窓辺で独り酒を楽しんでいた。お気に入りの林檎酒をがばがば飲んで、瓶を空にし、夜風に当たって涼んでいた。そこから先がわからない。
空になった瓶が相当数、部屋に散乱しているかと周囲を見渡すと、自室はきれいなものだった。だれかが片付けてくれたのかもしれない。
――飲みすぎて、記憶が吹っ飛んだ?
幼女エリカは短くなった腕を組み、もう一度鏡の中の自分を見つめた。あどけない幼女がまじまじとこちらを見つめ返してくる。
――この姿を他の人に見られるのはまずいでしょうね。大騒動になってしまうし、色々と面倒になりそう。
お付きの侍女は泣き虫だから、エリカが事情を説明しても泣き止まないだろうし、神官長は持病の胃痛を悪化させてしまうだろうし、表に出ることもできないだろう。
書記官のイーサンはどうだろう。「何をやっているのですか、ふざけているのですか」と静かに怒り出すかもしれない。
もちろんふざけて幼女になったわけではないが、実際のところ、地上で聖女より法力を持つ者はおらず、聖女に干渉できる者もない。で、あれば、これは自分自身で引き起こしたと思うのが自然だ。イーサンに責められると何となく居心地が悪くなるような気がして、エリカはイーサンにだけは見られないようにしようと心に決めた。
すぐにずれ落ちそうになる衣服を何度か直すうち、ふと思いついて、右の袖を大きくまくる。
――《冥界王の傷》は残っているのね。
《冥界王の傷》と呼ぶのは、肘から二の腕あたりまで広がった傷跡のことだ。溶岩をかき混ぜてそのまま冷やしたような赤黒い傷跡は、彼女が何度生まれ変わろうとも体の同じ部位に現われてきた。今の幼い身体では、痛々しさが増している。
はるか昔、冥界王が聖女を襲った際についた傷だ。その当時は天地の区別も曖昧で、冥界王は頻繁に地上を攻めてきた。冥界王は文字通り冥界の王。聖女と比肩する強さがあり、その冥界王がつけた傷は、身体ばかりでなく聖女の魂に癒えない傷を残した。腕の傷跡はそのなごりである。聖女が百年に一度の「生まれ変わり」を強いられるようになったのは、それからだ。
今となっては聖女が聖女である証ともなっている「それ」を確認し、聖女は元のように袖口を下ろした。
――寝て起きたら元の姿に戻っていたりしないかしら。
鏡の幼女が小首を傾げる。かわいい。
大きなお目目はくりくりだし、これで目を潤ませでもしたら、大人たちはどんなわがままでも聞いてくれそう。
ふむ、と聖女は顎に手を当て考える。そして、衝撃的なことに気付いてしまった。
普段であれば、みなが式典や絵姿で聖女の顔を知っているため、自由には振る舞えない。幼女の姿になった今こそ、気ままに外に出られる滅多にない機会ではないか。
――この機会を生かさない手はありませんね。
ふっふっふ、と自分の思いつきにやける。
そこへ自室の扉をノックする者がいた。状況が状況なので、びくりとエリカは肩を震わせた。侍女がもう起こしに来たのか、と思っていたが。
『猊下。失礼いたします。急ぎで確認していただきたい書類を持って参りました』
金模様が施された木製の扉から男の声が響く。よりにもよって書記官イーサンが来てしまった。緊急で書類の確認をしたいようだが、エリカの身体も緊急事態だ。さすがに出ていくわけにはいかない。エリカは声を張り上げた。
「イーサン。ごめんなさい。悪いけれど、後にしてくれない? 立て込んでいるの」
『……急ぎなのです』
「神官長に代決してもらって。今は本当に無理だから」
『申し訳ありません』
ガチャリ。なぜか扉が開く音がした。入ってよいと言っていないのに。
身を隠そうと慌てて、バルコニーへ続くガラス張りの扉へにじり寄る。その間にも広い部屋を横切るように奥の寝台へ向かう足音が規則正しく聞こえてくる。
「猊下、どちらにいらっしゃるのですか」
しつこさのあまり、さすがに声を上げた。
「イーサン。今は会いたくないの。帰ってちょうだい」
「……なぜです?」
エリカの声を頼りに近寄ってくるイーサンの声が一段低くなる。
彼女はふっと微笑む。ほとんどやけくそだった。
「ないしょ!」
バルコニーへ続くガラス戸を大きく開け放ち、早く早くと駆け出した。背後からイーサンの気配が迫ってくる。この姿が見られる前にと、幼子は法力でふわりと浮いて、たやすくバルコニーの手すりを飛び越えた。手すりの向こうは、空。ひたすら落ちるのみ。
「今日は聖女をお休みしますから。イーサン、後は任せましたよ!」
これから胃が痛くなるであろう書記官に一声かけておく。彼は空のバルコニーを見て、茫然とするはずだろうが、これも仕方ないと諦めてほしい。
仙宮の立地は険しい山にある。エリカの自室は仙宮の奥、断崖絶壁の上だ。
よって、エリカは気が遠くなるほど深い崖の下へ落ちていく。
上を見上げれば、バルコニーの手すりから身を乗り出しているイーサンがいた。その姿もゴマ粒のようにあっという間に小さくなる。とびきり視力がいい彼女にはイーサンが見えているが、イーサン側からはエリカの姿が縮んだなどとはわからなかっただろう。
きっと、仙宮に住まう者みんなを困らせている。冷静じゃない、賢い選択ではなかっただろう。しかし、おのずと微笑みが零れてしまうのだ。
――ああ、どうしましょう。勝手に外に出るのは悪いことなのに。悪いことがこんなに気持ちいいなんて。
聖女は着ている衣を媒介に、法力で風を操った。落下するだけだった聖女の身体が、明らかに飛行する体勢に変わり、燕のように低く滑空した。
こうしていくつかの近隣の山を通り過ぎ、聖女はとある町の外れに着地した。「とある町」とは、聖女自身も適当に目のついたところに下りたため、町の名がわからなかったためである。人気のない草原で、美幼女エリカは大きく伸びをした。
「よし、行ってみましょう!」
気を取り直して、町を散策することにした。
エリカが降り立ったのは街道沿いで栄えている宿場町のようだ。目抜き通りでは朝市が行われている。突き当りに町の中心たる神殿が構えていた。念のため、神官たちのいる神殿に近づかないようにしつつ、朝市の色んな屋台をのぞいていく。粗末な木製の屋台に並ぶ商品は、雑貨や日用品も多いが、圧倒的に食べ物が目立つ。あちらこちらから美味しそうな匂いが漂ってくるし、建物の壁によりかかりながら朝食を頬張る人の姿があちらこちらで見受けられた。
聖女であるエリカはさして食物を口にする必要はないが、食事をする行為は好んでいた。ゆっくり時間をかけて、ひとくちずつ口の中に含み、舌で味わうと、味覚だけが思考のすべてを占めて、他のことを何も考えられなくなるからだ。普段から口さびしくなれば、いつも飴玉を舐めるし、甘いお酒も好んでちびちびと飲んでいる。
――朝市なんて随分久しぶり。この活気はいいわね。
守護している聖女冥利に尽きるというものだ。どれだけ聖女が地上のために働こうとも、細かな理不尽や暴力や嫉妬は消えてなくならないが、人々が明るい顔で動いているのを見ると安心できた。
市場の匂いに釣られ、あちらこちらとひらひらした蝶のように人の波を漂う。お金を持っていないのが心底残念だった。
――だれか親切な人が御馳走してくれたらいいのに。
そんな虫のよい話があるわけもなく。仕方ないのでしばらくぷらぷら歩いていると、
「おや、お嬢ちゃん。どうしたの。ご両親は? 迷子かい?」
屋台の店番をしていた恰幅の良いおばさまが声をかけてきた。急に話しかけられたので驚いてしまい、一瞬、言葉に詰まってしまう。
「あ、あのう……」
「やっぱり、そうかい! みんな、この子迷子みたいだよ!」
おばさまが声を張り上げたのをきっかけに、人だかりができた。
「お、迷子なのかい。嬢ちゃん、お名前はわかる?」
「衛兵に声をかけてみるか。もしかしたらこの子の親が探し回っているかもしれねえよ」
「この辺じゃ見ないようなかわいらしい子だ。ちゃんとしてやらないと人さらいにやられちまうかもしれねえ」
明らかに周囲から抜き出た容姿のエリカは悪目立ちをしていたようだ。
悪人であれば法力で振り切って逃げればいいだけなのだが、親切心で声をかけてくれる一般人には無茶なこともできない。
「ん。……だいじょうぶ! おとうさまがむかえにきてくれるのよ!」
考えた挙句、エリカは適当な嘘をつくことにした。
「どこにむかえに来るって言ったんだい?」
しかし、おばさまを初めとした良き大人たちには心配そうな顔をされてしまう。なるほど、幼女の姿は不便だ。子どもだから信用されにくい。
「えーと、えーと、ね」
困り果てていたところに。
人混みから、ぬっと、陽の光を遮らんばかりの大きな人影が出て来た。
「何をやっている。探していたんだぞ。――エリカ」
エリカの名を呼ぶ者がいた。この場で聖女の名を知る者はいないはず。それも、普段と姿とまるで違うのに。どうして。
心臓がどくんどくんと鼓動を打つ。
視線をゆっくりと上げた。相手の顔がわかるや、思わず感嘆の息を漏らしてしまう。
あまりにも浮世離れした美丈夫だったからだ。
まず目に入るのは銀色の髪。背中から腰へと流れ、光に透けてきらきら光る。目の色は黒曜石のような深い黒。眉も目元もすっきりとして余分な雑味は一切見受けられず、衣服に包まれていてもその四肢は均整が取れていて、力強さがあった。まるで彫刻家が生涯をかけて追い求めた理想の美男がそのまま人間になったかのよう。
――だが、エリカにはその男に見覚えがなかった。
そこらを歩いている町の住民ではないだろう。人間であれば、よほど地位の高い神官か、あるいは。
絶世の美男だが近寄りがたいのは、肌や目に生気が感じられないからだろう。何かがおかしいのだけれども、エリカには人間にしか見えなかった。
「なんだ、不思議そうな顔をして。おとうさまの顔を見忘れたか?」
男は目配せをしてくる。ここは合わせろ、と言いたげだ。
エリカははっとなり、とっさに抱き着いた。
「おーそいーっ! おとうさまっ、エリカはまっていたのよ!」
幼女姿のエリカにも気付く不審者ではあるが、正体は後で確かめればよいと考えた。朝市に集まった善良な人々から逃れる方が先決だし、善良な人々から怪しい人物を引きはがすためでもある。
小さな身体で男へ突進すれば、男は予想していなかったのか、びくっと固まる。
「おとうさま?」
エリカはどさくさにまぎれて男の呼吸を確かめた。胸が上下し、喉仏が動く。彼は普通の人間のようだった。血の気のなかった耳や首筋もうっすら桃色に色づき始めている。
男は石像のようになっていたが、ぎこちなくエリカの頭を撫でた。
「さ、いこ、おとうさま!」
エリカは声を張り上げ、男の袖口を掴む。
「エリカにたくさん美味しいものをかってくれるってやくそくしたよねっ!」
そのまま彼を引っ張り、ぐいぐいと人込みの外へ押し出したのだった。
「うわあ、なるほど。あの娘に、あの父ありというわけか。美形親子だ。寿命が延びる心地がしたぜ……」
「どこの子だろうねえ。高貴な方のお忍びかしら」
町の人たちの興奮した声が背後から聞こえてきた。ひとまず場は収まったようだ。
「それで、あなたはだれですか?」
人込みから離れて、人気の少ない路地に入ると、エリカは隣を歩く男に尋ねた。彼は先ほどから黙りこくりつつも、何度か横のエリカを気にしている素振りを見せていた。
「私を知っているのですか? ごめんなさい、私は忘れっぽいところがありますから、人のことも思い出せないことがあるのです。どこかで会いましたか?」
幼い容姿のエリカがわかるぐらいだ。よほどエリカと会ったことがあると思っていたのだが。
「言いたくない」
男は視線を逸らして答えそのものを拒絶した。エリカは男の視線の先に回り込んだ。
「わかりました。では名前を教えてもらえませんか? そうしたら思い出せるかもしれません」
「……ハンス?」
「なぜ疑問形なんです? 『ハンス』ではないということですか」
彼は否定も肯定もしない。適当な偽名なのだろう。そこまでして名前を告げたくないようだ。『ハンス』という名も、大陸中でありふれた名前である。男の子の名付けランキングを行えば、不動の一位だ。
男の美貌も素晴らしいものだが、着ている服も顔と身体に負けないぐらい上等なものである。男が身に付けた翡翠の耳環もよく見れば、精緻な植物模様が施された見事な品である。
彼にはもっとふさわしい名があるに違いないのだ。
――まあ、いいか。
エリカはそこで思考を放棄した。あの場に男が現われたことは彼女に都合がよかったのだから。助かりました、と一言礼を述べて歩き出す。
「どこへ行く」
「え? もう少し町を見ようと思って」
彼はエリカを見下ろした。正確には、法力で微妙に地面から浮かしているが、ほとんど身体の寸法とあっておらずぶかぶかとなった寝間着を。
町の人から声をかけられたのも、彼女の容姿ばかりでなく恰好も問題だったのだろうが、これは仕方がない。
――イーサンがあんなに早く部屋に来なければ、もう少しやりようがあったと思う。
余った裾をびりびりに破っておくとか。今からでも破っておこうかしら、と布に手をかけようとしたところ、男は「俺も行く」と言い出した。
「服を、買う」
「えぇ?」
「動きにくいだろう」
エリカはここで男と別れるつもり満々だったのだが、そう言われて思い直した。また町の人に心配されて大騒ぎになるのも困るし、男の正体も気になる。たとえ何があろうとも、聖女であるエリカであれば対処できるだろう。
「ならば連れて行ってくださる?」
エリカは男へ向かって右手を出した。その際にぶかぶかの袖がめくれ、《冥界王の傷跡》があらわとなった。
「あ、ごめんなさい。汚いものを見せてしまいました」
「……汚くなんかない」
さっと袖を直したのにも関わらず、男が傷跡のある辺りをじっと見つめていることに気付く。見つめているばかりでなかった、男ははらはらと音もなく落涙しているのである。美丈夫が恥も外聞もなく泣いている……。まるで絵画のような一場面であるが、さすがに戸惑った。彼は醜い傷など見たこともないぐらいの純粋培養で育ったお坊ちゃんだったのだろうか。
「古着屋に行く」
男はぽつんと呟いて歩いていくのでエリカもついていく。
「おとうさま~! まって~! エリカを置いていかないで~!」
周囲の目を欺くための小芝居も忘れなかった。
目抜き通りを歩くうち、二人は古着屋を見つけて店内に入った。
エリカは子ども用の古着をいくつか物色し、かなり綺麗な状態のワンピースを選んだ。袖口は広めで、ちょうど足首まで隠れるぐらいの長さがある。普段着ている服にも少し雰囲気が似ていた。
――かなり上等なものだわ。良家のお嬢さんが着ていたのかしら。
ふと傍らに小さな気配を感じ、横を向く。うすぼけたような色合いをした女の子がじっと立っているのを見つけ、ああ、と納得した。彼女は今、エリカが着ているのと同じ服を身に付けていた。
「お気に入りのものだったのね。ごめんなさい。少しの間、お借りしてもいいかしら。きっと悪いようにはしませんから――ありがとう」
小声で話しているエリカに気付いているはずだが、男は何も言わなかった。――彼にも視えているのだろうか。
「店主。このまま着せて帰ってもよいか」
「はい。もちろんでございますよ」
男は金の入った袋を懐から出すと、迷いなく代金を出した。その際に、エリカはその袋を一瞥したのだが、かなりずっしりしており、かなりの大金を持っていることがわかった。
エリカは店の奥で着替えさせてもらい、古い服は処分してもらうように頼んだ。お気に入りの寝間着であったが、さすがに持ち運ぶわけにもいかなかった。
「おとうさま、どうですか? にあう?」
思いのほか服が気に入ったエリカは調子に乗って店先にいた男に尋ねた。
男は無言ののち、こくりとひとつ頷き……おもむろにエリカの頭に唾広の帽子を乗せた。ワンピースにも似合う白い帽子だ。
「どうしました、これ」
「買った」
これ以上の説明は不要だとばかりに男は歩き出した。エリカは不思議に思いながらも男の隣まで戻ってきた。
「では服も着替えたことですし、また朝市をのぞきましょう」
目抜き通りに行くと、あいかわらず、どこかしこも食欲をそそる良い匂いがふわんと漂ってくる。なにか食べたいな、と物欲しげに屋台を見回していると、隣の男とばっちり目が合った。いや、先ほどから視線が突き刺さっていたからでもあるのだが。男は背丈の低いエリカが人にぶつからないようさりげなく立ち回っている。
エリカは思いついた。――今こそ、美幼女のハイスペックを生かすべし。
「……おとうさま、かって?」
帽子のつばをちょいと摘まんで、あざとかわいく上目遣いをし、甘えた声でねだってみた。すると、「おとうさま」はすっと無表情になり、こくこくと頷いた。
「買い占めてくる」
「そんなに食べられませんよ? あ、あれがいいです」
男はカクカクした仕草で目的の屋台へ行くと、ほかほかの揚げ菓子を買って戻ってきた。エリカは揚げ菓子の入った袋を受け取るも、ちょっと後悔した。あまりにあっけなく手に入りすぎて、逆に不安になったのだ。
男は適当なベンチへエリカを連れてきて座らせた。
「食べろ」
「は、はい」
エリカは細長い棒状の揚げ菓子をもぐもぐと咀嚼し、おいしいわ、と笑みを浮かべた。きつね色をした揚げ菓子に蜂蜜がかかっていて、もっちりとした食感がたまらない。
「あなたの分は買ってこなかったの」
「俺は腹がいっぱいだ」
男はむっつりと押し黙る。
たちまち揚げ菓子を食べ終わったエリカはベンチで足をぶらぶらさせた。日が高くあがり、空は快晴、たまに鳥が飛んでいる。エリカはしばし、ぼうっとしていた。
気づけば、目の前に「おとうさま」の顔があった。見下ろされているとたいした迫力だ。美しさのあまり息が詰まりそうになるのは滅多にない経験だ。
「あ、あの……おとうさま?」
さすがに少し緊張感が走る。男は懐から白い布を出した。
「口元が汚れているから拭く」
「あ、そう」
大人しく拭われることにした。ややぎこちない手つきでハンカチが頬を滑る。
どこのだれだかわからない美丈夫であるが、親切な性格をしているらしい(色々エリカのためにお金を出してくれる時点でお察しではあるが)。
「ねえねえ、おとうさま。これからどうする? 娘がいて、おとうさまが揃ったなら、次はおかあさまでも調達しに行く?」
ハンカチが仕舞われた後、調子に乗ってふざけてみると、名無しの「ハンス」は何も言わない。ややあってから、「隣にいる」とだけ、望みめいたことを言ってきた。
「隣? 私の隣にいたいってこと?」
男は否定しなかった。エリカの隣にいたいと思う人々は山のように見て来たが、これほど奥手な態度を取る人もいなかった。
彼は何かを望み、伝えるために聖女の元にやってきたはずだ。「隣にいたい」のであれば、すでに叶っている。
「ずいぶんと無欲ですね。私の元に来たならば、叶わぬだろうと思いながらも、とりあえず何でも願いを口にするものなのに」
「……無欲ではない。過分な願いだろう。あなたは地上の、すべての者に愛されているから」
「それもそうですね。この世界の人は『聖女』を愛していますし、そもそもそうでなければ『聖女』は要らないでしょう」
愛されているのは「エリカ」ではない。聖女という存在そのものだ。この世でたったひとりの聖女。たいがいの者にとって、聖女の傍に侍ることは、この上もない名誉であり、喜びなのだ。彼女は周囲にいる人々の願いと期待をきちんと理解していた。
もしもエリカが「聖女」でなかったら、などと考えるつもりはない。聖女はひとり。ひとつの魂。自分という存在はどこまでも「聖女」でしかない。人間が彼女を必要とする限りは隣にいる。お前はいらないと言われたらどこへなりとも去ろうと思っている。きっとそれは当分先のことになりそうだが。
「『聖女』じゃない。あなたの話だ」
あなたの、と繰り返されて、エリカの目は瞬いた。なんだか、不思議なことを言われた気がしたからだ。
「あなたは今、『聖女』としてここにはいない。他のだれもあなたが『聖女』だと気づかない」
なんせ、今は幼女だ。聖女がいるべき仙宮にもいない。ひとりで街をほっつき歩こうとしていた。……砂時計のような自由にいた。聖女としての時間にぽっかりと空いた余暇。
「なら、貴方は聖女ではない私といることを望むのですか。それでもいいと? ……いえ、返事はいいです。どちらと言っても私にできることはほんの少しだけですから」
――服を買ってもらって、揚げ菓子も御馳走になったし。
ごにょごにょと心の中で思い、男の願いを叶えることにした。一宿一飯の恩義のようなものだ。それにこの男が何だか気の毒で。
「今は隣にいますよ。元の姿に戻り、別れるその時までは一緒に。それは約束してあげられます」
彼はこくり、と頷いた。そうしてみると、大の大人の姿をした彼が、なんだか幼く見えてしまう。
ところで。エリカにはやはり気になることがあった。
「実はどこかであなたに逢っているのかしら。あなたぐらいの美貌があったらよほど印象に残っていそうよね? ――ねえ、おしえて? おとうさまはだれなのか……」
あざとかわいくおねだりしながら、ぐぐっと男へ迫る。彼は身じろぎ、次の瞬間、ぱっとベンチから立ち上がった。
「おとうさま? ごめんなさい。ふざけすぎてしまった?」
「いや……我慢しているだけだ」
『我慢している』。なんだかその言いぶりが、エリカの知る人と似ているような気がしていぶかしむ。
「もしかしてあなたの本当の名って」
ある名前を口にしようとした時、エリカの背中に悪寒が走った。聖女の法力が『異物』の気配を察知した。聖女が治め、その法力で満ちた大地とは違う、不吉で不穏な雰囲気が忽然と現れたのだ。
――冥界の蓋が開き、魔が侵入した。
大地に人間界、地下には冥界、というのがこの世界の常識である。大地は聖女の領域であり、生者の世界。地下には死者の世界があり、死者の王、冥界王の領域だ。
人間界と冥界は普段交わらないものの、隣り合う世界だ。たまに境界がまじりあう時があり、この現象を「冥界の蓋が開く」と呼ぶ。冥界の死者は生に焦がれて人間界に姿を現わし、冥界にすまう魔物は食物である死者を追いかけて地上に出てくるが、生者と死者の区別がつかずに辺りを食い散らかす。
各地に散らばる神官たちの仕事は、聖女の代行者として死者と魔物を冥界に追い返し、開いてしまった冥界の蓋を封じることにある。
「蓋が開いたか」
男も魔の気配に気づいたようで、眼光を鋭くしながらベンチから立つ。
エリカは感心した。今の気配は聖女であるエリカだからこそ感じ取れた程度のものだ。仙宮にいる高位神官でなければ普通は気づかない。
「あなた、法力も強いのね」
男は答えずに「行くか」と問うた。
「うん、行く。……きゃあっ」
エリカが驚いたのは、男がエリカの身体を肩に乗せたからである。彼はエリカが落ちないように支えながら、幼女を軽々と運ぶ。
「走るぞ」
男は風のように駆ける。しかし、身体の芯はぶれないので、肩に乗ったエリカには安心感があった。移動する魔の気配を追い、
「おとうさま、あっちを右へ行って」
「次を左、もっと奥へ」
「……上。屋根へ飛んで!」
男はエリカの指示に従い、少し助走をつけたかと思うと、大きく跳躍して、屋根の上まで飛んだ。法力の補助があったにしろ、高い身体能力である。
――私が知る「あの人」とは法力が違いすぎるけれど……まあ、いいわ。
「すごいのね、あなた」
男の肩がびくりと震える。褒めただけなのに。
エリカは前方を見た。明るい陽射しの下、屋根の上をのそのそと移動する黒い影がある。
「見つけた。あれね」
エリカは手首に付けた金の腕輪を抜き、法力を込めた。蛇を象った腕輪は法力を受けて、するすると「鎌首」をもたげた。
「さあ、起きて。金蛇くん。――行って!」
主人の意を受けた金の蛇は、矢のように影へ迫り、あっという間に影を締め付けて捕らえた。エリカがちょいちょいと人差し指で合図をすると、蛇は捕まえた影ごと戻ってきた。
影というのは女の死者であった。それもまだ若い。娘か若妻といった風貌で、視線はおどおどとしていて落ち着かない様子である。うー、うー、と唸っている。
エリカはじっくりと女を観察して、
「変ね」
「変だな」
男と声を合わせていた。男はエリカに目で続きを促した。
「ひとつ、冥界の蓋を潜り抜けたわりに弱すぎること。ふたつ、今は悪寒がないこと。みっつ、冥界の蓋が開いて間もないはずなのにここまで死者が離れることは珍しい。よっつ、なぜ昼間に冥界の蓋が開いたのか。冥界の蓋は闇の深い夜に開くことが多いのに」
エリカが指で数え上げると、男の方も意を得たり、と頷いた。
「死者から話を聞くか?」
「できないわ」
エリカは金蛇に命じて、女の口を開かせた。女の口には舌がなかった。
「舌と一緒に魂が傷つけられている。意思があっても、伝える術がありません」
そして、法力は死者との相性が悪い。傷つけ、消滅させたりはできるが、その意思を正確に汲み取る術には秀でていない。しかも相手は弱っている死者なのだから、エリカが法力を注げば、壊れてしまいかねない。
「だが理性は少し残っているようだ」
「根気よく聞きだしていくしかありません」
男は何かを考え込んでいるようだ。
舌を切り取られたのは生前のことだ。おそらくこの死者は不本意な死に方をしている。冥界の蓋が開きやすいのはこうした死者の無念や妄執が吹き溜まりやすいところで、蓋を開けて出てくる死者も、己の所縁に引き寄せられ、その蓋から出てくることが多い。
聖女は人間界を統べる存在だが、彼らの心の中までを操ることはできない。人間の浅ましい業は変えられない。
エリカは嘆息した。
「すぐに解決できる問題ではなさそうです。ここでこの地を統括する神官の到着を待って」
言いかけた聖女がふと気づいて、もやっとする胸を押さえた。
「……昼間に冥界の蓋が開いたとして。開かせたのが、この女性ではなかったら……?」
今、背中に悪寒が走らないのは、女の死者ではなく、別の何かに反応していたとしたら。それは昼間に出てこられるほど凶悪で。弱い女は、それから逃げて来ただけだったら。
エリカは神経を集中し、気配を探った。町中に法力の網を張り、少しずつ狭めていく。不審な場所がないか。闇の深い場所がないか。
「……あった」
エリカは北の方角を指さした。エリカをずっと抱えていた男は「連れていく」と言葉少なに答える。エリカは女の死者を向くと、「申し訳ないのですが、あなたを連れていきますよ」と言い、金蛇を彼女に噛みつかせた。金蛇の口は恐ろしく広がり、蛇が女を丸呑みした格好になる。そして、金蛇は腕輪となってエリカの腕に戻った。そして腕輪の蛇の口元に新しく真珠のような飾りがついた。女の死者の形を法力で変えたのだ。
男はその様を片眉をあげて興味深そうに見ていたが、すぐにエリカが指す方向へ駆け出した。
「ここか?」
「うん。下ろして」
彼はエリカを肩から下ろした。
二人が辿り着いたのは、廃屋の片隅にある井戸だった。だいぶ使われていないようで、井戸水を汲み上げる滑車が壊れて残骸が散乱し、雑草も多く茂っている。
「井戸であれば、すでに穴が開いているから、冥界の蓋が開こうと目立たないわけか」
「ずっと使用されている《生きている》井戸であれば、蓋も開かないのですよ。地下の水脈が常に流れ続けていて、淀んだ空気もたまりません。ただ、この井戸は死んでしまっていて、それも神官が清めた後で埋めたわけでもなさそうだから、蓋も開きやすくなっていたようです」
エリカは法力を補助として使いながら、井戸を覗き込む。黒々とした闇が延々と広がっているようだ。不穏な風が下から上へ吹き出している。明らかに地上の風ではなく、濃くねっとりとまとわりつく、冥界の風だった。エリカは鼻を摘まんだ。
「臭いますね。ひとまず、冥界の蓋を仮に封じておきましょう。他のものが出てこないように」
手をかざすと、金色をした法力の糸がしゅるしゅると指先から伸び、井戸を網状に覆う。
「あなたの予想は外れたのでは?」
男はふと言った。
「ここには冥界の蓋以外に何もない。女の死者がひとり出て来ただけのようだ。女を冥界に追い返せばそれで終わりではないか」
「その女には舌がなかったでしょう? 魂が傷ついていた。死ぬ時にそうそう魂が傷つくことはないし、傷ついた魂で冥界の蓋をくぐってくるのは相当なことですよ」
それに、井戸にある冥界の蓋を封じたはずなのに、この辺りに漂う冥界の気配はちっとも薄くならないのだ。
「ならば、《死者の声》を聞くか」
「法力では難しいのに、どうやって……」
いつのまにか、男はその腕に竪琴を持っていた。弦は6本。軽く触れると、世にもたおやかな音楽が鳴り響く。繊細な指使いだった。
エリカは男の指から、法力とは違う力を感じ取った。並みの神官では気づかないほどに微弱な力だ。法力が陽であるならば、その力は陰。世間では『魔力』と呼ばれている。
しかし、魔力を使用しているにも関わらず、竪琴で紡がれる音色は繊細で美しい。甘い天上の調べだ。
耳を澄ませているうち、女を捕まえていた金の腕輪がするりと手首から抜ける。蛇はとさりと草地に落ちて、ゆらゆらと頭を揺らした。
「……金蛇くん。酔っ払ってる?」
蛇はエリカの問いに一瞬びくっとしたものの、頭を振り続けた。どうにも彼の意思に反した行動のようだ。蛇はそのままぽとりと口元の石を吐き出した。
石が変化し、若い女の死者が現われる。女はきょろきょろと辺りを見回し、怯えた様子を見せたが、男の竪琴の音色に気付くと、竪琴に近寄っていく。
男は竪琴の曲調を変えた。途端、竪琴から夜の霧のように魔力が女に降りかかる。女は男へ口をぱくぱくと動かした。男も会話するように頷いている。
ぴん、と男が竪琴の弦を強く弾いた。女に降りかかった魔力が、廃屋へと吸い込まれていくのを見て、彼は竪琴を引くのをやめた。
「何をしたのですか?」
「竪琴を媒介にその女と話をした」
「なんと言いましたか」
魔力を使って? とは聞かなかった。
法力は生者のための力、魔力は死者のための力だ。元々、魔力の性質は、死者を慰めることに長けている。
――本当に、この人はだれかしら。
ここまで魔力の気配を隠し、魔力を法力に偽装したまま、聖女を欺ける男もそうそういまい。
エリカは男が自分を気にしているらしいことに気付いていたのだが、あえて魔力のことは何も言わないことにした。
「――自分は舌を切られ、井戸に落ちて死んだ者である。冥界にうまく渡れず彷徨っていたところ、恐ろしいものを見たから逃げて来た、と告げている」
「恐ろしいもの?」
男は「恐ろしいもの」の正体を聞くため、もう一度竪琴を弾く。すぐに男は何かに気付いたように、視線をエリカへ向けた。
かさかさっと音がしたと思ったら、二人に近づく人影があった。腰の低い老人が歩いてきて、エリカたちを見つけるや、眦をきりりと吊り上げ、拳を振り上げた。
「ここは遊び場じゃねえぞ! 勝手に入るなっ!」
「おまえはここの主人か」
闖入者に竪琴を持ったままの男が問う。
「主人じゃなかったらなんだ! 出ていけ!」
男の足元で、女の死者は背を向けたままぶるぶると震えていた。老人を見ようともしない。
「うん、これは」
「なるほど、な」
エリカも男も同じ結論に至ったようだ。
「金蛇くん、縛って」
彼女の命に従った蛇は瞬く間に全身で老人を縛り上げた。
「何をする! 法力を悪用する神官崩れが! この屋敷には、おまえらにやるものなど何にもないわい! 放せ放せ!」
地面に転がりながら毒を吐く老人に、新鮮な心地を覚えた。いつも万人に敬われる聖女が「神官崩れ」という暴言を浴びせられることはそうそうあるはずもない。今はこんなにプリティーな幼女に、「神官崩れ」。神官の中にはごくたまに少女のような容姿の者もいることにはいるが、さすがに幼女はいない。
「残念ながら、これも故あってのことなのですよ、おじいさん」
エリカは言葉遣いを丁寧なものに変えた。幼女から急に大人びた言動が出て来たことに、老人はわかりやすく目を白黒させる。
「ひとつ、確認したいのですが。……あなたは、自分が先ほどまで何をしていたか、覚えていますか?」
「はあ? んなもん、飯食って、外に出て散歩して、グーグーがとろとろ動いてやがったから蹴ってやったんだよ!」
「グーグーとは何です?」
エリカは冷静に訊ねた。
「ああん? グーグーったらグーグーだよ! 働きますと言ったから雇ってやったのにちっとも動きやがらねえ。その代わりに文句ばかり言って、ピーチクパーチクとうるせえ。……あ、グーグー! そんなところで寝てやがったのか! こいつめ! こっち向け、はよ働かんか! ぐえっ」
老人が悲鳴を上げたのは、急に男が老人を蹴り上げたからだった。
「聞くに堪えない声だ。悪人はどこへ行こうが悪事を働く。それが地上か冥界かという違いだけだ」
男は腰を下ろすと、老人の懐をまさぐり、小さな巾着袋を取り出した。ぶるぶる震えたままの女へと投げる。
「そこにお前の舌が入っている。持っていけ」
女はそろそろと巾着を持ち、大事そうに胸に抱えた。
「ねえ、あなたにお願いしてもよいでしょうか?」
不思議そうな顔になる女。エリカは自分の右隣に佇む少女に目をやった。
エリカが今着ているワンピースの本来の持ち主である。少女の死後、両親がワンピースを売ったのだろうが、ワンピースと一緒に本人の霊もついていたのだ。古着屋で会った時は自分のことも忘れかけ、ほとんど消えかけていたのだが、冥界の蓋近くにいる今は少し元気になって、きょろきょろと周囲の様子を伺っている。今であれば言葉も通じるだろう。
「この子も一緒に冥界に連れていってあげてください。あなたと一緒で行き先もわからずに、ずっとひとりでいたみたいだから。暗い冥界の道でも、ふたりで行くなら悪くないと思いますよ」
女はエリカの隣の少女を見た。少女は不思議そうな顔をしたままだが、女がにこりと笑顔で手招きすると、安心したように寄っていく。
「聖女から祝福を送ります。どうか、次の生では苦しみの少ない人生でありますように。……もしもその子が気に入ったなら、今度は姉妹として生まれてきなさい。お互いを支え合えるように」
二人はしっかりと頷いた。
エリカはほっとして、女のために井戸に張った法力の網を緩め、冥界の蓋を開けてやる。女と少女は、ふらふらと井戸へ歩いていき、井戸のふちに手をかけたと思ったら、ふっと消えた。
残ったのは蓑虫のように転がる老人のみ。男は老人を乱暴に担ぎあげ、
「冥界追い返すか」
と、いとも簡単に言ってのけるのに、さすがにエリカも苦笑いした。
元々、エリカの目には老人が生者には見えていなかった。井戸のあるこの廃屋の元の主人だったのだろうが、とっくに死んでいる。死者の濃い匂いをぷんぷんさせているどころか、悪霊の類に成り果てていたのだ。
事情はこんなところだろう。
老人と若い女は主従関係か何かで、老人は女を虐げていた。何かのはずみで女の舌を切り落して殺した。死者となった若い女は舌とともに魂を損なっていたため、彷徨い、老人の方は死んだことに気付かないまま、悪霊と化し、冥界の蓋を開いたのだろう。
普通の神官なら、生きるか死ぬかの緊張感をもってことに対処しただろう相手だ。それを適当に扱える男はただものではない。
「ええ、ちょっと待って。金蛇くんを外すから……」
老人を井戸から冥界に戻すため、エリカは金蛇を腕輪に戻した。老人はどこかのタイミングで気を失ったらしく、ぴくりとも動かない。
だが、一瞬のことだった。老人は井戸に落ちる刹那、かっと目を見開くと、エリカのいる方へ口から何かを飛ばした。
とっさに右腕でかばうと、邪気を受けた袖はゆらりと燃え上がる。
「エリカっ!」
驚くより前に男がエリカの袖を引きちぎって、井戸に投げ捨てた。エリカは我を取り戻すと、法力で井戸に開いていた冥界の蓋を閉じた。
ふう、とエリカは息をつき、己を顧みた。元々の大きさとあっていなかった服が、今は惨めに片袖まで失っている。ひどいありさまね、と自虐した。腕にある傷跡まであらわになっている。見る人からすれば不快だろう。そんなことを思っていると、男がエリカの腕を凝視していることに気付いた。
「どうしました?」
「その傷は……」
男は初めて傷を見た時からずっと気になっていたらしい。たしかに幼女には似つかわしくない痛々しい傷ではある。
「これ? 大昔に冥界王につけられたものですよ。今の冥界王ではなく、前の冥界王ですが。あの頃は冥界と地上の境目も今以上に曖昧な時代でした。冥界王も好戦的でたびたび地上を襲ってきました。この傷も、その時のものです」
気が遠くなるほど昔のことである。
エリカは歴代聖女の記憶を持ち合わせているが、錆びついた引き出しがなかなか開かないように、何もかもを思い出せるわけでもなかった。
「冥界王がどんな人か知っていますか? 今の冥界王は自分の顔を晒さないようで、話があまり伝わってこないのです」
噂話では、と男は前置きをした。
「顔がいい」
「かお」
エリカは半眼になる。彼は続けて、
「彼は決して聖女には手を出さないだろう」
「それはなぜ?」
「彼はただの人間だった時、聖女に助けてもらった恩がある。案外、義理堅いと言える」
「聖女に好意的だということですか」
男は黙り込み、遠くを眺めながら「ちがう」と言った。
「憎らしい女だと思っているのだろう」
「憎らしい」とは全然思っていないような声音だった。
しばらくすると、廃屋での騒ぎを聞きつけた町の神官がやってきた。廃屋の周辺をあれやこれやと調べ回り、近所の人びとに聞きこみをした。
「ふむふむふむ……! なるほど、二十年ほど前にいた家の主人が悪いと……!」
「その下働きの娘さんが、不幸な最期を遂げられたのですね……ふむふむっ」
「そこのご主人が亡くなられて以降、幽霊の噂があったと……! お話し、ありがとうございます。どうしてか、こちらに開いておりました冥界の蓋は閉じられておりますので、皆さま、ご安心なさいますようよろしくぅ!」
生真面目そうな若い神官がいちいち頷きつつ動き回っているのを、エリカと男は近くの高い建物の屋根から眺めていた。耳を澄ませていると、先ほどの二人のおおよその事情も答え合わせができた。
「いくら何でも、舌を切り取るのは残酷ですよ。彼女にも言いたいことはたくさんあったでしょうに」
言わせたくなかったから、ああしたのだ、と男は冷淡に返した。
「世の中には残酷な人間など山ほどいる。単に声を聞きたくない、という理由だけで舌を抜ける人間もいるものだ。多種多様な人間がいる以上、どうしようもないことだ」
すでに空は茜色に染まっていた。夕刻を告げる鐘の音が重く響き、夜の到来が刻一刻と近づきつつある。
下の路地で集まって遊んでいた子どもたちが別れの挨拶を言いながら各々の家へと帰っていくのだ。
エリカは片袖が取れたみすぼらしい服装を顧みて、帰ろうと思った。
気まぐれに町に下りたところで、自分の居場所などないのだ。険しい崖の上、仙宮にある聖女の座に在り続けるのが、未来永劫、己の使命だ。
エリカは屋根の上で立ちあがった。
「もうそろそろあなたも帰ったら? 私も帰りますから」
彼は、エリカの真意を問うように顔を傾けた。
「元の姿に戻れるのか?」
「もう戻れると思います。朝は少し動揺してしまっただけ」
彼女は自身の法力の流れも熟知しており、法力がいつもと違う巡り方をしていることにも気づいていた。そこを元に戻せば、容姿も戻る。確信したのは、金蛇を操った時だ。
エリカは目を瞑り、法力で歪んだ流れを正してやった。目を開けた時に、己の手を見た。見知ったものに戻っていることに気付き、足元も腕も確認する。
黒檀のような黒髪に、白い肌、真紅の薔薇と同じ唇の色。世界の宝石と称えられた聖女の姿がそこにある。
目の前の男にも、どう、と尋ねた。
「いつもの私に戻っているでしょう?」
エリカの視線は男の胸まで高くなっていた。
男は黙りこくっていた。もの言いたげな口元がもぞもぞと動く。
「なに? 言ってくれないとわかりませんよ」
「……き」
「き?」
「夕陽が、きれいだ」
「ん? あ、そうね。きれいだわ」
背後で落ちていく太陽を振り返りながらエリカは同意した。
「それで、かの冥界王は、地上の太陽を眺めるために来たのですか。冥界には太陽などないから」
エリカは男――冥界王をまっすぐ見つめた。
『無明白蓮』。異名ばかり流布され、本名も明らかにならない冥界王。その容姿はたしかに美しく、深い闇でも際立つ蓮の花のようだった。
「冥界は常に死者で溢れていると聞きます。死者を統率する冥界王は多忙を極めるでしょうに、地上で聖女の暇つぶしに付き合うなんてずいぶんと物好きなところがあるのですね。――いえ、これは嫌味でなくて、本当に不思議に思っただけなのですよ」
「聖女を見たかった。ただそれだけだ」
「そのために書記官にまでなるの?」
冥界王――書記官イーサンとも名乗っていた彼は唇を強く噛みしめた。
「さすがに冥界王も何年も冥界を放っておけないでしょうから、現身を寄こしているのでしょうけれど。でも、見事でした。あなたが冥界の者とは私にも見抜けなかった」
正直、聖女に恩を感じているのであれば助かった。冥界王と聖女がぶつかり合えば、地上も冥界もろくなことにならないからだ。
聖女の天敵が冥界王とすれば、冥界王にとっても逆のことが言える。ただ、聖女は昔より少しだけ弱くなった。聖女の腕の傷跡の分だけ。
冥界王は艶やかな目で聖女を見据えると、思いもよらないことを告げる。
「あなたは昨夜のことを覚えていないの?」
「昨夜のこと? ……何かあったかしら」
すると、男は思いを断ち切るような首の振り方をして、宙で真一文字を手で描く仕草をした。ぱっくりと藍色の空が切れ、冥界の蓋が開く。人一人分が通れる大きさになると、枠に手をかけた。
「さようなら、聖女猊下」
振り向きざまの顔に、涙が浮かんでいるかと思った。
冥界王……イーサン。彼は一体、何を思って地上にいたのだろう。
その姿が穴の奥に消え、跡形もなく蓋が閉じても、エリカは辺りが暗くなるまでぼんやりと佇んでいた。
エリカは元の居場所に戻った。
仙宮で彼女の帰りを待ちわびていた神官長は彼女の姿を見て安堵したようである。
「書記官のイーサンはいますか?」
「本日は休みだったはずですが。呼ばせましょうか」
「いえ、いいわ。明日にします」
なんとなく、予感はあった。
次の日、神官長は書記官イーサンが突然辞職した旨を伝えて来た。有能な若者だったのに、と嘆く神官長は彼を気に入っていたようだ。
「彼の部屋は一夜にして空っぽとなっていました。辞表のみでどこへ行ったかすら言わぬままでした。一体、何が何だか……」
「どうしようもありません。次の書記官を探しましょう」
エリカは神官長を慰めた。今までにも何人もの書記官がエリカの傍についていた。代わりはすぐに用意できるだろう。
冥界王とともに書記官イーサンも姿を消さなければならなかったのだろう。聖女に正体が露見してしまったから。
――私は気にしていない、と言ってあげればよかったのかしら。
そんな考えが頭を掠めた。
聖女もたまには酒を嗜む。責務を忘れ、酔っ払いたい夜もある。
ちょこちょこと林檎酒で舌を湿らせていると、つい先日も同じようにしていたといううすらぼんやりとした記憶が浮かび上がってきた。
『猊下、飲みすぎです』
『うふふ。いいでしょう? イーサンにはあげません!』
『私は要りません』
――そう。酔っ払って、なぜかそこにいたイーサンに絡んだ記憶である。
『あなたはほんとーに、堅物な人よね。好きな人はいるの?』
『……言いません』
『うふふ。いいでしょう。そうそう、今日ね、大祭に出たでしょう? そこでついはしゃぎすぎちゃった小さな子が転んだのを助けたじゃない?』
『はい』
『その子がすごくかわいくてね、素直で無邪気だった……。私も子どもになりたい』
『一度、大人になったら子どもには戻れませんよ』
『法力で何とかならないかしら』
『やめてください』
『……いえっ。なるわ、もう決めちゃった! 私は! 子どもに! なる!』
『もう寝ましょう』
イーサンはテーブルで管を巻くエリカをそっと横抱きにして、寝台の上に下ろした。そのまま離れようとする腕をばしっと捕まえるエリカ。
『……世の中の父親は、寝る時、額へおやすみのキスをするものだって昔聞きました』
『やりません。父親じゃないんですから』
『ちゅー』
彼は感情の読めない目でエリカを見下ろしていたが、やがて寝台の上に片膝を乗せて、エリカに近づいた。目と目が、唇と唇が互いに焦がれるように距離を詰めて――重なりかけた瞬間に、男の方が目を覚ましたかのように退いた。
『イーサン?』
『飲みすぎだ、猊下。私のような者を近づかせてはいけない……』
イーサンはエリカの目蓋に指を置く。ひんやりした指に気持ちよさを感じたと思ったら、意識が急に遠くなったのだ。
『それでも、近くに……少しでもいられるなら。あの時、幼子の時分に助けられた恩を返して……』
今、林檎酒は空になっている。涼しい風が部屋に吹きこみ、開け放たれた窓からは大きな月をのぞむことができた。
エリカとイーサンには、エリカの知らない縁があるのかもしれなかった。しかし、それはイーサンの口から聞かない限り、答え合わせは叶わない。
「なんだか前よりさびしくなってしまったわね」
ひとりごとも広い部屋の中で響いて消える。誰も耳にする者はいない。
――さようなら。聖女猊下。
彼が最後に告げた言葉。彼はあの時から去るつもりだったのかもしれない。知らず知らずのうちに近づきすぎて、彼はそのことを恐れた。だから最後と思い、幼女のエリカの前に本来の姿を見せた……。エリカに、見つけてほしかったから。
――いいえ。また……暇になったら来たらいいのよ。あなたもきっと――ひとりきりのさびしい身の上なのでしょう?
本心を押し殺すしかないと思っている、可哀そうな冥界王。彼もまた同類を求めて、逢いに来たのだろうから。
聖女は酔いながら深い眠りへ落ちていった。
聖女は一人きり。百年に一度生まれ変わり、地上を統べる。その美貌は《涙雨薔薇》と賞される。
冥界王は死なず。冥界を統べる死者の王。名は知られず、《無明白蓮》と恐れらる。ただひとつ欲するは、聖女の隣。今は遠く隔てられるも――いつかは。